いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

どうして働くのか。24時間はすべての人間に平等に与えられた資源。その使い方について

1週間は7日で1日は24時間ある。すべての人間に与えられた人生という作品をつくるための材料だ。幸いなことに時間の売買は、まだ始まっていない。時間は持ち主が自由に使うことができる。しかし、ほんとうにそうだろうか。朝起きて寝るまで、どれだけ自分の時間があるんだろうか。

経済という人がつくりしもの
いまのところ、ぼくの仕事はボルダリングジムのプロモーション。ジムのチラシをつくり配布している。お店を回って営業したり駅前で手渡しで配っている。ジムは新宿駅が最寄りで、駅前は人間で溢れている。人の流れを観察して興味ありそうな人にチラシを渡す。夜6時を過ぎれば、仕事を終えたひとたちが意気揚々と街へと消えていく。

「さあどこへ飲みに行く?」

ジムのチラシを置いてもらうためにデパートの店舗をまわれば、人々は、何かを求めて徘徊している。服やら家具やら食べものやら。一体、こんなにたくさんのモノをどうやって売り流通させているんだろうか。
休日には欲しいモノを買いに出掛け、またモノを買うために働く。社会は、そうやって経済を循環させている。

社会は人類のために人間のために機能しているのではなく、それ自身を成長させる原理のもと動いている。一方で、ぼくら人間は自分自身を成長させるために働いているのか。


2013年にヨーロッパとアフリカを旅して見てきた人々の暮らしに影響を受けて、生き方が変わってしまった。「働く」という意味が変わってしまった。なんのために会社に通うのか。お金を得るためだ。会社に行けば安定した収入になり、休みもある。しかし、この仕組みに対して魅力を感じないどころか、朝から晩まで時間を売って必要もない商品やサービスをつくる意味が分からなくなってしまった。まるでSF映画に迷い込んでしまったようだ。


流れる経済のそとに出てしまった男の話
いままでの悪しき慣習を変える革命だ!と意気込んで、勘違いしているから始末に困る。
男の考えでは、アルバイトはもっとも合理的な労働である。なぜなら生まれながれにして持っている時間を切り売りして、お金に換える方法だからだ。一方で、就職とは奴隷になることを意味する。

もし時間を支配するなら「お休み」という概念は必要ない。いつもが労働でお休みだからだ。

自由に使える時間がもっとも貴重で、その資源をどう活用するかで人生の価値が決まってくる。

朝起きて寝るまでの間、自分が要求する物事にどれだけ従事できるのか。自分の主人であり奴隷であるのが理想の姿。

そこで男は「仕事」そのものをつくれないかと考えた。

その仕事とは「ひとを助けることで対価を得る」こと。もし、この原理に従って行動して、社会が拒むのであれば、この世に人間の美徳は既に消えてない。あるのは怠惰、嫉妬、欲、憎しみなどのパンドラの箱から飛び出した絶望ばかり。よし!ひとつ試してみようというのが男の企みだ。

生きるという舞台芸術
できるかどうか分からないが、ぼくが仕事をつくることに成功すれば、誰でもやれる。信じて諦めなければ。それを実証したい。

経済社会の部品になるのではなく、仕組みをつくるためにNPO法人を立ち上げたらどうか、と提案してくれる人が現れた。「出資するからやりなさい」とまで言う。

名前を考えて「巣づくりのひと」という言葉が浮かんだ。巣とは動物がつくる家。動物は自然にある材料で家をつくる。もちろん自分自身で。その巣で卵を温めたり子どもを育てたりする。ここに「家」の原始的な姿がある。

社会にある材料をつかってつくること。アイディアや商品やサービスを温める場所として。そういう組織を妄想している。そのすべてを動物のように自分たちの手でクリエイトする、そういう想いを込めている。
目標は雇用をつくること。時間を切り売りしなくても働ける環境をつくること。時間を本人の所有するままに労働できる場をつくりたい。これは、社会彫刻というアートで、雇用環境がそのまま作品になる。

試みを成功させるために必要なものは何か
「勘違い」とそれを「信じる気持ち」この2つがあれば、走っていける。そして声に出して伝えること。人と人の間に社会があり、その小さな社会のなかに理想の種を植える。芽がでれば育む。

「よいか。絶望するでない。むかし誰にも知られず砂漠に埋もれた微塵であることを嘆く一粒の砂があった。数年後にそれはダイヤモンドになり、いまでは王の王冠につく一番美しい飾りになっている。」
カンディードヴォルテール