いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

大人が子供を教育する以上に大人は、子供の目線からより多くのことを学ぶことができる。

チフミの実家、長野県岡谷市で年を越すために津島から12月21日に車で移動した。年末までに、パフォーマンス1件、ライブ1件の予定があり、27日から29日まで東京で過ごす。

交通費がガソリン代だけなら、人はもっと移動するし、生活圏経済は豊かになるだろう。しかし、社会が要求するのは、貨幣経済圏の活性化。日々の暮らしは、搾取され毟り取られていると感じてしまう。

東京に生まれ育ち、都市から離れて感じるのは、ますます、人が自然に生きることが、難しい環境になっている。大切だとされてきたことを見失いつつある。「大切なこと」はひとそれぞれだろう。しかし、ぼくは、芸術、特に文学が追及してきた人間性について、注目している。つまり、こんなことを繰り返し人間は悩んできている。

例えば、名作「星の王子さま」が伝えていることは、どれだけ現代の社会に反映され、生活が営まれているのだろうか。
そんなことを言えば、あれはお話で、「ほんとう」ではないから、と片付けられてしまうのだろう。「風の谷のナウシカ」伝えてくれた自然との共生は、考えなくていいのだろうか。

ぼくにとって表現は、別世界の話ではなく、日常から地つづきで、日々の生活圏に含まれている。まさしく「星の王子さま」で「ぼく」がヘビに飲み込まれた象の絵を大人に見せて、帽子だと片付けられてしまったように、ぼく自身も非常識で、大人になれない「ぼく」のようだ。

仔細な変化や心の動きを見えない、感じないフリをしているうちに、ほんとうに大切なモノやコトが見えなくなってしまうことがある。だから、想像世界の住人でいることが、どんどん希少価値を帯びてくる。
お金がないと安心できないから、もちろんぼくもそうだけど、極力、お金を優先しないようにしている。お金がないことをできない理由にしないようにしている。
心の向くままに生きるのは、とても自然なことで、だからお金には直接結びつかない。ところが、素直に生きてみれば、それはそれで生活できるものだ。

27日朝、新宿駅に着いて、板橋区の家に帰り、バンドの機材を持って代々木のスタジオへ行った。音楽が唯一、ぼくが東京に残していったモノ。
バンドのリハーサルを終えて、また家に帰り、パフォーマンスの衣装を持って代官山unitに向かう。音楽家としてクリエイターとしてリスペクトするMoochyが声を掛けてくれ、マスクと衣装で踊ることになった。

音楽で踊るとは、根源的な表現。いまより太古では、もっと純粋に陶酔して踊っていたはずだ。お祭りという文化は、その痕跡を垣間見せる。
数ある音楽イベントのなかでも、縄文にコンセプトを置くOneness Meetingは、人間存在自体を問いかける文化的なメッセージを持っている。

会場に着いて話してみると、ステージでダンサーと共に踊ることに話しは飛躍した。ダンサーは、偶然にも大学の同級生(当時は知らない)、学生時代の友達の奥さんだった。おかげで、ミーティングで内容を決めて演出ができた。生まれて初めて「踊る」を表現した。

「できないことをやってみる」そうすれば、どうやればいいのか分かる。今回の「踊り」でヒントになったの甥っ子。彼は、フィギュアスケートの真似をして踊る。もちろん、適当に。でも、それはパフォーマンスとして成立している。なぜなら、迷いがないから。

大人だろうと、子供だろうと「新しいことをやる」ハードルは同じ。子供は数年で歩き、話すようになる。それほど無垢な心で世界と接すれば、大人になっても、もっといろんなことができるはず。だから、プロとかアマチュアを超えた領域で踊るという根源的なカタチを捉える挑戦をした。しかし、継続していくなら、越えなければならない壁が永遠に続く。

昨日のパフォーマンスは、その意味でベストだった。良かった悪かった、賛否両論あるだろうけど、あの時点ではあれ以上はないレベルの作品になった。まさにセッションのインプロビゼーションで、ライブという空間、ステージと客席、それらを身体表現で繋ぐ試みだった。これも15年間ライブバンドをやってきた経験のおかげだった。

ああだ、こうだいう人は、やっている人間がどういう経緯で、そしてどんな未来を見てるかまで知りもしない。そんな人の言葉に振り回されないで、自分のやりたいを優先させて続ければ、それはそれで芽を出し、果実となる。

夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/