いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活の芸術というコンセプトで展示すること

朝起きて波乗りに行った。最近の日課。少しできるようになったと思うと、すぐにできなくなる。つまりほとんど上手くいってない。これが何かできるようになることのパターンだと思っている。

今日も波を掴むまでに30分くらいかかって、それからいつもの失敗を繰り返して、どうしてできないのか考えて再トライして。ようやく問題点が見えてきた。波が割れてくる真ん中にポジションしているからで、波が割れていく途中から入っていくようにすれば、スムーズに流れていけると気が付いた。それでやっと、ここ最近できていなかった課題をクリアできた。

「サーフィンをしている」と人に言うのも遠慮するほど下手なのだけど、自分と体と自然に向き合うことが楽しいし、何よりもあるゆることに通じる哲学がここにある。

波に乗りながら考えたのは「絵を描くこと」だった。ここ数年は妻と分業制になってきていて、構図と下描きを自分が担当して色塗りと仕上げを妻がやっている。けれども、自分も色塗りをした方がいい。その方が作品の量が増える。「できる/できない」はそれほど問題じゃなくて、むしろ「やる/やらない」方が重要な選択なのだから、やるしかないだろう、と考えた。

昨日は9月の個展の打ち合わせにギャラリーへ行った。実はまともなギャラリーで個展するのは初めてで、オーナーは70代だから相当な数の作品を取り扱ってきているし、やり方も確立されている。そこで展示することは、作品の質が問われているような気がした。だからと言って何かが変わるわけでもなく、今までしてきたことをするだけだ。ギャラリーは、作品を展示して販売する場で、要約するとモノを売る場所だ。芸術品を扱っているお店だ。だからもちろん売れるモノを展示するわけだけれど、大切なのは作品がどれだけ物語るかということだ。作品を鑑賞して購入するという行為のなかに、どれだけの思考や感情を働かせることができるのか。その振り幅にアートの価値がある。

身の回りのもの、特別ではないモノ、日々の生活、そういうところにアートがある、それをテーマに活動してきて、これまでは日常のなかにアートを引きずり込んできた。それが生活芸術ということだった。ところがギャラリーで展示することで、その逆をすることになった。つまり、日常のなかにあるアートを、身の回りのモノを、特別ではないモノを、それらをアートとして展示することになった。

生活の芸術というコンセプトをギャラリーで展示する。このシンプルかつ明快な課題をクリアしたら、次の展望が見える。