いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

そこにあるもの。スタイルをつくること。

また札幌で神社改修をしている。前回、伐採した木を削って、柱に被せる柱を作っている。「そこにあるもので作る」という自分のスタイルに従って。

22日がフィンランドのレジデンスの締め切りだった。フィンランドからぼくのレジデンスに滞在に来てくれたヨハンナが教えてくれた。ほんの僅かな繋がりが次の展開を示してくれる。

レジデンスに申し込むモチベーションは英語で資料を作って提出すること。ぼくのやっていることを面白がってくれる人が世界のどこかにいたらすごいハッピーだし、それは大発見だ。そんな未知の惑星をみつけるような観測。そんな遊びかもしれない。

英語で自分をプレゼンして勉強になった。何より自分のスタイルは「そこにあるもので作る」だと気がついた。それを探究するのがぼくの没頭ポイントで、それにニーズがあるかどうかは、ことの次第。現在か遥か未来なのか。それは知ったことじゃない。

そこにあるのものの強度。そこにあることの個性。誰もその価値を発見してないことへの先見性。それを利用しない手はない。つまり唯一無二の存在を現すことができる。そこにあるもの、とは日本人が捉えてきた芸術性、侘び寂びに通じる。

そこにあるもの、とは自分自身が発見されることでもある。ぼくが身の回りのものの価値を発掘することが特技となって、ぼくそのものの価値となり、ぼくもまた誰かに発掘される。

札幌の神社改修は、なぜ自分にわざわざ頼むのか分からないところがあった。例えばアート作家ならもっと有名な人に依頼すれば知名度も上がる。でもそうじゃなかった。オーナーがD.I.Yやりたかったのだ。ぼくがやっているD.I.Yはいつも、また別の誰かが始めるきっかけになる。できそう、と思うんだろう。それがいい。みんながやればいい。すべての技術がそうだ。特別なことじゃない。技術もまた、そこにあるものだ。

おかげで神社改修はかなり進んでいる。いま分かってきたのは、ぼく自身が発掘され、舞台を用意してもらったこと。

誰かになろうとするのではなく自分自身になる。誰かが示すやり方や、成功を追うのではなく、自分の周りに転がっている断片を拾い集めて、それを磨く。自分の場合は、コラージュ、哲学、抵抗、D.I.Y、ロック、ヒップホップ、、成功ではない、上手くやることでもない、ありのまま、遊び、日常、生活、屋外、自然、例えば、こんなキーワードが浮かんでくる。

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朝起きて、水が湧く神社にいき、夕方まで木を削った。1日は皮剥き。2日目は木をくり抜き。今日5日目は微調整していよいよ、柱に被せる。