いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

田畑に肥料がいるように、人間の健康には草や木がいる

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新しい生活が始まった。2冊目の本を書き上げたら、次の物語が始まった。頭の中をクリアにすることは精神の衛生に良いらしい。ぼくの場合は、文章を書くことが、頭を空っぽにする方法らしい。

空き家を巡る冒険は、一冊の本にまとめられ、ぼくは家に困らなくなった。家賃とか住む場所の心配がない。何にもない。これでようやく絵を描くために生活できる。

美しい絵を描くためには、生活も美しくあるべきだと思う。美しさは人それぞれ。退廃的な、破壊的な美しさもあれば、優しい美しさ、小さな美しさ、見えない美しさもある。ぼくが美しいと思うのは自然。だから、自然に近いところに生活を作り、そこで見たり聞いたり感じたことを絵にする。生活と芸術は土と植物のような関係に例えられる。

「田畑に肥料がいるように、人間の健康には草や木がいる」

今日お昼に、電車で5駅ほど離れた小木津の友達が北茨城市に仕事で来るというのでランチをしてきた。海老沢くんは、測量の仕事をしている。山に入って土地を測っている。だから、旧い道を知っている。旧い道を歩くと、失われた生活の痕跡に遭遇する。今は北茨城市の山に入っていて昨日は、しめ縄がしてある巨大な岩を見つけたらしい。

海老沢くんは仕事で山に入っているから方向感覚が優れていて勘で歩けてしまう。迷ったら地図をみる。方位磁針をみる。海老沢くんは自然が読めるから山の中を歩ける。

ぼくは自然の中に暮らしたいと思うけれど、まったく技術がない。方向音痴ですらある。星のことも、太陽が昇るのを見てもどっちが東か西かについても自信がない。山に入ってもすぐ迷ってしまう。だから、海老沢くんに次はアルバイトさせてもらう事にした。

自分を低くすれば、周りはみんな高くて学ぶことしかない。できることは、できることとして、できないことに取り組めば、新しい何かが見える。

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アトリエがある揚枝方には金山(かなやま)という山があって金を採掘していたらしい。地域のお年寄りに聞いた話しを海老沢くんにしたら常磐炭鉱には、個人規模の金山がかなりあったと教えてくれた。自然の中を仕事場にしている海老沢くんは、いろいろ知っていて、アオザという雑草の名前を教えてくれた。ほうれん草系で若葉は食べられる。雑草だけれどフランス料理店で食べられているらしい。

ぼくにとって大切なのは、こうした些細な情報なんだと今日改めて気が付いた。食べれる雑草をまとめた本を買ってきても情報量が多過ぎて頭に入ってこない。

結局、知識にもならず、本棚に並ぶだけなら、ひとつ、ひとつ、生きるための技術を採取して記録していこう。

「01-アオザ
畑や路傍などに普通に見られる1年草で、好窒素性の雑草のためにあまりやせた土地には生育しない。【見分け方】草丈は、約1.5メートルにもなり、茎は木本状となる。古くからアカザの杖といわれているが、それは、この茎のこと。軽くて丈夫でまっすぐであることから、老人の杖に使われた。
若葉の中心が赤みを帯びるものをアカザ、若葉の白味のつよいものをシロザ、青みのものはアオザという。これらは、同一種類。葉は、長三角状卵形か、ひし形に似た卵形で、葉の縁は波状であり、質は柔らかい。夏に茎の先に葉のわきから穂状の花序を出し、多数の黄緑色の小花をつける。果実は、がくが伸びて包む包果。
【採取】6~7月の花穂がでる前に若苗をとり、日干しにする。 アカザを日干しにしたものを生薬(しょうやく)で藜(れい)という。また、若葉はホウレンソウのように、ひたし物やあえ物によく、汁物の実にもなる。 

 実物をみつけたら写真をアップしようと思う。

                                                                      

自然を読む。火星より地球に暮らしたい

カヌーを取りにチフミの実家、岡谷市に行った。この週末は、チフミが先に実家に帰っていたので、ひとりで次の本の原稿を書く作業に没頭した。全部で5部構成、4部まで原稿は仕上がった。あと少し。新たに北茨城市での活動を書き下ろして完成する。この本は、ぼくら夫婦が生活を作る冒険譚。なぜ生活を冒険するのかと言えば、ぼくたちは管理された「安心安全」と言われる世界に定住していて、しかし、それが本当に幸せなのか、とぼくは疑問に思う。

絶対の安全などありえないのだから、ありえない世界に定住しているとも言える。そして、その世界から外に出れば、リスクに対する責任が発生する。そのリスクとは自然と向き合うこと。安心安全か分からない場所で生きること。自然の中で生きることは不安定極まりない。重労働を要求されるし苦労が絶えない。そうした環境から脱出したかった前の世代。それが戦後の高度経済成長だった。しかし、その成長の先に辿り着いたのが、今現在の日本。ありえない世界=自然から切り離された安心安全快適な社会。海も森も川も生活に関係のない世界。これが理想の世界なのだろうか?

ぼくたち夫婦は理想の暮らしを作るために3年間、日常生活を冒険してきた。複雑に絡み合う社会問題と理想の狭間。空き家から空き家へ。高いところから低いところへ。流れる水のように。当たり前の日常を常識とは異なるレイヤーで地方を漂泊した。ぼくはリスクを取る。なぜならまだ答えを出すの早くないか?たかだか50年100年の常識に縛られるなんて。ぼくの人生で実験してみれば、常識の悪いを良いに変えられるかもしれない。可能性を次の世代に残したい。誰かが線を引いたルールの中で生活していても、何も変わらない。生活が変われば目の前が変わる。目の前が変われば周りが変わる。自分を中心に世界を変える試み。「生きるための芸術2」

これが次に出版する予定の本。冬頃リリース。告知です。第一巻はこちらhttp://ur2.link/LCKc

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カヌーを6時間かけて、岡谷市から北茨城市に運んで、夕方、北茨城の仙人こと山崎さんが、ブルーベリーを摘みにおいで、と誘ってくれたので寄り道。今日は天気がいいから星を見ようという話になって、山崎さんがDIYした天体望遠鏡を動かしてくれた。反射鏡は1メートルあって、2年かけて磨いたそうだ。

日が暮れてくると月が現れた。山崎さんは、月に照準を合わせる。月を見る。鮮明にクレーターが確認できた。次に火星を見た。距離が遠くて、星がぶれる。条件がよければ火星の模様が見えるらしい。ぼくは経験したことからしか興味を持つことができないらしい。今まで天体について本を読んだりしたけれど、実感が湧かなかった。けれど、火星が目の前に輝いているのである。それは一体どんな現象なんだろうか、と思った。

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火星は、最接近したときで、地球から7528万キロメートル離れている。徒歩で1000年、車で30年、音速のジェット機で5年かかる。そして宇宙船ですら5~6ヶ月。

火星は、これまで人類の想像力を刺激してきた。火星は金星の次に地球から近い惑星で、2040年には火星への移住が計画されているなんて話もある。けれど、火星に移住を考えるよりも、この地球に快適に暮らす方法を再検討した方がずっといいと思う。まだ間に合うと思う。大地にへばりついて生きている人間は、ほんの少しだけ大地から軽くなることができる。それが想像力だ。イメージがあれば、ほんの少しだけ楽しい未来に期待を持てる。

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山崎さんは、70歳を過ぎてから天体望遠鏡を作りはじめた。82歳のいま、現在進行形で、超新星を探している。山崎さんは、生きる意味を残そうとしている。1000ページに及ぶ自分史も執筆中だ。

 2018年は、宇宙が題材に小説や漫画がたくさん描かれた1960年代や70年代からすれば、ずっと未来の世界だ。今ぼくたちが暮らす時代のこの環境で、便利と不便と、自然と安全安心の快適さの間にどんな理想の生活空間を作ることができるのか。経済成長は、とっくに破綻した理想だと思う。ぼくは、日本のすべてを知っているわけではないけれど、今ぼくが暮らす北茨城市には山も海もあって、その間に人々の生活があって。この環境で理想とする暮らしを作る、それぐらいのことは、2040年に火星に移住する計画より簡単だと思う。目の前に資源はあるのだから。ぼくたちはどう生きるのか。


生活をつくるために<構想ノート>

f:id:norioishiwata:20180811092916j:plain思いついたことをメモするだけで明日は変わる。頭の中から取り出しておけば妄想は現実に変わる。それがノートだ。

生活をつくりたい。思いのままに生活を編集できたら無敵だと思う。そもそも生活とは何だろうか。生きている理由の根源を突き止めたい。「生活」とは生命を維持するための活動。そのために必要なものは何か。これがなければ死んでしまうもの。水、食料。極端な暑さや寒さを回避するもの。寝る場所。実のところ、生活するためには、これだけあれば生きていける。それ以外はオマケの社会奉仕だと思っている。

生存に必要なものがなければ死を待つのみ。それは水。どこにあるのか。川。地下水。人類は、川のそばに生活をして文明をつくってきたし、なければ井戸を掘った。塩も人間には欠かせない。海水から手に入れる。

食料はどこにあるのか。肉は動物。狩猟する。魚。海や川にいる。穀物や野菜は大地を耕し手に入れる。日本には四季があって、冬には寒くて食料が乏しくなる。だから、春から秋にかけて土地を耕し食料を得て、あらゆる手段を駆使して保存する技術をつくってきた。味噌や漬物は、現代に引き継がれる保存食の代表選手。肉や魚も保存するために燻製にしたり干物にしたりしてきた。

食料の保存は、余剰生産を可能にして富をもたらした。山に暮らす人間にとって塩は欠かせない必需品。海の民と山の民は、塩や魚と穀物や野菜を交換した。そのために道がつくられた。道は人と物を運ぶ血管だ。食料の保存は、持つものと持たざるもの、富む者と貧する者を線引きした。食料を生産する土地は、資源として奪い奪われ管理されるようになった。

その何千年も経った現代にぼくたちは生きている。3000年後とか、5000年後とか。その間に人間の生態系は変わったけれど、基本は変わらない。何千年前と全く違うライフスタイルのようにも見えるけれど、根本的に人間は変わらない。必要なものを手に入れて生きている。水、食料、衣類、家。手に入れられないモノは貨幣で交換する。そのために労働する。だから、高級車や便利で快適な家、豪華なレストランの食事ですら「生きる」という活動にとってはオマケの贅沢に過ぎない。けれども、オマケの贅沢が「芸術」だったりする。常に時代の最先端にある技術、贅を尽くした料理とその料理人の技術。

ぼくは、この現代社会で「生活」という行為を暴いてみたい欲望に駆られている。なぜなら、あまりにも支配されてしまっている。不自由な生活を強制されて、それを黙ったまま受け入れている。不自由なく、何でも手に入れられるオマケの贅沢生活を維持するために、ぼくらは不自由な世界に閉じ込められている。それでいいのか。生活は社会の中に円を描いて閉じている。出口が見えなくなっている。

人間は何のために生まれたのか。働くために生きたのか。否。労働は生きるためにあった。水を、食料を、家を手に入れるために。けれども、生きるために必要である最低限もモノは、3000年前に比べて簡単に手に入る。これほど、便利で快適な生活環境が提供された現代、ぼくたちの「暮らし」は飛躍的に進化しているはずだ。ところが、現実はそうでもない。何が狂っているのか。

<生活は社会の中に円を描いて閉じている>
この出口を探してみようと思う。音楽の歌詞、ボブ・マーリー歌うところの社会の矛盾に出口のヒントがあるかもしれない。経済学の本の中に答えがあるかもしれない。一枚の絵がこの無限ループを止めるかもしれない。誰も住んでいないような山奥に答えがあるかもしれない。川にあるかも、海にあるかも。少なくとも学校では教えてくれないし、答えは販売していないし、ダウンロードもシェアもできない。とにかく、ぼくは人間の幸福のために進化した生活を描いてみようと思う。この仮定を全面的に妄信して、仮定を事実に変えてみたい。2018年夏、魚も釣れないし、野菜も収穫できない自分が、これをやってみることで、生活は編集してつくることができると証明したい。

あまりに多く情報と真実の見えないメディア、サービスと商品の過剰供給に埋もれしまった「生活」を発掘したい。その進化した姿とはどんなものなのか。お金はなくても社会のインフラが崩壊しても生きていける基準を提示し、けれどもオマケの贅沢を極めた「暮らし」をしてみたい。

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音楽がぼくのアートの根っこにある

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フジロックフェスティバルに参加して20年近くが経つ。10代に音楽が好きになって、20代にパッケージされている表紙の絵や写真が好きになって。ぼくのアートは音楽がルーツだ。20代のはじめに、野外のコンサートに行って、山のなかに、大自然のなかに聳え立つ、黒い箱=スピーカー、そのサウンドを体験して、太古とテクノロジーが融合するアートを感じた。そのとき、はじめて、木が美しいと感じた。

それから縁あって、20代はフェスでスタッフをやるようになって、駐車場や設営、ステージを組んだり、舞台監督のアシスタントや、イベントの撤収スタッフや、ドームテントの設営をしたりした。野外でコンサートをやることは、自然を会場にして、つまり、風や雨、天候のすべてに対応しなければならない。それに備えておく必要があることを学んだ。

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フジロックのサイトのひとつDay Dreamingで去年から"Inai Inai Bar" というバーをやることになった。バーとは「お酒を仕入れ売る」とても単純な商売。けれど、野外でやるとなると、どうやって冷やすのか、どれくらい売れるのか、天候との相談が重要で、思い通りにならない自然を読まなければ、利益はほど遠い。

今年は2年目ということもあって、お店になる小屋を作って、お酒もバランスよく仕入れて、イベントチームも一致協力で、お客さんが寛ぐスペースを作ったりして、金曜日、土曜日と快調だった。台風が接近しているから、小屋を補強したり、タープや屋根の風対策をした。

 ところが土曜日の夜、いよいよ風と雨が激しくなって、夜中に10年使ったテントで寝ていたら、ポールが折れて浸水して、寝床が無くなって、屋根のあるところに避難して、結局、日曜日はバーがあるDay Dreamingは中止になってしまった。

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まさに「風に吹かれて」だった。けれども日曜日は、フジロックで何年振りかの自由の身になって、途中出会ったケニーさんと、グリーンステージでAnderson paak, Jack  Johnson, Bob Dylanを観た。偶然会ったケニーさんは、車の輸出を仕事にしている。ぼくのいま最大の野望が、ザンビアの友達に日本車を届けるプロジェクトだ、と話しをすると協力してくれることになった。必要なときに出会いは巡ってくる。

月曜日の朝に撤収のためにDay Dreamingの会場に行ってみると、そこは台風一過、話しによると風速30mだったとか。人は立ってられず、家屋の屋根は飛ぶほどのレベル。とても開催できる状況じゃなかった。風という怪物が暴れた跡は圧巻だった。破壊。怪我人も事故もなかったのは、さすがのフジロックの判断。

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そして慣れた制作チームの対策は、自然の猛威をかわすように、被害を最小限に食い止めていた。掘建て小屋のようなBarも、状況を見ながら補強したおかげで、風に耐えて建っていた。耐震でなく、免震で、チカラを逃す構造にしたおかげで耐えてくれた。

もう20年近く野外のイベントに関わっているけど、やっぱり自然のなかに人間が生きていることを教えられる。今回も「風に吹かれて」自然に翻弄されたフジロックだった。ほんとうはフェスだけじゃなくて、日常も自然のなかに生きているってことを忘れてはいけない。
Barをやってみて「仕入れて売る」という単純な商売を今更、体験しているけれど、そう簡単に儲けさせてくれない。何千年も人間が商売してきて、貧する者、富む者がいるのだから奥は深い。
フェスティバルという空間に適応する能力、技術は、いきるための芸術のルーツになっている。
 

「生きるための芸術2」を出版するために。

タイミングがやってきた。お笑いで知られる「よしもと」と展示企画することになりそうだ。面白いことやってるからと声を掛けてくれた。ギャラリーや美術館でなくても、ぼくたちのアートをより多くの人に届けることができるなら、それは願ったり叶ったり。

このタイミングを待っていた。去年の10月に書き上げた二冊目の本を出版することにした。「生きるための芸術2」日本編。前作の続き。ぼくは人生をドキュメントしたシリーズを企んでいる。生きたことがそのままコミックスのように続いていく。第2巻。ご期待ください。

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タイミングが来たことを伝えに新宿にある出版社を訪ねた。本を売るための作戦を話し合った。残念ながら大手出版社ではないから、派手な宣伝や書店での協力は得られない。だから、本の出版と個展を同じタイミングにすることで、より多くの人に届ける仕組みを計画している。

出版社の社長さんは、音楽が好きで、音楽関係の編集プロダクションを経営している。自主制作で運営するパンクバンド、できるだけたくさんひとに届けるように楽曲をつくるJPOPのアーティスト、政治的な歌を得意とするベテランロック歌手、グッズが売れまくりカリスマと崇められる伝説の歌手、いろんなやり方を見てきた。それぞれのスタイルがあるけれど、良い悪いとは別に、それぞれの器の大きさがある。その器の大きさが活動の範囲、届く範囲を決めている、と社長さんは話してくれた。

その夜、親友の彫り師に会った。久しぶりに東京に来たし、アイツどんな調子だろう、とも気になったし、たくさん楽しんできた友達だ。刺青と聞くと日本には悪いイメージがある。けれど、友達の彫り師は誓って善良な人間だ。週休1日で毎日働いている。家族のために。毎日下絵を描いて、新しい日本の刺青を追求しているアーティストだ。

その夜、2人で「つくる」ことを語った。共通しているのは「没頭していたい」これに尽きる。チフミとぼくの絵を気に入ってくれていて、新作をオーダーしてくれた。

その夜、オーストラリアから作品が届いたよ、とメッセージが来た。受け取り人は、はじめてアートを購入したらしく「さっそく、仕事場に飾って眺めている、すごいパワーを感じる。これがアートなんだね」

とメッセージをくれた。

世の中にはアートを必要としている人がいる。アートは人類のはじまりから存在しているのだから、消えてなくならないし、これからもずっと社会なり人に対してなりの役割がある。そこに作品の個性がある。その楽しみや喜びを伝えるために個展を開き、アートとは何なのか伝えるために本を出版する。

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ぼくが信じるアートは、ここにしかない。人生のなかにアートがある。毎日の生活のなかにアートがある。自然を利用して生きようとする人間の知恵にアートがある。どこか遠くに行かなくても、目の前のほんの小さなところにアートがあるとき、ぼくたちの誰もが幸せに生きることができる。嘘じゃない。ぼくは、そんなことを証明するために、アートという方法を選択した。アートとは、生きるための技術だ。

One of thesedays 92

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サーフボードが折れてしまった。修理の仕方を調べてみると、FRP樹脂とガラスクロスが必要だと分かった。あとの研磨する道具は持っていた。乾燥に24時間かかるので、表と裏で2日間作業した。直したその日に海に行って波に乗ったら、また折れてしまった。

やってみなければ分からない。ボードが折れたとき別のを買おうかと思った。けれど、どんなモノでもその役目が終わるまで全うできるのが幸せだと思う。人間と社会の間に横たわる問題がそこにある。ダメだと決めつけるのも諦めるのも簡単。そうやって可能性を捨てていく。だから、もう一度、直すことにした。前回の失敗を踏まえて修理した。折れた箇所の周囲を削って、ガラスクロスを2枚にした。また2日間かかった。でも頑丈になった。また海に行った。ボードを折りたくない気持ちが、タイミングを遅らせて、波に乗れなかった。波に飲まれて、巻き込まれてボードが折れたので、それが怖くなっていた。

そんな気持ちで、波に向かってもいい成果は出なかった。残念な気持ちで休憩した。浜で波を眺めた。寄せては返す波を見てるうちに「あれは乗れる、あのタイミングだ」とイメージが湧いてきた。また波に向かっていった。分かったのは、失敗したくない気持ちがタイミングを遅らせていた。ジャストは、もっと手前だった。

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サーフィンの話しをしているけれど、はじめたのは今月からで、何をバカな話しをと思うかもしれない。けれど、できないことをやることは、すべてのことに通じている。生まれたときは何もできなくて、ひとつずつできるようになっていく。話せるようになり、歩けるようになり、字が書けるようになり、自転車に乗れるようになり、ひとりで遠くへ旅できるようになり。いくつもの「できるようになる」を経験する。大人になると「できること」しかやらなくなる。

だからこれはサーフィンの話しじゃない。「できるようになること」の話しをしている。だから、波と戯れていると、描こうとして描けないでいる絵のことが頭に浮かんできた。できないサーフィンに挑戦していると他のことも挑戦しようと思えてくる。

英語も中学、高校と習って勉強したけれど「できるように」はならなかった。苦しいながらに、英語も5年前から勉強を始めた。飛行機に乗ると、日本語字幕すらないので英語で映画をみるようになった。今年の春にアメリカに行ったとき、アイルランド人の友達と一緒にNetflixを観てから、英語字幕で観るようになった。

「できないこと」はいつのどの時点から「できること」になるのだろう。できる人はたくさんいて、比較する限り永遠にできないままのようにも思う。でも日本人が日本語を「話せる/話せない」は問題にしない。当たり前にできることだからだ。

日本に住んでいるメキシコ人と話したとき「英語は簡単な言語」だと断言した。確かに日本語に比べたら圧倒に簡単な言語だ。そのときから、英語は簡単だと思うようにした。

もしかしたら、何だって難しいを簡単に変換できるのかもしれない。楽しんだり、必要最低限、使えさえすればいいツールだとすれば。競争ではない。サーフィンは、波に乗る遊びで、海と戯れ、自然を感じるための時間。英語は、世界中の友達や、一緒に仕事をする仲間とコミュニケーションを取るツール。

アートは、いくら言葉を費やしても説明できない「生きる」という現象を、ひとつの道に集約する技術。与えられた人生の時間をこれに費やす限り道は続ていく。ヘタでも、できなくても、やってみたいことをやらないよりも、やってみればいい。高みを目指しているのではなく、平行移動している。目線は低くいのだから、疲れたら休んで、足元を見れば、草や花が咲いている。蝶々や蜂が飛んでいた。

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なんのために生きるのか。83歳、山崎さんの問い。

市役所で山崎さんに会った。山のうえに住んでいる自称90%仙人の83歳。長い髭と真っ白な長髪がまさに仙人、もしくは宗教家のような風貌をしている。

山崎さんは
「そう言えば、ワイン飲みに来るって話してたね」と。冬に会ったときのことを覚えていてくれた。
タイミングがないままになっていたので
「今週末はどうですか」
と言うと
「土曜日ですね。大丈夫ですよ」
と山崎さんのお宅にお邪魔することになった。

山崎さん宅を訪れるのは3回目で、山崎さんは講義と呼んでいる。チフミとぼくは山崎さんの話しを聞く。それが講義と名付けられている。

「あなたがたは、アートをやるのですから、それが人類にとっての普遍的な何かを表現していれば、死んだあとかもしれないけれど、評価される可能性はありますよ。けれど、お金や名誉のためにやるのではなく。ゴッホシャガールも生前は2枚くらいしか絵が売れてないんですから」

「人間にとって普遍的なこととは何でしょうか」山崎さんは、質問をする。答えを求めている訳ではない。だからぼくは心のなかで「生きること」と答えた。

山崎さんはズバリなことを言う。山崎さんのテーマは壮大だ。今日は1200ページに及ぶ、世界一周の資料を見せてくれた。1970年代に、研修でヨーロッパ、中東、アジアを周ったことを2015年にまとめた資料。そこには当時の写真、記憶、レストランのメニュー、航空チケットから現在のことまでが記されている。もちろん膨大な情報量で出版するところなどない。だから自らファイリングして国会図書館に収めてある。

山崎さんは何でも保管している。小学校の教科書、切符、テストの答案まで。いまは、その資料をもとに10000ページに及ぶ生きた証となる記録を書いている。

山崎さんは人生で3つのことを成し遂げた。またはしようとしている。

1.70歳を過ぎて自作の巨大天体望遠鏡をつくった。

2.1970年代に世界一周をしてその記録を残した。

3.自分が生きてきた記録を資料と併せて記録している。

先日、日立製作所のひとたちが、天体望遠鏡を見学に来たとき、山崎さんは「あなたたちは、何を残すためにいきているんですか?」と質問した。みんな返答に困っていたらしい。

山崎さんのテーマははっきりしている。「人間がなぜ生きるのか、どうしてこのような社会になっているのか」講義は、この問いと答え繰り返す。セルフビルドされたログハウス、人里離れた山のうえで。

山崎さんは
「100%の仙人になれば空を舞うかもしれない。けれど、孫のことを考えているから、求める気持ちがあるうちには仙人にはなれないな」と話す。

山崎さんは日本は民主主義ではないという。アメリカを例に説明する。アメリカはイギリス人が発見して、移住したひとたちが、ゼロから暮らしをつくった。必要なものは自分たちでつくった。足りないものは、相談して解決した。これが、アメリカの民主主義の根底にある。

イギリスから独立したアメリカは、後ろ楯も経済的な支援もないから、まずは市民が自分たちで生活環境をつくった。その共同体が町をつくった。それが州になって、全体がひとつの合衆国となった。すべてがボトムアップだ。

山崎さんがアメリカに行った70年代、ベトナム戦争をしていた。見学をしに行った小学校では、ベトナム戦争について子供たちが議論していた。アメリカでは意見を持つことが必要とされている。その言葉は、建前ではなく本音。

それは言語に由来している。日本語は、表意文字で、文字がたくさんの意味を持つ。しかしアルファベットは記号だ。だから、議論が成り立ちやすい。思考が分散するよりも凝縮していく。

日本は空気を読み、本音と建前が一致しない国。テレビをみれば分かる。そういう政治をしている。原因は、日本の歴史にある。空気を読まずに、本音でぶつかって生きていきなさい。山崎さんは、そう教えてくれる。

日本は、未だ経済成長を追い求めているけれど、とっくにピークは過ぎている。成長しないものを成長させようとしている。わたしたちは、どのように生きるのか。これを考えて行動しなければ、何も変わらない。わたしの考えを記録して残せば、何十年後かに、発見されたときに役に立つかもしれない。だから、わたしが印刷する資料の紙は100年の耐久性がある。

山崎さんの講義はメッセージだ。
わたしが40歳になったとき老子の40にして不惑を思い出した。けれど惑わされることばかり。だから自分で不惑を決めたのです。常に弱い立場からものを見ること。そう決めたんです」

山崎さんの講義で、ぼくは何も発言しないし答えない。けれども、山崎さんがぼくたち夫婦の作品を見たとき、何かが伝わるなら、それが作家としての答えだと思う。言葉も超えたシンプルかつ普遍的な生きるため芸術を目指している。