いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

もうダメだと思う。どうしてそう考えるのか自分に聞いてみると、結果が見えないからだと。それは、ほんとうにダメなんだろうか。

まだ、ここから先があるんだと気がついた。生きる道を開拓しようとすれば、これほどの未知を体験することになるとは。これは失敗でも不調でもない。通常運転だ。結果に向かって日々を積み重ねているのだから。じゃあ、自分はなにをして焦ったり不安になったりするのか。気持ちは自分を映す鏡だ。

なにも無いように感じても、これがよい状態だとどうして思えないのか。笑ったり楽しかったり、怒ったり泣いたりの興奮状態を基準にすれば、退屈でやり切れない気持ちにもなる。しかし、先が見えなくて不安になるくらいが冷静な状態なんじゃないだろうか。

必要なのは自分を運転する方法だ。長距離ドライブをしている。スピードをあげたり騒いだりしては、すぐに疲れてしまう。自分のペースで進めばいい。例えばナビがなかったらどうだろうか。地図を頼りに進むしかない。その地図も曖昧で方向だけを示すものだったらどうするだろうか。目的地に向かって進み、行き止まりであれば戻ったり迂回したりするだろう。いくつかのルートを予め準備しておくに違いない。用意周到な冒険家であれば。

疲れたら適当な場所に小屋を掛けて明日に備える。僅かな食事を採って鋭気を養う。

そうやって自分に当てはめてみると面白い。都市に暮らして社会の常識に当てはめてみると、非現実の王国は崩壊して現実の常識社会にカテゴライズした途端に、不安や悲しみが襲ってくる。そのギャップをユーモラスに描いたのがドン・キホーテだ。そうだ。白鯨を英語で読みたい。

いまの社会では、ぼくは、とても残念な大人に映るだろう。収入も低くいアルバイトの身。先の保証はまったくない40歳。ところが非現実の王国では、愛する妻とアート作品をつくり自由を謳歌している。スポーツと音楽を愛しボルダリングジムで働き、イベントやフェスティバルで仕事をするフリーランス
スペインとザンビアとエジプトにネットワークを持ち、これから空き家に関する活動を始めようとしている。日本は小さな国なのに、古い家を放置して活用しない。その空間は死んでいる。ぼくにはこの感覚が信じられない。だから古い家のスペースを開放するための運動を始める。

作家や画家や音楽家たちが家賃のためにその創作を犠牲にしなければならない街なんて腐ってる。アートは、経済から自由であるべきだ。つくる前からお金で計られるべきではない。芸術とは、結果として価値が生まれるものだ。
つくっている作品が傑作と言えばどうだろうか。ぼくは自分の宇宙を追求しているが、それが万人に拍手で迎えられる自信はない。なぜなら、表現することを追求しているから。
なんだろう、これは?という疑問を自分に突きつける。意味から逃れたい。意味や言葉は常にソレ(何か)を指し示す。でもぼくは、ソレになる前のカタチを掴みたい。ソイツを捉えてよく観察してみたい。なんだろうか。

きっと宇宙もこの惑星も、なんなら人間もそうした意味のない漠然としたものだったんだ。湧いてくるイメージを捕まえて書/描き記して、イメージをカタチにして遺していく。ぼく自身が理解できるものをカタチにして、そんなことで創造と言えるのか。理解を超えたカタチや領域に足を踏み入れて、混沌から取り出してこそクリエイターだ。それをどう伝えるかが仕上げだ。

昨日小説家の先輩が手書きの原稿をフェイスブックに掲載していた。浮かんだ言葉を掴み取るために、消える前に捉えようとした走り書きに感動した。読めない文字と読める文字の狭間が見えた。カタチとそれ未満があった。
先輩は言った。「頼まれもしないことを勝手にやって、それを買ったひとが衝撃受け卒倒して人生をやり直してくれたらいい。」
これはアートな態度だ。創造と破壊。現実の世界で、非現実の王国への抜け道を掘り続ければ、いつか裏側へ抜けて世界が逆転するんだと思う。現実という檻から飛び出して大空を舞うゲームが檻之汰鷲だったんじゃないのか。

できないからやめる。
理解してもらえないから諦める。
そんな気持ちになるとき、この歌が聞こえる。甥が大好きな「大人のピタゴラスイッチ がんばれ 装置153番のマーチ」

ゲームのプレイヤーは自分で世界はその装置だ。失敗しても失敗しても、裏側に突き抜けるまで掘り続けて、世界をひっくり返して笑い飛ばせ。準備が大切だ。

まよひの雲の晴れたる所こそ、
実の空としるべき也。
空を道とし、
道を空と見るところなり

(五輪書宮本武蔵)