いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

考えてみる。なにがしたいのか。何回尋ねてみても新しい答えがある。 残念ながら、なにもしないでのんびり暮らしたいとは微塵も思わない。

生きる芸術=人生をつくる。この作品をつくると決心したら道が開けた。その方向は見えても、すぐに行き止まりで、道もつくらなければならない。だから、思ったほどには捗らない。

実験のつもりの生活
ポーズばかりを決めていても始まらないので、その役をしっかり演じることにした。実は、何だって選ぶことができる。明日の朝、突然山に登ることもできる。成田空港で買えるチケットで海外に飛ぶこともできる。


とても小さな社会に生きている
自分でこの暮らしを選んでつくっている。絵をつくり、友達に頼まれた少しの仕事をして、知り合いの仕事を手伝い収入を得る。これは都市型の自給自足だ。

食事は至って質素。スーパーの見切り品を買って無駄を省く。電子レンジが壊れて、さらに簡素な暮らしになっている。仕事にいくときは、お弁当持参。作品をつくるときは集中するので家から出ない。1円も使わない。買う材料もあるが極力拾う。生産が消費を超えた。数年前に理想した暮らし。手にいれてみれば、とても単調なミニマルな生活。

ほとんど友達と遊びに行くこともなく、友達に会うのは仕事の打ち合わせ。10年以上やってきた音楽の仕事も少しだけしている。好きでやめられないことだけ続けている。

少しの仕事が集まって生活を支える経済になる。庭で採れた野菜で食事を賄うように、身のまわりに仕事をみつけ、そのニーズで生活している。

考えは飛躍する
現実を離れ遠くへと。生きるにはお金が必要。お金を得るために社会と交わる。社会は、人と人の間に生じる。人は人と言葉を交わし気持ちを交感し、貨幣を交換する。どうして友達に対価を支払わないのだろうか。

ぼくがつくる小さな社会では、対価を交換する。それが小さな社会を立体的な構造にする。労働力、愛や気持ち、未来への可能性、次の仕事、貨幣経済以外の対価はいくつもある。お金ではなく対価で計る。

小さな社会のなかに実社会と同じものを見出すことができる。そのひとつひとつを翻訳して、ネガティブをポジティブに変換してみる。飛躍から着地させて、少し止まって考える。それを「歩く」という。

人生の最小公約数は日々の暮らし
その最小単位のなかに芸術をみつける。暮らしという単位は、家に宿る。家は、無名の職人や大工たちが手掛けてきた素晴らしいアート作品だ。すべての人間が必要としてきた巣。巣を人は自分でつくらない。

「巣」これは、とても重要なコンセプトだ。巣という概念を失った動物=人間。それに気がついたので行動してみたい。巣は身の回りの材料でつくる。サバイバルアートによるコラージュ。

ボルダリングで学んだオブザベーションによる観察
日本全国にある空き家・古い家の活用計画について。どこでもやっていることだが、違うポイントは、家主をサポートすること。空き家の問題が資源になるまでサポートすること。空き家問題は複雑な問題が絡み合う。その問題を家主それぞれの状況に合わせて取り組む。

主体は家主。ぼくは貰う訳でも買うのでも借りるのでもない。空間をアクティブにする社会彫刻をしている。たくさんの物語が横軸になって小さな社会は、波紋を広げる。

ぼくはせっせと縦糸を伸ばして、いくつもの横糸が縫われて文様が生まれる。横糸は、それぞれが走る。ぼくは、人生という縦軸を伸ばしていく。出会った人との物語が、タペストリーを描く。人間賛歌。

夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/