いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

おカネになること/ならないこと

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フィンランドから北茨城市にヨハンナさんが滞在制作に来た。これも夢の続きだ。自分が旅をしたとき、泊まる場所があって、制作できる空間があって、それも誰かが作った場所で。おかげで観光とは違う現地の人々の暮らしに触れることができた。

だから、自分も日本にそういう場所を創りたいと思った。アーティストインレジデンスを。2014年のことだった。ぼくは、自分の行為がおカネになるかどうかは問題にしない。まず、それをやりたいかどうか、から始まる。これも習慣だと思う。小さなことから始めて、積み重ねていくうちに、自分に投資したことを回収するサイクルを見出せるようになる。

北茨城市では芸術家の地域おこし協力隊として、給料と制作費を頂いている。その御礼というか、その対価として、北茨城市の山奥にアートが生まれる場所を作ることを作品とした。ぼくは、その土地にある環境や素材を利用して作品をつくる。だから「家」はこの場合、地域の環境に適するように建てられているから、作品素材として向いている。特に古い家は、地域の素材を最大限に利用して建てられているから、それら自然に回帰する素材は、環境負荷も最小限でもある。そうした技術によって建てられた古い家は美しい。

施設が何もない土地にアートを表現するならば、建物を作るか、屋外に展示するしかない。アートが現在しない場所にアートを発生させることに興味がある。だから今は、廃墟を改修して、居住空間を作っている。今回は、なかなか時間を要する作品で、やってもやっても終わる気配がない。長い期間を費やす制作は、その間は何の結果もないから、何の判断もなく、純粋に創作していられる。つまり没頭している。

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昨日、2020年1月に開催される桃源郷芸術祭のときにツアーを組んだ人が打ち合わせに来てくれた。話のなかで「地域おこし協力隊の任期が終わったら収入はどうするのか?」という質問になった。

「ぼくがしていることがすぐにおカネにならなかったとしても、していることに何らかの価値があれば、死なないと思うんです。していることが役に立っているなら。それだけのことを自分でやれていると納得できて、それが成立しないなら社会の方に問題がある」

と答えた。

ぼくは、そういう覚悟でやっている。水になりたいと思っている。高い所から低い所へ。だから、誰かが同じようなことをしたいと手を挙げるなら、その道を譲りたい。自分はまた違う、誰も歩かない道をみつける。

「おカネになること/ならないこと」は常に崖っぷちのような裂け目を開いている。崖に落ちないように歩くことがおカネになることを選ぶことなら、崖から飛び降りることが、おカネにならないことを選ぶことだ。じゃあ、なぜ、崖から飛び降りるのか。

もちろん、崖の下には、水が流れているからだ。しかも大量に。崖の話は比喩だけれど、すぐにおカネになることは、重要なことじゃない。それは既に社会に役割があって価値が認められている。放っておいても誰かがやる。おカネにはならないけど、やらなければならないこと、やりたいと直感すること、それこそが自分が選ぶべき道だ。

もちろん、運にすべてを任せるばかりではなく、おカネになるような仕事もする。ぼくの場合は、絵を描くこと、文章を書くこと、話すこと。この3つは少しずつ仕事になっている。つまり、崖に飛び降りことは、おカネにならないけれど、ほかの3つの仕事の要素になっている。それを物語と言い換えることもできる。

【ヨハンナさんが来た物語】

循環している。2015年に愛知県津島市の空き家を改修して、その部屋を借りてくれた中野夫妻が「たんぽぽ屋」というお店をやって、2018年にそこで本を出版した記念トークイベントが開催され、そこで一度だけ出会った若山さんというフィンランドで活動する建築家が、北茨城市での今年のアーティストインレジデンスの滞在者募集を知ってくれ、わざわざ、行きたい人をフィンランドで探してくれ、ヨハンナさんは北茨城市から15万円の予算を得て、3週間の滞在制作をして、そのあと愛知県津島市にも2週間滞在することになった。

 

儲かった話でもないけれど、自分の行為が循環して誰かに幸せハッピーが訪れるなら、それは社会的に十二分に存在する意義がある。だから、目の前の安心安全に惑わされず、明日も明後日も崖から飛び降りる。そう生きたいと思う。そう信じれば、道は開ける。

 

実際に昨日は「収入はどうする?」と質問した人が、何か対価を支払わなければと、周りを見渡して、本を9冊も買ってくれた。