いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

空き家解放の考察に関するノート2

新しい物件の空き家再生を計画するために津島にいった。物件は元呉服屋で400坪もある敷地に展開するお屋敷。小さなアパートで生まれ育った自分は、大きな家に住みたいと夢見てきたけど、こんなに大きな家は必要ないとついに思えて、可笑しくなった。

オーナーは家の面倒をみることに追われ、活用どころの話しではない。あっちに手を入れれば、あっちが壊れ、全体を俯瞰してみる余裕もなく、リスクを少なくと考えるうちに新しいアイディアも枯渇する。かといってオーナーがクリエイティブではないかといえば、まったくそんなことはなく音楽家だ。

まさに家は生きている状態だった。オーナーは管理修繕の作業が経年劣化を追い越すための仲間を必要としていた。ここにも共に冒険できる空家のオーナーをみつけた。ぼくは家が欲しいのではない。人間が必要とする最低限の要素である家をもっと生活に身近で、誰もが簡単に手に入れられるものにしたい。(多くを望まなければの話だが。)
また空き家との出会いをきっかけに日本全国を旅したい、と考えている。そもそも、それが理由で空き家に興味を持ったことを思い出し、その原点に着地しつつある。

今回の物件をH邸と呼ぼう。ぼくがこの家に関わることで、この家が蘇るきっかけになればいい。これは建築ではない。呼吸させることだ。人間に喩えれば、医者ではなくて、話し相手になるだけのこと。

チフミが実家の片づけをして言っていた。「家に荷物があり過ぎて息ができない。それと同時にお母さんも苦しいって言ってて。」この感覚は、まったく独自の知見だが、確実にある。
現行の建築法に照らし合わせて、再生するなら耐震のための構造から、雨漏りのための屋根など、修復改修しなければならないポイントは山ほどある。しかし家が生きているなら、そんな改修は不老不死を望むような話しで、まったくむしろ現実的ではない。ビジネスを展開しようとするから、より綺麗に商品として流通するようにとコストが膨らんでしまう。
空き家を抱えるオーナーの悩みはもっと心理的なところにある。要は抱えきれないところにある。そこにリーチすることが第一に必要なサポートで、家を運用する活用するは、そのずっと後にある課題だと気がついた。

日本の社会が急成長して切り捨ててきたのも、こうした小さな気持ちの部分で、なにもまるで新しい物件に再生しなければならないとは考えない。もちろん、改修を望むのであれば建築士に相談すればいいが、最初からそれが前提で話しを始めてしまうのは、問題の核心を捉えていない。空き家を所有するオーナーこそが主題で、これは建築の問題ではなく人が抱える問題だ。

空き家を再生したり運用することはオーナーに対するケアマネージメントであり、建物はその後に必要に応じて発生する追加プランだ。
誤解がないように繰り返すが、建築的な改修が必要ないのではない。しかし空き家問題とはオーナーが抱える問題を解決することから始まり、オーナーをコンサルティングすることがぼくにできることだ、ということを学んだ。

その基本になるのが家を呼吸させること。掃除。加算する解決方法ではなく、まずは引き算による問題の明確化、気持ちの整理。この点にこそ自分がやれることがある。所有したいのでも借りたいのでもなく、まさに空き家を活かすこと。

新しい境地が見えてきて、今日は自然に目が覚めた。問題に取り組むのではなく、誰がなんのために行動するのか。そこにどんな目標や夢や楽しみがあるのか。物事の切り取り方で、アウトプットはまったく違う結果を生み出す。

 

夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/

生きる芸術のための生活者
石渡のりお
norioishiwata@gmail.com