いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

30年後の未来を考えてみたら東京は首都でなくなり、生きているものを治すには医者が必要で、ところで社会や国家は誰が看るんだ?

気がついたら、ボルダリングの仕事と作品づくりしかしてなく、嫁のチフミも実家にいたので、あまり人と話していなかった。朝は5時に目が覚めて頭に浮かぶことを書いて、部屋を片付け洗濯して、8km走った。走るのは、予め距離を決めて絶対に諦めないのがルール。途中で疲れたり、息が切れても目標までは到達させる。頭のなかでいろんな言い訳が飛び交ったりしても、そんな誘惑を断ち切ると、やりたいことやらなければならいことが泡のように浮かんでは消えていく。これは浄化作用のひとつで、マインドをリセットする技術のひとつ。

コラージュで作品をつくるうちに、作品はウッドパネルの枠を超えて、旅だったり人との出会いだったり人生をつくることが創作になっている。身の回りに起こる出来事の断片や誰かの言葉、自分の泡のような思考の数々を組み合わせ、こうやって書いたりしながら未来を計画している。こうして書くことは日常を畑のように耕して種を撒いている。

愛知県津島市の空き家再生プロジェクトをきっかけに、移住や地域再生、ソーシャルビジネス、フューチャーセッションというキーワードに遭遇した。また、それらに関わる人たちに出会った。
昨日は銀座NAGANOという場所で「地域ブランドのつくり方」というフューチャーセッションに参加した。地方再生にどう取り組むかを参加全員で話して考えをまとめるプログラムだ。

言葉とは便利なもので、一旦生み出され流通するようになると、記号化して誰でも使えるようになる。それこそブランディングで、例えば「移住」は3.11の震災後に新しい意味を獲得して流通するようになった。別の場所に移り暮らすことを意味するが簡単に言えば、引越すことだ。でも「移住」と言えば、地方や田舎に引越すんだな、とイメージできるし、都市から離れるイメージもある。

とにかくキーワードが氾濫していて、ワードを並べることを楽しんだり満足する人が多い。自分の取り組みについて説明すると、キーワードに当て嵌め、それは◯◯さんがやっているとか、◯◯さんの知り合いがやっていると言う。それで片付けてしまう。しかし、ぼくは相手の考えや生の情報が知りたい。既にあるものに当て嵌めるのではなく、それ未満のなにかを発見したい。そのために対話がしたい。カードゲームのように言葉を並べるだけでは、何も始まらないし生まれない。
ぼくの性格志向からして、まったく枠に嵌ることを避けて思考し試行していることが分かった。枠の外の朧げなカタチや言葉そのものが持つ多角的な意味を、乱反射するような輝きを掴みたい。いまここにないもの、みえないもの、みえにくくなっているもの、消えようとしているもの。言葉や枠組みをはみ出したところにこそ、踏み込んでいきたい。それは成功も失敗も、意味があるかも不確かな領域だ。

フューチャーセッションで「地域課題を解決するために、人が不足しているとよく聞くが、100年前には、日本全土に3万人しかいなかった。だから問題は人の数でない」と言った人がいた。
ほんとうにそうだと思う。社会を変えたり問題を解決するには、自分が従事する仕事の量を減らしてでも取り組む覚悟が必要だ。なぜなら、多くの人は、経済活動にほとんどの時間を費やす。すでにあるやり方でお金を作り出す。すでにある生活水準で考え行動しようとするから、たくさん働かなければならない。社会が醸し出すいいしれない不安から逃れるために、安定を求める。この外側に出なければ社会どころか、ぼくらの暮らしを変えることはできない。

フューチャーセッションでは最終的に「30年後の世界はどうなっているか?」 を描くことになった。
まず日本中をもっと自由に人々が動き回る必要がある。高速道路は無料だ。渋滞もなくす必要がある。東京は血管が詰まったようになって、首都は日本全土に5カ所できる。どの都市もいい意味でライバルで甲乙付けがたい。人が動き回るから当然、至るところにお金が動く。日本全体が活性化する。情報のインフラは充分発達して会社に毎日行く必要がない。どんな場所でも仕事できる。だから家もひとつでなく複数ある。
いまから30年後には、いまから30年前の状態が、つまり60年前がリバイバルしている。いまで言うなら、1950年頃。戦後だ。この感覚は間違いない。これからオリンピックがあり日本は高度成長期を迎える。シナリオ通り。しかし、これはリバイバルだから同じようにはいかない。30年前と30年後をミックスしたハイブリッドなやり方が、もっともスマート。もちろん今も。こんな妄想予想図を描いて発表した。自分は妄想ばかりで現実的にはありえないことを、普段から考えたり言ったりしているのかと不安になった。

夜は津島の空き家のオーナーと打ち合わせした。議題は空き家問題の解決。オーナーの物件をどう活用していくか。オーナーは特許の弁護士なので、問題を解決するエキスパートだ。曰く「解決できない問題を解決すのが仕事だから、できないことに取り組むと夢中になってしまうんだ。」

空き家再生というと誰もがリノベーションを連想して、古い家の構造を現在の規格に直して綺麗に改修する、このやり方に違和感を持つ点で、オーナーと一致している。オーナーはいかに低コストで自分のできる範囲で、しかも最低限の修正で空き家を使えるようにできるか、この点にフォーカスして調査している。まさにリサーチしている。現在流通しているやり方には満足できず探し続けている。なければその方法を自分でつくることも視野に入れている。

昨日の最新情報は、耐震構造のD.I.Yキットだった。信じられないことに、それは絆創膏だった。これを発明した人は、それまでのより強く硬くする耐震技術をトルコに輸出し施工していたが大地震で、すべて崩れてしまい考えを改め、柔軟性のある包帯をコンクリートの柱に巻く方法を編み出した。もちろん、その発想はまったく受け入れられなかったが、実験と実証の結果、3.11の震災でその技術を取り入れた建物は崩壊を免れたことで広く受け入れられるようになった。コンクリートは包帯で木は絆創膏で補強するという技術。

信じられないかもしれないが家は生き物だ。スポーツ選手がテーピングで補強するように、家もテープで補強する時代になった。
家に帰ってこの興奮をチフミに話すと「木が腐ってたり白アリにやられていたらどうするの?」と言われた。

ぼくたちは、生きることと死ぬことに、どう向き合うべきなのか。枠の外に1歩踏み出せば、すべて自由選択編集できる。それは自己責任で不安定な状態。しかし、自然とは常に変化し一定ではない。自然と不自然の間でぼくらは何を選び、つくり生きていくのか。意味や言葉や社会の縁を歩きたい。頭のなかでローリングストーンズの曲が流れた。

Oh help me,  please doctor,
I'm damaged There's a pain
where there once was a heart♪
(Dear Doctor / The rolling stones)

社会や国家が病んだら、どこに医者がいるんだろうか。