いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

みんなが幸せになること。理想は夢かもしれない。

f:id:norioishiwata:20170311092210j:plainもう、小さな生活を嫁と2人でしていければいいと思っていた。しかし「信じること」は人を信じる者と書く「儲け」の字の意味に通じる生きるための技術らしい。

ぼくは、3年前に芸術で生きていくと決めて専念してきた。この3年間は 、それ以外をほとんどやらなかったので、収入はどんどん減って、自由な時間ばかりが増えた。でも、ぼくの心の中にはいつも確信があった。
 「自分が自分を信じないで誰がお前を信じる?」だからずっと信じて自分に投資してきた。

ところが、この春。爆発してる。やってきたことがひとつに集まってビッグバンを起している。

f:id:norioishiwata:20170311092257j:plain本が出版されて流通する。2冊目も出る予定だ。GWには、愛知県豊田市のお寺の本堂でこれまでつくってきた動物たちを展示する。今週の月曜日には池袋のボルダリングジムの壁に宇宙をペイントしてきた。

4月はGWに向けて、恵比寿ガーデンプレイスに廃材で小屋を建てることになった。小屋の周りで野菜を育て、植物を愛でる都市生活に自然をインストールする企画。4月1日、2日には、代々木公園で「音楽から盗む反抗生活のつくり方」と題したトークイベントもある。

ぼくは3年かけて、都市から自然へと生活の拠点を移していった。いまは岐阜県の森に暮らしている。そこで、水や火や土や風や、自然という現象からたくさんのことを教わった。

f:id:norioishiwata:20170311092352j:plain人間は自然の中に生きている。自然の中に都市がある。都市から自然は見えないが、自然から都市を俯瞰することはできる。都市と人間がいくら暴れても、それは地の果てをお釈迦様の手と勘違いした西遊記孫悟空のような、井の中の蛙で、自然が教えてくれる以上の発明も発見も存在しない。

ひとそれぞれいろいろな種を持っている。でも、種だからどんな芽が出るか分からない。それは持ち主にしか育てられない。芽が出ると、周りの人はやっと気がついてくれる。「へえ、そんなことしているんだ。」とか言って。

その芽が成長して実がなっても、まだ成果は出ない。その実をひとりふたり3人と、たくさんの人が味わって、それでようやく、少しだけ価値が生まれる。

何のためにぼくは、種を蒔いて育て、果実をつくるのか。ぼくにとっての果実とは「作品」だ。それはテキストも絵もコラージュも立体も家もイベントも生活も、どれも人間のためにつくっている。人間とは何なのか。この理解しても理解しても理解しきれない愛おしい動物。結局のところ、人間は既に狂っていると思う。たくさんの誤ちを積み重ね、誤魔化すうちに、それが常識になって受け継がれている。

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そんな人間が形成する社会のなかにも、僅かながら心地よい空間を作ることができる。そう信じている。ぼくはそれがアートだと思う。人間が理想を実現できる空間をあらゆる手段を使い表現してみたい。これでようやくスタート地点に立ったのかもしれない。
ここから上を目指すのではなく、水のように低いところへ流れていきたい。そこで出会う仲間と、小さなエネルギーを寄せ合って炎のように明るく燃えて辺りを照らしていく。

ぼくら夫婦の旅は、この春から北茨城に暮らすことになった。福島の隣だ。ある人は「放射能は大丈夫なのか?」と言う。ある人はWEBの記事をみせて「危険だ。」と言う。でもテレビのニュースやインターネットの情報では「ほんとう」のことは分からない。すべての情報は、誰かが編集した遠くの出来事だ。

 昨日、北茨城市の職員の人が「もう大丈夫です。6年前はもっと大変な状況でした。」と話してくれた。ぼくは目の前の言葉を信じる。ぼくたちの目の前以外、どこに自分の人生があるのだろうか。地方でも都市でもない、生きているここにしかない。

ひとりの人間なんて、大海原に流される棒みたいな存在だけど、ひとつここだ、という場所をみつけて、根を張り杭になれば、流されない強いチカラになることもできる。

f:id:norioishiwata:20170311093936j:plainみんなが幸せににるためには、みんなが生きる自信と勇気を持つこと。表現が、なんらかの意味で、人を励まし勇気づける存在でありたい。それがぼくの目指す「生活芸術」でもある。あと3年かけて「豊かな芸術」をつくりたい。