いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

「私」という容れ物は空っぽなので、シナリオをつくりながら架空のユートピア世界の登場人物を演じている。こんな時代だからこそ、アンチテーゼとして人生を表現している。

 
ぼくの世界に戦争は存在しない。人を扇動して消費させるようなことはない。人生の貴重な資源である時間を搾取したりはしない。人間を数字で管理しないし、兵器をつくり人が人を殺し合う環境を認めたりしないし、お金で物事を計ったりもしない。
世の中に人の心を豊かにするモノやコトをどれだけ生産できるかに努め、お互いの人生を活かすために助け合う。必要でないモノを見極め、よりよい未来のために今を生きている。そのために社会に参加し自分で考え行動する。
 
人間が人間らしく生きれば、そこに「生活」がある。生活とは人間が生きるうえでの基本単位であり、その基盤のうえに暮らしが成り立っている。人間の豊かさとは、生活の豊かさにあって、決して預金残高や資産や年収で計られるものではない。
 
生きる芸術を実践する生活者として目指すのは、自然を利用したD.I.Yな暮らしだ。生きる芸術はここにある。つまり、人生についての思考や行動の現れがこの芸術を作り上げる。ギャラリーやキャンバスにアートは存在しない。アート作家と鑑賞者の心に存在する。
この観点から現代社会の利便性を利用しながら、生きることを表現のひとつとして提案している。試しに食器のひとつでもつくってみたらいい。火と水と土から生まれるカタチがどんなに美しく自然に近いことか
 
ぼくは人生と芸術を結びつけた生活空間をつくる準備をしている。「なんのために生きるのか」に行動で答えるために。
なんのために生きているのか。ぼくは何度でも問う。なぜなら、この世界は狂っているから。世間が作り出した常識は、いつもそれなりなフリをした答えを用意する。しかしそれは過去からの統計でしかなく、まるで出鱈目で役に立つことがない。こうだと当たり前にされていることを受け入れるな。疑え。どうしてそうなるのか考えろ。先輩アーティストが教えてくれた。

生活に関わるすべてのものは本来、自然から与えられていた。それらを加工して使い勝手をよくしたモノが商品になった。
それぞれのモノについてD.I.Yしてみれば、何でも作品になる。ザンビアで建てた泥の家の技術を使って、つくったモロッコ式の泥の窯は、D.I.Yな暮らしの芸術だ。ここから器や瓦やパンを生産することができる。
 
200年前には、日本でもそれらをつくって暮らしていたし、アフリカのザンビアでは、いまもそういう暮らしがある。同時代に世界中に点在するライフスタイルをミックスすれば、未だ体験したことのない快適な暮らし方をつくることができる。
 
日本人がその人生の時間を、労働対価のほとんどを注ぎ込む家も100年前には、移住小屋と呼ばれる簡易的なモノでもあった。その日本の原始的な家のカタチを、僅か数行だが生き生きと描いた今和次郎の「日本の民家」に見ることができる。

「彼らは木の枝や細い木の幹を切りとってきて、地につき立てて柱とする。枝の叉がでているとそれが棟木を架けるのに利用される。縄でそれらは結びつけられる。棟木とそして小枝の母屋や垂などは、またそれらに結びつけられる。柱間には細かい枝が集められて横にたくさん結びつけられる。それらの上に草や藁が載せられて屋根が作られ、壁はまた藁や草や柴が結びつけられてできる。」

この原始的な家を表現して、近現代の暮らしとどう違うのか、何をお金で買っているのかを暴きたいと企んでいる。むしろ消費から遠く離れて、自然から暮らしをつくり直すことができないのか。
 
日本の現在の住宅は「安全」という不確かなものを商品にして荒稼ぎしている。家が壊れたら全を買ったのに!と叫びながら、ぼくらは保険会社に請求できる仕組みになっている。保険会社はやたらに賠償金を支払えないので、住宅はより頑丈さを求められる。もはや目的は、命を守ることではない。
確かに都市部では地震や火事などで近隣に迷惑を掛けてしまう不安はあるが、まさにその不安こそがビジネスの対象になっている。不安ならば、自分で安心を作り出せ。つくれなければ、どうやればできるかやってみろ。それがD.I.Yだ。
 
家が崩壊するほどの地震がいつ来るのだろうか。地震が来て失うほどのモノやコトを抱えない生き方こそが「安心」なんじゃないだろうか。自分自身の手で安心をつくれれば、他者に安心をつくる余裕すら生まれてくる。そこに本来の意味での仕事が現れてくる。
 
いままさに、この地点を研究している。
 
グーグルのCEOが10年後には、いまある仕事が進化と共に消滅すると予言して話題になったが、ぼくはいままで失われてきた仕事が復権すると予言する。なぜなら、人間は社会的な生き物で、人と人の間にある協力関係のなかでしか生きられないからだ。その関係性が仕事をつくりだしている。特に自然に近い、人の手でしかコントロールできない場面に価値が増すと考えている。
 
社会は矛盾のなかを揺れ動いている。答えはひとつではないし、ある方向に激しく傾けば反対側が台頭してくる。
 
ぼく自身の活動は、いわゆる芸術やアートという領域から離れつつある。これはこれで順調にフィールドを広げている証拠でもある。誰も芸術を見出してなかった地点に、芸術家として立とうとしている。日常という現実に非現実の社会をつくり出そうとしている。重要なのは、その過程に至るひとつひとつの瞬間を切り取って作品として表現できるかどうか。フレーム化できるかどうか。そこに作家としての力量が問われている。
 
まずの作品として完成させたいのは津島市宝町の長屋だ。いま乾燥させている陶器も焼きたい。釉薬も施して食器にしたい。究極の生きる家づくりをしてみたい。今和次郎が描写した移住小屋を建てたい。そうしたら、移住小屋をあちこちにつくって、ボートもつくって旅をした体験を記録したい。
 
夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/