いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

岡倉天心を生活芸術にインストールする

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「芸術家です」と名乗りながら、空き家を転々として、出会った環境で創作活動をして2年が過ぎ、昨年の冬に知り合いから「北茨城市が芸術家を募集しているよ」との情報を教えてもらい応募して、なんと採用され、北茨城市を拠点に芸術活動をすることになった。

 技術をどこかで学んだ訳でもなく、自分のなかから湧いてきたコラージュという技法と、表現して生きていくという覚悟だけで、こんな展開を迎えた2017年の春。人生は何が起こるか分からない方が面白く、予定調和から逃げた方がハッピーエンドなのかもしれない。これはこの時代に適ったライフスタイルのつくり方かもしれない。少なくとも今現在は。

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 北茨城市は、日本美術の創始者とも言える岡倉天心が、隠遁した地として知られている。「茶の本」をはじめとした日本の伝統文化を西欧に紹介した人物でもある。

ぼくが、「生活芸術」というコンセプトを掲げるのも、ヨーロッパとアフリカを旅して、芸術とは、生きることに関する技術や表現だと考えるようになり、その道が、日本の伝統文化にあると気づかされたのがきっかけでもある。

ぼくが表現したい芸術とは、日本の美術だ。それは絵画や美術館やギャラリーではなく、生活のなかにある。宮沢賢治の農民芸術概論、柳宗悦の民芸、宮本常一民俗学に影響を受けてきた流れは、とても納得できる曲線を描いて岡倉天心をぼくのところにインストールしてくれた。

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人間は空っぽだ。子供は純粋無垢な心で、あらゆるモノコトを吸収していく。ぼくは42歳だけど、何ひとつ完成していない、未熟さのままで、単なる器でしかないから、新しい日本の美術をここから世界に向けて表現してやろう、という大胆な野望を抱く。まるで子供がヒーローの真似をするように。

生活を芸術にする目的は、世界中の人間が豊かに生きる可能性を提示することにある。

ぼくを採用してくれた北茨城市で、今日、嘱託式があった。
 市長は「芸術がなんだか全然分からないが、遠慮なく自由にやってくれ。」と言葉を贈ってくれた。
芸術家が生き延びる手段は時代によって変わる。作品を売るのと同じくらい、理解者を得ることは難しい。ぼくは、この機会を強力なパトロンが現れたと捉えて、存分に制作に没頭したい。それができる環境がついに手に入った。

日本の至るところに失われつつある、消えつつある、生活芸術を発掘し、未来のアートとして提案していきたい。岡倉天心をインストールするのだから、生活芸術を日本の伝統芸術の最先端に位置付けできるように挑戦してみたい。2020年を目指して。
 

技術を【インストール】することが生きるためのチカラになる

f:id:norioishiwata:20170316195017j:plain恵比寿ガーデンプレイスゴールデンウィークに小屋を建てることになり、それはそれで最高なオファーなのだけど、茅葺き屋根にしたい、という仲間のアイディアで、しかも茅も山に刈りにいくという100年前にタイムトリップする話になって、嫁と少々喧嘩しながら茅葺き屋根をどうやってつくるのかシミュレーションをしてみた。

f:id:norioishiwata:20170316193620j:plainそもそも、小屋の材料をゼロ円で、社会が必要としない、あちこちから集まったモノで建てることにして。茅も、いまでは使われない技術だからぜひ再現したいところだ。柱は、いま暮らしている古民家の森に倒れている木を使うことにして、森を歩いて木を選んだ。まさにこれが「気取る」の語源だと閃いた。

f:id:norioishiwata:20170316193932j:plainそもそも家とは竪穴式住居に遡る。きっと専門の技術者なんていなかった。実は、屋根とは、ティピや竪穴式住居のようなシェルターがルーツらしい。シェルターの空間を広く使いたい想いが壁を立ち上げた。だから小屋は、空間を囲う構造と、シェルターの屋根でつくられている。なんなら、箱をつくって、雨をしのぐ屋根をつければ「家」になる。では、何が屋根に適しているのか。調べてみると、「片流れ」「方形」「寄棟」「妻切り」が主な屋根のカタチ。

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イメージ的には「方形」がいい。考えてみれば、ザンビアで建てた泥の家にすべての要素が詰まっていた。それが「家」のオリジナルだった。

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f:id:norioishiwata:20170316194122j:plain記憶を頼りに模型で再現してみた。ここまでやって全体像がみえてきた。これは実現できる。

やりたいことは、いくらでもある。欲しいものは、頭の中にある。
今朝、起きてすぐに陶芸をやることにした。1月に粘土でつくった動物を焼くので、窯をつくるところからスタート。

f:id:norioishiwata:20170316194244j:plain森のイノシシが掘った穴に

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f:id:norioishiwata:20170316194457j:plain瓦とトタンと缶で窯の完成。

f:id:norioishiwata:20170316195700j:plain窯に火を入れて、粘土でつくった動物を焼いた。朝起きてから寝るまで、つくることばかりを考えている。なんて幸せなのだろうか。 眺めているうちにこの窯が作品だと気がついた。ラクではない仕事だからこそ発見できた。とびきり原始的な技術こそが、アートそのものだと。「技術」こそがアートの語源なのだから。

とびきり原始的な技術でつくられた小屋も、その「技術」こそが作品になる。技術は、インストールできる。つまり人生の武器になる。原始的な技術は誰でも使える。シンプルだから。という訳で、4月には、東京の恵比寿で「生きるための技術」のいくつかを発表するので、ぜひインストールしに来てください。

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屋根さえつくれれば、何処にでも家をつくれる。

みんなが幸せになること。理想は夢かもしれない。

f:id:norioishiwata:20170311092210j:plainもう、小さな生活を嫁と2人でしていければいいと思っていた。しかし「信じること」は人を信じる者と書く「儲け」の字の意味に通じる生きるための技術らしい。

ぼくは、3年前に芸術で生きていくと決めて専念してきた。この3年間は 、それ以外をほとんどやらなかったので、収入はどんどん減って、自由な時間ばかりが増えた。でも、ぼくの心の中にはいつも確信があった。
 「自分が自分を信じないで誰がお前を信じる?」だからずっと信じて自分に投資してきた。

ところが、この春。爆発してる。やってきたことがひとつに集まってビッグバンを起している。

f:id:norioishiwata:20170311092257j:plain本が出版されて流通する。2冊目も出る予定だ。GWには、愛知県豊田市のお寺の本堂でこれまでつくってきた動物たちを展示する。今週の月曜日には池袋のボルダリングジムの壁に宇宙をペイントしてきた。

4月はGWに向けて、恵比寿ガーデンプレイスに廃材で小屋を建てることになった。小屋の周りで野菜を育て、植物を愛でる都市生活に自然をインストールする企画。4月1日、2日には、代々木公園で「音楽から盗む反抗生活のつくり方」と題したトークイベントもある。

ぼくは3年かけて、都市から自然へと生活の拠点を移していった。いまは岐阜県の森に暮らしている。そこで、水や火や土や風や、自然という現象からたくさんのことを教わった。

f:id:norioishiwata:20170311092352j:plain人間は自然の中に生きている。自然の中に都市がある。都市から自然は見えないが、自然から都市を俯瞰することはできる。都市と人間がいくら暴れても、それは地の果てをお釈迦様の手と勘違いした西遊記孫悟空のような、井の中の蛙で、自然が教えてくれる以上の発明も発見も存在しない。

ひとそれぞれいろいろな種を持っている。でも、種だからどんな芽が出るか分からない。それは持ち主にしか育てられない。芽が出ると、周りの人はやっと気がついてくれる。「へえ、そんなことしているんだ。」とか言って。

その芽が成長して実がなっても、まだ成果は出ない。その実をひとりふたり3人と、たくさんの人が味わって、それでようやく、少しだけ価値が生まれる。

何のためにぼくは、種を蒔いて育て、果実をつくるのか。ぼくにとっての果実とは「作品」だ。それはテキストも絵もコラージュも立体も家もイベントも生活も、どれも人間のためにつくっている。人間とは何なのか。この理解しても理解しても理解しきれない愛おしい動物。結局のところ、人間は既に狂っていると思う。たくさんの誤ちを積み重ね、誤魔化すうちに、それが常識になって受け継がれている。

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そんな人間が形成する社会のなかにも、僅かながら心地よい空間を作ることができる。そう信じている。ぼくはそれがアートだと思う。人間が理想を実現できる空間をあらゆる手段を使い表現してみたい。これでようやくスタート地点に立ったのかもしれない。
ここから上を目指すのではなく、水のように低いところへ流れていきたい。そこで出会う仲間と、小さなエネルギーを寄せ合って炎のように明るく燃えて辺りを照らしていく。

ぼくら夫婦の旅は、この春から北茨城に暮らすことになった。福島の隣だ。ある人は「放射能は大丈夫なのか?」と言う。ある人はWEBの記事をみせて「危険だ。」と言う。でもテレビのニュースやインターネットの情報では「ほんとう」のことは分からない。すべての情報は、誰かが編集した遠くの出来事だ。

 昨日、北茨城市の職員の人が「もう大丈夫です。6年前はもっと大変な状況でした。」と話してくれた。ぼくは目の前の言葉を信じる。ぼくたちの目の前以外、どこに自分の人生があるのだろうか。地方でも都市でもない、生きているここにしかない。

ひとりの人間なんて、大海原に流される棒みたいな存在だけど、ひとつここだ、という場所をみつけて、根を張り杭になれば、流されない強いチカラになることもできる。

f:id:norioishiwata:20170311093936j:plainみんなが幸せににるためには、みんなが生きる自信と勇気を持つこと。表現が、なんらかの意味で、人を励まし勇気づける存在でありたい。それがぼくの目指す「生活芸術」でもある。あと3年かけて「豊かな芸術」をつくりたい。

高いところから低いところへ流れる水の生き方

水は高いところから低いところへ流れる。人よりも粗末な食事をし、人よりも粗末な服を着て、人よりも質素な生活をし、誰よりも贅沢な暮らしをする。「水の生き方」とはこういうスタイルかもしれない。

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 「何のために」を突き詰めていくと「水」になる。目的は、高いところではなく、低いところへ向い、周りを潤していく。

「しあわせ」には2種類あって「幸せ」は自分がハッピーになることで、その漢字のルーツは、囚われ、手枷を意味している。もうひとつの「仕合せ」は、具合よく重なることの意味で、アート技法のコラージュに通じるし、文化人類学でのブリコラージュでもある。 個人の「幸せ」を追求するならば、競争の世界が待っている。カフカの「城」か、バベルの塔か。争いは絶えず、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように他者を蹴落とし、高みを目指す宿命を負う。

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もうひとつの「仕合せ」は、自分の行動で周囲をよりよいカタチに変えていく。恋人でも、友達でも家族でも、会社でも、地域でも、自分が属するところをハッピーにする。それは、高いところに登るのではなく、手を差し伸べること。沈没船で、女性や子供を優先して助けるような。誰かの役に立てば、人間は生きていける。それが対価になり、生かされるようになる。

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中学生の頃から25年も音楽が好きだ。今はpenguin cafe orchestraを聞いてる土曜日の朝。
 10代や20代は、働いたおカネをレコードやライブに費やした。本も好きで読みもしない難しい本や装丁が美しい本を集めた。好きでどうしようもないことを抱きかかえながら生きてきた。

 1月末、音楽からのギフトが届いた。アメリカのロスアンゼルスのバンドが日本でライブをやりたい、だけど周りにライブハウスを知っている人がいない、ということでぼくに声が掛かった。みんなは、立派なホールしか知らないという。自分がよく遊んでいたライブハウスにアメリカのそのバンドマンを連れていくと、
 「これだ!これだよ!」と喜んでくれた。そしてこの男は「みんなで楽しみたいね!ライブを無料にしたい。そしたら日本の音楽好きが遊びに来れるだろ?」と言い出した。

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それが3月25日に下北沢スリーで開催される入場無料のイベントになった。このバンドはハンニ・エル・カティブ。そのリーダーでもあるハンニは、ステージの上から降りてきた。まるで水のように。ステージを観ている観客はひとりもいない。すべての人が、それぞれの人生のステージに立っている。

ぼくは何もしていないが、好きなことを好きでいたら、仕事になった話。好きでいた音楽がお返しをしてくれた。アートも本も10年が過ぎた頃からギフトを届けてくれるようになった。だから、競争なんかしないで、好きなモノコトを大切にしたらいい。自分を信じれば大丈夫。競争を止めれば、敵は同じ未来を目指す仲間になる。それが【水の生き方】だ。

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http://www.toos.co.jp/3/

このライブハウスの考え方もまた素晴らしい。

けもの道と子供の時間

f:id:norioishiwata:20170222105418j:plain裏山を散歩して、カモシカに遭遇した。その森の中に現れた存在と、振り向く眼差しに圧倒された。テレパシーのようなコミュニケーションがあった。ぼくは、自然界の新入りだった。

いま暮らしている古民家の裏山を散歩しながら、岩を探している。この4年ほど、自分で岩をみつけてコースをつくってボルダリングをやりたいという願望から、山や川にいくたびに岩を探してきた。なにせ裏山の名前は岩山。きっとあるはずだ。数ヶ月前に、小さな岩をみつけて登ったりもしたが、掴んだ岩が剥がれて2mほど、転げ落ちた。落ちるほど魅力的な岩ではなかったから、もっと別の岩を探していた。

f:id:norioishiwata:20170222105532j:plainカモシカは、いつもなら通らない獣道のずっと先の方にいた。その更に先には、小さな岩がゴロゴロしていた。木と木の間に、岩がチラッと見えることがあるが、多くの場合は目の錯覚で何もない。そうやってドキドキしながら、山の奥へと彷徨っていく。この日はカモシカに導かれた。

 獣道を歩いていくと、谷の下に岩が転がり落ちたように集まっている。その下で水が流れる音がする。遠くの方で、トントントントンと軽快な音がする。カモシカが崖を降りてくるのだろうか。音だけで水も動物も見えない。谷の周りに、爆破されたように岩が散らばっている巨石群れが現れた。ずっとイメージしていたボルダリングエリアがここにあった。

f:id:norioishiwata:20170222105735j:plainひとつの岩からまるで、クライミングジムのホールドのような掴む場所とルートがハッキリと見えた。背負っていたマットをおろして、シューズを履いて、岩にしがみつく。手の感触を確かめながら、足の置き場を探しながら、登っていく。高い。次の手を掴み損ねたら落ちて怪我をする。足場を探りながら地面に戻ると、心臓がバクバクしている。

f:id:norioishiwata:20170222105848j:plain 誰かがつくったルートを登るのとは桁違いの緊張感。安全の保証がない。これがボルダリングだ。ルートを自分で考え、どうやればできるのか自分の身体を駆使してゴールを目指す。ボルダリングに出会ったとき、人生だと思った。危険に対するリスクをどう回避するのか、それとも賭けるのか。

30分ぐらい、横になって森の音に耳を傾けた。ぼくは何でこんな場所にいるんだろうか、と思った。ひとり自然のなかにいた。

f:id:norioishiwata:20170222110201j:plain 再挑戦。岩をよじ登る。前回よりゴールに接近した。絶妙なバランスで壁にへばりついているが、足場がみつからない。焦る。ゴールを諦めて地面に戻った。結局、クリアできなかった。

 家から歩いて30分の森の中に、夢のような時間があった。夢や理想は、目標にすれば、結果は違っても意外なカタチで叶っていたりする。意外過ぎて、気に入らなかったり、気づかないこともある。人は欲深いから、すぐに忘れてしまう。けど、その瞬間にワクワクがある。その純粋なワクワクは、子供のころ、日が暮れるのを忘れて遊んだような、時間を超えた夢の世界は、どこか遠くではない、いつも自分の近くにある。

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あまりなにもない日の収穫

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まだ冬だ。先日、火鉢をみつけて、使ってみた。炭を寄せ集めて火をつけると、これは暖かい。ほんものの火は、いくら眺めても見飽きない。オレンジや黄色に燃えている。

ここ数日は、うまくいかなかった。親切で貸してもらったチェンソーのオイルとガソリンを入れ間違えて壊してしまった。
 火鉢用の炭も自分でつくってみようと、イノシシが空けた穴に、穴窯をつくってみた。いろんな方法があるけど、もっともシンプルな原始的なやり方がいい。翌朝、穴を掘り返したら、生焼けで炭はできていなかった。

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 思い出しては、原始的なやり方で火起しをしているのだけど、手にマメができたり、両腕がパンパンになったりで、煙は上がってもまだ火をつくれないでいる。

この冬は古民家で越すと決めて、やってみれば、できないことばかりだ。むかしのひとは、強かったんだと思う。強かったのでもなく、そうなるしかなかったのかもしれない。

 今日、起きたらチカラが出なくて、何をしたらいいかと考えて、ストレッチの体操をしたけど、スッキリしなくて、facebookを覗いたら「冬のこの時期は、鬱になる人が多い」と投稿している人がいて、なんだ季節のせいかと思ったらやる気がでてきた。

冬は春の展示に向けて、制作しているがなかなか完成しない。本の出版の計画も進んでいるけど、まだ書店には並ばない。だから、目の前ことをやるしかない。遠くの未来や場所のことを考えるより、目の前の小さな積み重ねをした方がずっと気分もいい。

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 昼前にチフミが火鉢にサツマイモを焼いてくれた。つまんでいるうちにお昼になったので、昼メシはいらないな、と話していたら、小麦粉を丸めてあるから、それを焼いてみることにした。煎餅みたいな何かと思っていたら、ピザ生地だった。もしくはナン。知らないって面白い。食べられるモノを焼けば、何かしらのモノになるらしい。実際、チフミは、小麦粉を丸めたのから、うどんや餃子の皮もつくるようになった。

 午後には、昨日修理に出したチェンソーが直った連絡があり、昨日提出していたゴールデンウィークに東京の恵比寿で廃材を使った展示案についての前向きな返事もあって、進んでるような気持ちにもなってきた。

 今夜はほんとうに冷える。トイレは古民家の外にあるから行くのがキツイ。だけど、外に出て見上げると、満天の星空が広がる。いまは冬。次は春。冬があるから春が嬉しくて、うまくいかなかったり、つまずいたりするから、進む喜びがある。

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 特別な日よりも、あんまり進まなかったり、少しだけしか出来事がなかったような日の方が、気持ちを整理したり向き合えていいかもしれない。夕方、キジが飛んでいくのを見た。

夢や願いを叶えるには、たくさんのことを諦める。

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中津川の古民家で冬を越すと決めて、気がつけばもう立春。暦のうえでは春になった。
この冬は念願だったアート作品の制作に没頭する数ヶ月を過ごしている。朝起きてから寝るまで作品をつくることばかり。それでも生きていけるようになった。とても不可能なように思えたことも4年間も続けてみれば、実現できるらしい。

チフミは小麦粉でパンを焼く。石油ストーブのうえで焼く温度がちょうどよくて美味しいパンを毎日食べている。
 買い物は週に1回ぐらいで20分くらい車を走らせスーパーに買いにいく。野菜は家の近くの直売所で安く買える。米は、古民家の大家さんが提供してくれるから、食費は2000円から3000円で1週間。夫婦の1日3食が400円だから、かなりの節約生活をしている。

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だからと言って、みんなが節約生活をすればいいとも思わない。これは生活の実験。こうして記録しておかないと目的を忘れてしまう。つまり、ほんとうに貧しい生活をしている気分になってくる。違う、日常を冒険する非現実な、生きるための芸術というパフォーマンスだ。

とりあえず、消費の欲を消しさえすれば、日本では、生きていくことができる。空き家に住めば、家賃は限りなくゼロに近いし、スーパーマーケットで食材は何でも手に入る。少しの収入があれば。夢や願いを叶えるには、たくさんのことを諦める。たったひとつを貫くために。

ぼくは、家が欲しい訳ではなく、新鮮な眼差しを保つために、日本の日常を旅するために、空き家に滞在している。期間限定でいろんな土地を味わっている。長い歴史と培われてきた独自の文化。空き家を通じて100年分の過去まで旅してきた。おかげで日本がほんとうに豊かな国だと分かった。

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 朝から晩まで作品をつくるには、自分の発想がすべてだ。何を見て、何を食べて、何を感じ、何を考え、誰と何を話し何を聞くのか。体験が新鮮であるほど、純粋で真っ直ぐな作品が生まれる。ぼくを媒介するように作品は生まれてくる。いろんな影響を受けて作品は生まれてくる。素直であるほど、いいとか悪いの判断もない。最近は、自然ばかり。自然には無限のバリエーションがあって、同じ瞬間はない。なぜ存在するのか。人間も草も木も空も。そのこと自体が奇跡。シンプルな生活になると、自然が身近になるらしい。つまり野生化してくる。

 何のために「つくる」のか。心が望むことに没頭することが、もっとも平和な時間。波風が立たない。世の中がどんなに荒もうと争っていても、ここには平穏がある。それが分かった。嫁と共に人生に与えられた時間を過ごすこと。

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そうやって誕生したモノが人に社会に役に立つならば、それ以上の喜びはない。でも、まだ人や社会に役に立つほどの作品はつくれていない。それは収入に比例することでもあるから。誕生したカタチの価値は、鑑賞者に委ねられ、作品は見られるほど成長する。

つくり続けたいし、止まらない。何に向かっているのか分からないけど、信じる道を歩き続ければ、何かが起きる。それを証明したい。

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もうすぐ春だ。