いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

ウィルスで失って気がついたこと

データのすべてを消失してしまった。原因はPCのウィルスだった。コロナウィルスで騒がれている今、まさか自分がPCのウィルスにやられるとは。

ウィルスはランサムウェアというもので、データを暗号化し使えなくして、暗号化を解除する代わりに身代金を要求してくる。金額は10万円で72時間以内にコンタクトを取れば半額にしてくれる。しかしお金を払って回復するかの保証はない。

あらゆる手段を検討したけれど、諦めるほうが早かった。PCのならず接続したHDまでもが感染してバックアップも失っていた。何より出版予定の原稿が含まれいたのが絶望的だった。

去年から本の原稿を書いて、indesignでレイアウトして、書籍のページを作っていた。それから修正を、重ねて10ヶ月ほどかけて90%完成していた。それが消えてしまったのだ。もうひとつ、過去から現在までの作品を掲載した作品集も作っていた。その2冊だけはどうしても、世の中に出したかった。むしろ失われたデータのなかで、この2つだけカタチにできれば、他はもういらないとさえ思った。

可能性は、データの復旧よりも、2冊の本を完成させることにあった。去年から書いていた「廃墟と荒地の楽園」は校正のため出版社にPDFで送ってあった。それを元にもしかしたら復活できるかもしれない。PDFをindesignで開くと、それはすべて画像になっていた。復活させるには、もう一度、レイアウトし直す必要があった。

それから4日間、この仕事だけに集中して、ついに「廃墟と荒地の楽園」が完成した。バックアップを保存して、出版社に送った。

データを失った経験は、自分自身を変えるきっかけにもなった。データを貯めることを非生産的な行為だと思うよになった。失われたのは、過去の写真、過去の作品の画像、音楽データだ。なかでも自分には音楽を集める趣味があって、これに時間を費やしていた。しかし、この趣味は個人的なもので、社会性はほとんどない。それが悪いことではないけれど、音楽を表現のひとつとして捉えるなら、その行為もアウトプットするべきだ。

本のデータを失って復旧するとき、本をつくるという技術が役に立った。身についた技術は失われない。自分の書いた原稿をプリントアウトしておいたおかげで最終形が手元にあった。最終形をデータではなくいつも現物化しておけば、それらは現実のもとなる。この現実化するところに、社会性があると気がついた。

だから音楽を聴き漁るよりも、自分の場合は詩を書くことがアウトプットだと気がついた。ぼくには、20年も続いているバンドがあって仲間がいる。今も曲のサンプルが送られてきて、それに歌詞を入れてメンバーに共有している。ぼくは、音楽に対して詩を書く、それを独自の方法で歌にするという技術を開発してきた。詩を書いて仲間と共有したとき、ぼくの音楽は社会性を持つようになる。その先には楽曲が録音されたり、ライブで演奏され、さらに多くの人に聞かれる可能性がある。

何ためにそれをするのか。社会に接続するために表現をする。ここでの社会とは、不特定多数の他者だ。他者に自分の表現を届けることを目的とする。何のためにか。自分が生きた痕跡を伝えるために。なぜ、それが必要なのか。なぜなら、それが自分の生き延びる唯一の突破口だから。

創作物を世の中に流通させる。10年前は、大きな資本が必要だった。だから、音楽で言えばレコード会社、本なら出版社が必要だった。その大きなチカラで、何千、何万を売ることが良しとされきた。けれども、何千、何万を売らなければ、それが良くないかと言えば、そうではなくて、大切なのは、創作物を届けたいところに届けるということだ。つまり、大きなチカラがないから、創作物が流通できないことより、小さなチカラでも、流通させてやればいい。それが生まれてきた表現を育てることになる。

「廃墟と荒地の楽園」は、原稿を書いて、レイアウトしてページをつくり、表紙のデザインまでを自分でやった。自分のつくりたいと思う本を作った。出版は、これまで自分の本を出してくれた出版社にお願いすることにした。快諾してくれたけれど、今までのようには出版できないという話になった。つまり、取り次店から本を配本する制度では、2000冊の初版を用意する必要があり、それにはお金が掛かり過ぎる。それだけ本を刷っても売れる保証はなく、結局返本される。もちろん売れる本もある。しかしそこには競争がある。

ぼくはそこを目指したいとは思わなくなった。作った本をもっとコツコツと顔が見える人に、本に興味を持ってくれる人に長い時間を掛けて届けていきたい。ぼくの本はそんなに強くない。強くないけれど優しいし、きっと読んだ人を助けて勇気づけるようなヤツだ。だから、出版社のチカラに少し助けてもらって、小さな本屋さんに直接卸て売っていきたい。それで1000冊売れば大成功だ。

データが消失して、コンピュータの世界にいる理由がなくって、つまり自分の居場所もPCからなくなって、するべきことが現実化した。この閃きは、かなり大きな収穫だった。その軽さにむしろ驚いている。

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見ているものは同じだ。やり方は違っても同じことを伝えようとしている。

いま住んでいる北茨城市からクルマで高速を使えば1時間のところを、経費削減と慣れないマニュアルの軽トラックでの遠征なので、下道で、城里町にある友達のキャンプ場に向かった。

2年前に友達エビちゃんは、市が使わなくなったキャンプ場を仲間と購入した。そこを改修整備しながら運営してきて、見事にその間にキャンプブームがやってきた。先週は、そこで縄文をテーマにしたイベントが二泊三日で開催された。DJとトークで誘ってもらって、初回のイベントだし予算もないだろうから、出演費については期待しないで、自分で物販をやってお金をつくることにして、炭、ミックスCD、本を持参した。

ナビのない慣れないマニュアルのクルマでの遠征は思ったより時間がかかり昼の一時半に出て着いたのは夕方の5時だった。着くと、気功の体操がはじまっていた。イベントはエビちゃんが好きな、祈りとか、スピリチュアル、神秘系から宇宙人まで、それらをひとまとめにしてneo縄文と題されていて、いきなり抵抗感はあったけれど、気功体操に参加した。

しかしやってみると、それはそれで納得の体操だった。気持ちを入れたり出したり、その循環のなかで、自分のやりたいことをコトバにして出した。ぼくは自分なりに自分を調整する方法を持っている(例えば、文章を書くこと、ストレッチ、ランニング、サーフィンなど)。それがなかったら、気功体操のようなメンタルを操作する技術を必要としていたと思う。

体操が終わって、まず物販のスペースを開いた。つまり開店した。今回は妻チフミから一万円預かって、3日間ここで飲み食いして、物販をやって幾ら持って帰ることができるのか。考えてみれば、とても基本的な話で、手元にあるお金を減らさずに増やすことができれば、なんの不安もなく生きていけるし、大金持ちにもなれるはずだ。ベンジャミンフランクリンはこう言っている。

しかしこれまでの自分は一万円は欲しいけれど、一円をコツコツ貯めて一万円にするような努力を怠っていたように思う。

我が物販のお隣はさっき気功体操をやっていた山寺雄ニさんで、話してみると、とても気さくで優しい兄貴だった。なんと、すぐにぼくの全商品をお買い上げしてくれた。すごい人だな、と思った。隣に座った誰かを全力でサポートできる人はそういないと思う。ちなみに3日間、山寺さんは、ぼくにお酒や食事を提供し続けてくれた。ぼくだけでなく、集まってくる人に食べ物を振る舞っていた。すると食べ物もまた集まってくるようになった。

今回の遠征にはもうひとつ目的があって、いつかキャンプ場をつくりたいと思っている。なので、その辺のこともリサーチするつもりだった。結果から言うと、キャンプ場をやるのに申請とかも必要なく、なんなら水もトイレも何もなくても、お客さんさえ来ればキャンプ場は成立するという話だった。つまり、水がなければ持参するし、トイレがなければ野糞でもいい。とは言え、それでもくる人はいるのだろうか、何にしても最低ラインを知れたのは参考になった。

そのほかにも収穫はいくつかあって、今まではスピリチュアルな方面には触らないようにしていた。ぼくは、スタイルに染まるのが好きではない。自分のままでいたい。まあひどく勝手なスタンスだ。けれども気功の山寺さんに出会って考え方が少し変わった。表現の仕方が違うだけで、自分のアート活動と似たところ、共通点もたくさんあるようだった。ぼくは、見えないものを信じてないわけではなく、あると思うけれど、そういうチカラを引用したくはないし、コントロールできる気もしない、だから避けているんだと思った。

ぼくに影響を与えてくれた、タロット占い師の人は、ぼくが見えないチカラを信じるようになれば、能力を発揮できると言って、君はそんなものじゃないと励ましてくれた。もう20年も前の話だ。そのとき、彼女が風を呼んで木々をざわめつかせたのを覚えている。

思い出したことがある。世界の旅に出る前、チフミが保険を契約するためにメールで申し込みをして、返事がないと言っていたら、知らない人から「亡くなった娘チフミのお母です」とメールが届いた。チフミからそれを聞いたとき耳を疑った。我が妻チフミは、メールアドレスを一文字間違えていたのだ。それが亡くなったチフミさんのアドレスだった。亡き娘を偲んでそのアドレスからメールを見ていた母のところへチフミが旅に出るために保険を申し込んだといメールが届いて、その母は驚いた。内容見て違うチフミだと分かっても、まるで別の次元で生きているようで嬉しかったと亡くなったチフミさんについて書かれた本を送ってくれた。たぶん、この出来事を霊界と繋がったと言うこともできるのだと思う。

山寺さんは霊能力的なことも持っていて、縄文のエネルギーや縄文人のメッセージを受け取ったりしている。それで何をしようとしているか、話してくれたのは、縄文的に循環する社会を作りたいということだった。

なるほどと思った。それぞれがそれぞれに影響を受けたことが、何かしらかのカテゴリーのなかで表現されて、それを人に伝えようとする。ぼくは音楽や文学やアートから影響を受けたから、そのようなコトバを通して思いを伝えようとしている。山寺さんは、人生のなかの偶然の出会いや、奇跡としか思えないこと、直観など、ぼくには未だ分からない何かを通してコトバにして伝えようとしている。

 


ぼくは生きている。確かに生きている。けれども、ちょっと油断すれば、この生は、その自由なチカラを奪われてしまう。何にだろうか。時間を奪われてしまうのだ。お金がなければ生きていけないからと、その人生そのものである時間を売ってしまう。時間を売るようになると、売れない時間を暇と呼ぶようになる。むしろ、予定のない空白の時間こそが生まれたままの純粋な時間なのに。

二泊三日、キャンプ場に滞在して、いろいろな人に出会い話しをした。最終日には、トークをした。会場が変更になって、そこにいる全員に伝えられなかったのは、ほんとうに残念だったけれど、与えられた環境、ひとりでも聴いてくれる人がいるなら、ベストを尽くすべきだし、ぼくは人前で話しをするのが好きだから、そうやって気持ちを切り替えて、話しをしているうちに予想以上に人が集まって話しを聞いてくれて、とても嬉しかった。何よりトークのあと、本が欲しいと多くの人が買ってくれ、持参した一万円は最終的に一万九千円に増えていた。

ぼくは人生という道の途中を歩いている。しかもこの道は自分で選んで切り拓いた道だ。ぼくはそもそもの道を踏み外してしまった。たぶん20歳ぐらいから。もっと前からそうだったのかもしれない。だから自分で作るしかなかった。

 

火を焚き

水を引いて

生活を

目の前をつくり

景色をみつけ

絵をつくり

それを売って

生き延びて

経験したことを

コトバにして

耕して

道をつくり

歩く

 

ひとりひとりが

生活をつくれば

やがて社会が変わる

それをいつか時代が変わったと

人は言う。

進むべき道は、歩いた先に現れる。

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「北海道の湧き水がある土地を見て欲しい」

という話からはじまって、札幌市からクルマで30分ほどの豊滝という場所を見に行った。久しぶりの旅がまさか、この先に影響を受けるほどの体験になるとはまったく予想外だった。

豊滝の竜神の水は、分け隔てなく取りに来るすべての人にその美味しさを与えていた。これこそが自然だと思った。水を取りに来ている人は1年経ってもその鮮度は落ちないと教えてくれた。

北海道に招待してくれたジンさんは、この湧き水の土地とフルーツ農家の土地を併せて、将来的にエリア化する計画で、その始まりの始まりに参加させてもらった。

今回は、この場所の視察だけかと思って長靴も用意していた。しかし、せっかくの北海道だからということで案内人にカツミさんなる人物を呼んでくれ、2日間で飛生(とびう)アートコミュニティー安田侃さんの彫刻作品が並ぶ公園「アルテピアッツァ美唄」を見て回った。そこには、これから自分がやろうとしていることの、この先のずっと未来があるように感じるほどの出会いだった。

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飛生アートコミュニティーは1986年に白老町国鉄の職員として暮らしていたカツミさんが、職員をやりながらアート活動をするという異例の働き方をしていて、廃校になる小学校の活用を相談され、国鉄からJRに変わるタイミングでそこをアトリエにして本格的にアート活動をする拠点にしたことに始まる。ところがまさかのJRで働くことになり、廃校の活動はできなくなり、代わりに国松明日香さんという彫刻家が飛生の廃校に暮らしアートコミュニティーを運営した。そのときに国松さんの子供だった希根太さんが現在、その小学校を拠点に活動していて、2009年頃からアートイベントを開催し、いまでは全国に知られるイベントへと成長していた。国松希根太さんも作家として活躍していて、いくつかのキーワード「Horizon」「過疎地」「DIY」「廃校活用」「芸術祭」等が重なることもあって、いろんな話が参考になった。縁を感じる出会いでもあった。白老町は、アイヌの里で知られ、ウポポイというアイヌの資料館を兼ねた施設もあって、とくに白老町の海の景色に惹かれるものがあった。冬のこの海の色とカタチを、いつか作品にしてみたいと思った。

その翌日には、美唄(びばい)出身でイタリアで成功した彫刻家、安田侃(やすだかん)さんの彫刻公園にいった。巨大な石やブロンズの作品が緑の大地と青空の間に配置されていて、空間そのものが素晴らしくアートになっていた。カツミさんは、この公園の立ち上げにも関わっていて、作家の安田さんが自費でこの巨大な彫刻を輸送していることを教えてくれた。当然のことながらこの彫刻の材料費も製作費も巨大なもので、それでもこの作品が欲しいと更に大きな金額が動く。お金だけでなく人も動く。カツミさんはJRのアート面をプロデュースする仕事をしていたことから、安田さんの作品を新しくつくった札幌駅に設置したエピソードも話してくれた。

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安田さんの彫刻が並ぶ公園「アルテピアッツァ美唄」も廃校を利用した公園で、体育館、学校等が展示スペースやレストランなどとして活用されている。この環境に惚れ込んで各地から移住したスタッフがNPO法人化して運営している。作家の安田侃さんが中心にいて、カツミさんがそれの実現に向けて協力したエピソードも聞いた。

飛生アートコミュニティーアルテピアッツァ美唄も、アーティストだけでやるれる仕事ではなく、多くの人の協力があって、今現在まで継続している。

ぼく自身は、茨城県北茨城市で芸術家として地域に受け入れられて、アトリエとギャラリーをつくり、さらにこの集落の景観をつくるプロジェクトへと活動してきた。ひとつずつ目の前に現れることをどうしたらアートとして表現できるのか自問自答しながら進んできた。この先に進むべき光景が、北海道の大地に展開されていた。表面的に真似ることはしないけれども、そのやり方は大いに参考になった。この先は、ぼくたち夫婦だけがやることではなく、ここに興味を持つ人たちが実践できる場として開いていくことも大切だと知った。

何より巨大な野外彫刻というお金も人も動かすスケールに感動した。尊敬するカップル芸術家クリスト&ジャンヌクロードを思い出した。大きなことができるスケールとはその器を指す。まったく飾るところがない真っ直ぐな希根太さんの人柄、北海道の地にアートを根付かせ支援する活動をしてきたカツミさん、ぼくたち夫婦を北海道に招待してくれ、これだけのモノを魅せてくれたジンさんの大きさ。

ぼくはまだ環境を手に入れつつあるだけで、何も始まっていない。むしろ、これからはじまる物語がある。近い将来、ジンさんのプロジェクトでの野外展示を目標にした。

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生活の芸術というコンセプトで展示すること

朝起きて波乗りに行った。最近の日課。少しできるようになったと思うと、すぐにできなくなる。つまりほとんど上手くいってない。これが何かできるようになることのパターンだと思っている。

今日も波を掴むまでに30分くらいかかって、それからいつもの失敗を繰り返して、どうしてできないのか考えて再トライして。ようやく問題点が見えてきた。波が割れてくる真ん中にポジションしているからで、波が割れていく途中から入っていくようにすれば、スムーズに流れていけると気が付いた。それでやっと、ここ最近できていなかった課題をクリアできた。

「サーフィンをしている」と人に言うのも遠慮するほど下手なのだけど、自分と体と自然に向き合うことが楽しいし、何よりもあるゆることに通じる哲学がここにある。

波に乗りながら考えたのは「絵を描くこと」だった。ここ数年は妻と分業制になってきていて、構図と下描きを自分が担当して色塗りと仕上げを妻がやっている。けれども、自分も色塗りをした方がいい。その方が作品の量が増える。「できる/できない」はそれほど問題じゃなくて、むしろ「やる/やらない」方が重要な選択なのだから、やるしかないだろう、と考えた。

昨日は9月の個展の打ち合わせにギャラリーへ行った。実はまともなギャラリーで個展するのは初めてで、オーナーは70代だから相当な数の作品を取り扱ってきているし、やり方も確立されている。そこで展示することは、作品の質が問われているような気がした。だからと言って何かが変わるわけでもなく、今までしてきたことをするだけだ。ギャラリーは、作品を展示して販売する場で、要約するとモノを売る場所だ。芸術品を扱っているお店だ。だからもちろん売れるモノを展示するわけだけれど、大切なのは作品がどれだけ物語るかということだ。作品を鑑賞して購入するという行為のなかに、どれだけの思考や感情を働かせることができるのか。その振り幅にアートの価値がある。

身の回りのもの、特別ではないモノ、日々の生活、そういうところにアートがある、それをテーマに活動してきて、これまでは日常のなかにアートを引きずり込んできた。それが生活芸術ということだった。ところがギャラリーで展示することで、その逆をすることになった。つまり、日常のなかにあるアートを、身の回りのモノを、特別ではないモノを、それらをアートとして展示することになった。

生活の芸術というコンセプトをギャラリーで展示する。このシンプルかつ明快な課題をクリアしたら、次の展望が見える。

アートで生きる。アートに生きる。原始からやり直し。

思いついたらやる。

それが生きるための技術で

やがて社会を彫刻する。

そこに生まれ出るかたちに

価値を与え商う

それが生活芸術。

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アートで生きる。アートに生きる。living by art , living in art. この"by"と"in"を混ぜて考えていて、それぞれ整理すると、また見え方が変わる。

変わり目にいる。やりたいと思っていたことが、いろいろできるようになり、カタチになっていく一方で、できていないことや、これからできるようになりたいことが見えてきた。

リズムだ。自由だからこそ、リズムを生み出しグルーヴさせる。ぼくたち夫婦には、絵を描くという作業が、もっとも核心となる表現活動になっている。身の回りの景色を絵にすること。その絵を描くためのパネルも額もつくる。絵というだけじゃなく、オブジェとして存在している。モノとして。その一点一点をアートと呼べる作品に仕上げる。そのボーダーはやればやるほど上がっていく。よりよいものを見たいという欲望。

何かが欲しいというのではなく、見たい景色をつくる欲望。絵だけではなく、目の前の景色をつくる。現実の世界をつくる。表現することが空想の世界をつくるのではなく、現実の世界をつくる。究極のリアリズム。

けれども自分は絵を描いていない。カタチをみつけるだけた。妻が色を塗る。分業化している。できるだけシンプルなカタチにしたい。それでも世の中は複雑だから、そう容易く単純化できない。単純を目指して複雑になって、単純を目指してを繰り返している。

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この季節になると、海に入りたくて落ち着かない。サーフィンをはじめたおかげで、毎日海に入れる。それだけで嬉しくて早起きしている。海に入って、できないサーフィンに取り組む。昨日できなかったことが今日できるようになる。

自分には学習する能力が欠けている。たぶん問題がある。というのも、学習する前にやってしまう。それが正解でなくても、その過程を楽しんでしまう。他人から見れば、全然できていなくて、それでもやってしまう。問題があるとすれば、個性が強いモノしか出来ない。もしくは他の人からすれば、奇妙なモノ、それがぼくが得意とするクリエイティブだったりする。学習を欠いた衝動的な表現。

音楽をはじめたとき、パンクの曲が数曲弾けるようになって、ギターの弦を針金に変えてしまった。鳴らすとFAXの送信音みたいな音になった。それでライブをやったり録音したりした。

バンドでボーカルをやるようになった。歌を歌いたいのではなくて、自分のやり方でメッセージを伝えたかった。ラップやポエトリーリーディングの間で、ときには叫んだり。何かに似ているのが嫌だった。誰かの真似はしたくない。真似する以前に、すでに表現の衝動がある。歌が音階に分かれる前の、祈りとか、そういう何かだと思っている。まったく有名でもないけれど、いまだにバンドは続いている。25年になるだろうか。音楽が好きだ。

それぞれ別々に芽を出している。その根っこは繋がっていて、したいことの根源にあるのは、考えること、書くこと。「書く」とは記述すること。描く、掻く、それは痕跡を残すこと。今を記録して、自分と向き合い、地図を広げて、人生の羅針盤にすること。

ぼくの活動のほとんどは、経済圏の外にあった。だからずっと居場所がなくて、彷徨っていた。仕事というカタチであれば、社会に居場所を見つけられたけれど、それはありのままの自分ではなかった。いつも違和感があった。あまりにも個が確立していて、社会人を演じることができなかった。この場合の個とは、自分の周りに纏う好きなモノのこと。自分とは空洞で、好きなモノを洋服のように纏うことで個性をつくる。しかし、そんなものはほとんど社会では役に立たないので、まるで就職してスーツを着るように脱ぎ捨ててしまう。

ところがぼくは、その服をボロのまま引きずって生きてきてしまった。ぼく自身は、未分化の野生にいる。それが性分に合っている。自分にやりたいようにやらせてみて分かった。だから野良なんだと思う。家も仕事もあるけれど、本性が野良なんだ。

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炭窯を作って炭を焼いた。すべて材料は自然で仕入れもない。肉体労働が資本の仕事。かつて貧しく底辺の労働と蔑まされた炭焼き。労働の対価としては1キロ200円で、一回の炭焼きで200キロできる。皮や崩れた炭もあるので、一回30000円。2週間の労働。

これは原始的な一次産業。だからビジネスというものを退化させて炭焼きレベルからやり直してみたら、そこから再構築したら、何が売れるだろうか。あまりにも退化し過ぎていまやっと土器を焼き始めたところだ。現代に追いつくまで1万年分の進化が必要だ。

これが次の物語のテーマになるかもしれない。原始からやり直しのアート。

生まれ生まれ生まれ、死に死に死んで。

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北茨城市でイベントをやろう」という話があると誘われてZOOMミーティングに参加した。観光庁補助金があって、それに申請して「やろう」ということだった。何より誘ってくれた人が北茨城市でイベントをやりたいと夢を温めていたので、ぜひ応援したいと考えていた。
補助金狙いの人たちは北茨城市のことは何も知らなくてインターネットで調べたことをまとめて企画書にしていた。中身はなかった。
数日後に企画を新たに、こちらがやりたい企画にまとめて先方とミーティングした。ところが、その企画は先方のイメージと違ったらしく「これじゃ助成金取れませんね」と言われ「五浦天心美術館で」「あんこうをテーマに」と企画の方向性は変わっていった。先方は助成金を獲れれば何でもよかった。ぼくたちである必要もなかった。

岡倉天心って名前を出したいから、そういう何かはないですかね? 桃源郷って場所では何をやっているんですか?」
「景観を作っています。この集落の景色自体がアートなんです。炭窯を作って炭を焼きました」
「うん、それはそれでいいですけど、岡倉天心に関連した何かはそこにはないんですか」
「すいません、質問ですが、有名ではないモノや場所を活用して、そこの知名度をあげるとか、そういう話じゃダメってことですか?」
「はい。それはインパクトがないからダメですね」

とても大事な話だと思った。目立つモノを利用して注目を集めて経済を回す。たぶん、そういうことを企みたいのだ。けれどもぼくは全く逆の場所にいる。役に立たないもの、忘れられたもの、捨てられたもの。そういうものたちが役に立つ場所をつくろうとしている。
当然ながら、企画の話は断った。ぼくは友人がイベントをやるという夢を後押ししたいだけで、助成金がきっかけになるなら、と考えたけれど、助成金のために、その夢が別のモノに変えられてしまうなら、やる意味は1ミリもない。

数年前に水のように生きたいと思った。水は高いところから低いところに流れる。水はすべての生命を潤してくれる。

だから
人より粗末な食事をして
人より粗末な服を着て
人より質素な生活をして
誰よりも贅沢な暮らしをする
を目標にした。

廃墟を改修して家をつくり、井戸から水を引いて、家の前の耕作放棄地を耕して畑にして、薪ストーブと薪風呂で暮らしはじめた。北茨城市里山限界集落で。電気は使っている。
実際は畑はあまりやってなくて、周りの人たちが畑をやって作った野菜を貰っている。季節のその土地から採れた食べ物。これ以上の贅沢はあるのだろうか。

毎日好きなことに没頭して生きていたい。会社で働くのは無理だった。ずっと思っていた。だから何のために働くのか考えた。家賃、生活費、欲しいモノ、、。それらが要らなかったら働かなくても生きていけるかも。
けれども人間は社会的な生き物だから、やっぱり働かなくては生きていけなかった。

ぼくの仕事は、妻と絵を描くこと。作品を作ること。生活そのものを作ること。生きていくための環境をつくること。そのすべてをアート活動と呼んでいる。

伝わらないこともあるけれど、ぼくを知ってくれている人が、少しずつ仕事をくれたり、絵を買ってくれたり、里山の景観をつくる活動そのものも仕事になっている。

炭窯を作って炭を焼いて、面白くて、いろいろ本を読んで調べたら、炭焼きは、職業の中でも地位が低く、厳しい労働で、それこそ貧しさの最低生活者だった。山から木を伐り出し、薪をつくり、土と水で窯をつくり、火を操って炭をつくる、人類のもっとも原始的な営みが、そういう扱いをされてきたことにブルースを感じた。ぼくの好きな音楽はそういうところからやってきたんだとはじめて実感できた。

どういう訳か、たぶん優れた人間ではないからだろうけど、真逆の方へと向かっている。けれども、競争して勝ち続けること、競争は放棄して好きな道を進む、どちら側からも生きる喜びに至る道はある。

6月15日に47歳になりました。
祖父に空海と同じ誕生日だ、と言われて
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」すごい詩ですよね。偶然にも炭窯の煙突穴は大師穴と呼ばれていて空海が発見したものだとか。俄然、空海に興味が出てきました。

まさか47歳で炭を焼くとは、まったく想像もしなかったけど、この先も、それぐらい訳の分からない方向へ進むかもしれませんが、どうぞ面白がってもらえたらです。ほんとにぼくを知ってる人に生かされているので、これからもよろしくお願いします。長引くコロナで、長い間、会えてない友達もいるので、挨拶とお喋りでした。

新作はBLOOMING
咲くという漢字のはじまりは「笑」だった。「笑」は巫女が舞う様子。それが花が咲く様子。咲く花、笑う花。

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友達と話した宗教について

バリ島の友達と宗教について話した。遠くの友達も近くの友達も、コロナの影響で距離は関係なくなってる。

インドネシアの90%がイスラム教を信仰しているけれど、バリ島だけは90%もの人がヒンドゥー教を信仰している。ヒンドゥー教は、経典よりも慣習を大切にしていて、儀式とお供え物を欠かさない。以前バリに滞在したときは、クルマにもお祈りすると聞いた。

なかでも、もっとも印象に残っているのが、バビグリンという豚の丸焼きが最高の料理で、お金持ちになっても贅沢はバビグリンの数が増えるだけで、そんなに食べられないから、周りの人に振る舞うのが豊かさになっているという話だった。ここには、生きるための共同体としての宗教の姿がある。

 

けれども日本では、宗教はほとんど消えている。宗教というとほぼ政治だったり、新しい宗教だったり、日本人が長い歴史のなかで共にあった宗教の姿は見えない。どこへ行ってしまったのか。

 

アフリカを旅したとき、タクシーの運転手に何を信仰しているか、と質問されて無宗教だと答えたら、驚いていた。

「じゃあ、一体この世界はどうやってできたか知らないのか? なんてことだ。教えてあげよう、神さまが創ったんだよ」と話してくれた。運転手さんはキリスト教だった。

 

ぼくの祖父は、朝昼晩、仏壇に向かってお教を唱えていた。浄土真宗だと聞いたことがある。けれどもぼく自身は具体的な何かを信仰する習慣がない。

 

それでも宗教には興味があって、というのも聖書は、物語として最高傑作だ。とくに旧約聖書に記された物語は、それが事実なのか空想なのかを超えて、これ以上ないスケールでこの世界を描いている。ノアの方舟バベルの塔、アダムとイブ、リンゴと蛇、どれも最高に面白い。

 

今読んでいる「ツァラトゥストラはこう言った」は預言者の形式を借りて著書ニーチェの思想が伝えられる。これも聖書をかなり引用している。この設定も漫画ほど単純明快で、そのうちこれをネタに小説を書きたいと思っている。まあ、そのうちとか言ってないで、すぐに始めた方がいい。

 

宗教でもっとも好きなエピソードがイスラム教のはじまりだ。商人のムハマンドが洞窟で姿のない人間ではない何者かに話しかけられ、驚いて逃げて帰り、妻に悪魔に話しかけられたと言うと、それが悪魔だとどうして分かるのか、戻って話を聞いた方がいい、と催促されて、神の教えを聞いた。それがコーランになった。その布教を親戚からはじめて、街に広がり、隣街へと拡大していき、長い年月を経て世界三大宗教のひとつになっている。

しっかりと先行して存在していたユダヤ教キリスト教との差別化をしていて、前の二つは神の教えを聞いた者が信仰の対象になっている。決してそれは神ではない。神を信仰しなさい。このイスラム教がほんとうで最期の教えだ、と説いている。

 

イスラム教とはコーランを信仰することで、それだけではカバーしきれないので、新たな解釈をすることで時代の潮流を乗り越えてきた。ところがなかには、深読みが過ぎて、さらなる宗派へと分裂して対立が起きている。新たな解釈を探究するけれど、それは死と隣り合わせで、間違えば神の言葉を利用したことになって、死刑にされてしまう。宗教内ではそんな戦いがあったりもする。そんななかでイスラム神秘主義とは、コーランの教えを深く読み解いて、そこに書かれていないことすらも、教えとして解釈していく。究極的には、自分自身のなかに信仰するべき声があるという。

 

ぼくは神という存在を宗教が描いているものとは違った感覚で捉えている。ある意味でイスラム神秘主義の自分自身のなかにある直観に従うことに、生きるという点では、進むべき道を照らしてくれる何かがあると思っている。

あと仏教については、習った訳でもないけれど、日本人だからどこかに染み付いているだろうし、茶道からとても教わることが多い。岡倉天心は、明治時代に「茶の本」を英語で書いて日本人にとっての芸術観を西欧に伝えた。

どうしてお茶なのか。天心は茶道そのものを伝えたかったのではなく、それまで日本には存在しなかった芸術という概念をもともと日本にあったもので伝えようとした。というのも「アート」いう言葉が明治時代に輸入されるまで芸術という概念は存在しなかった。浮世絵とか陶器とか書とか、それぞれの表現はあったけれども、それらをまとめる概念がなかった。だから天心は、茶道を代わりに持ち出して、あの本を書いた。あの本には、アートが輸入される前の日本人の芸術とは何かが書かれている。そうやって読み直すと、自分のなかに西欧とは違う芸術の血が流れていることを知る。

今では型式化してしまった茶道の、侘び寂び、それを探究するその奥に仏教がある。竹と木で作られた鄙びた小屋を茶室とすることや、名もない陶工がつくった古くて歪んだ茶碗を傑作とすることには、いまの日本人が忘れてしまった信仰の姿を感じることができる。贅沢とは真逆の、美しいと醜いを超えた、貧乏人も金持ちも、誰もが涅槃へと到達できるような、そういう芸術的な態度が茶道のなかに埋まっている。

 


だから、自分が追求している生活芸術は、宗教にも近い態度だと思う。けれども、それは自分のなかでの信仰であって、誰かに伝えるものでもない。宗教は、ともすると残酷だったり凶暴になりかねない人間を抑制するための、道徳だったのだと思う。けれども、その教えを説くものたちが、それぞれの都合で解釈をし続けて、何やら神様に近しいようなフリをして、そのような場所に居座って、宗教そのものの教えを台無しにしているように見える。偉い人間なんてひとりも存在しないのに。その椅子から降りて泣いている人を救い給え。と言いたくなる。


ニーチェはこう書いている。

「どうして金は最高の価値を持つようになったのか。それは金がありふれたものでなく、実用的でもなく、光を放ってそれが柔和だからだ。金はいつも自分自身を贈り与えている」

 

自分自身を贈り与える。

自分が輝きながら、その輝きで人に価値を与えるようなことだろうか。その輝きは、純粋だから光を放っている。純度が高いゴールドになることは難しい。石ころでもなれるだろうか。仏教はその問いに対して、イエスと答えてくれる。