いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

何もない場所は半端なく面白い。なんせ自然しかないのだから。

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ほとんど休日と平日の区別のない生活をしているけれど、それでも今回のゴールデンウィークは休日感があって、今日から現実に戻ってきた。ぼくの現実とは、東京から北へクルマで3時間の北茨城市に拠点を構えて、アート活動すること。


ぼくにとってのアート活動とは、世の中で考えられている「アート」とはズレている。なぜなら、ぼくの考えるアートとは種目を自ら考案して、そのコンセプトごと表現するものだから。これ自体、正解かどうかはどうでもよくて、それに自分が夢中でいられて、それで生きていけるならそれでいい。

 

令和元年バリ島から帰ってきて体調を崩して、ようやく今日アトリエのある揚枝方に行けた。古民家を改修してアトリエを作って、いまはその周辺環境を整えている。つまりは自然と自分の暮らしのバランスを調整している。

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例えば、草刈りをした。草刈りは、散髪するみたいなことで、丸坊主にするとサッパリする。目に飛び込んでくる色はすべて緑色で、その景色はとても刺激的だ。草刈りをしていたら、家主だった有賀さんが遊びに来てくれたので

「今年は景観をつくりたいんです。だから家の周りから綺麗にしたい」

と話すうちに、有賀さんが「土地がまだ残ってるから、そこを使ったらいい」と言ってくれた。

土地を開墾してみたかったから早速、草刈りをした。草を刈ると地形がみえる。地面が見えれば何するのかイメージできる。妻チフミと土地を眺めて、構想を練った。

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という訳で、ぼくらのアート活動は、更に範囲拡大することになった。大地を耕して食べ物をつくることや、人間と自然のバランスを調整して景観をつくること。例えるなら、ミニマルな話しでは、ガーデニングや家庭菜園でありながら、今は限界集落を拠点にしているので、その活動をどんどん拡げいくことがアート作品になる。村全体が。


景観をつくることは「アート」になると思う。景観とは人間と自然のバランス調整が生み出すものだと思う。美しい自然ならではの景観も、人間が鑑賞できる立ち位置を用意する必要がある。その場所をマーキングできれば、あとは導線をつくれば人は来る。

まだ言葉として開拓できていない領域だけれど、この道に必ず未踏のアートが現れる。今日始めた草を刈ることも「景観づくり」という作業のひとつになる。理解されるまで何年かかかるけれども、結果が出る10年後には、途方もなく面白い場所が出来上がる。まあ、それまで続けられるか、という問題は運に任せるとして。

まずは、このサンテジュグペリの言葉に 倣って進んでみる。

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