いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

作家が死んでも作品は生きている。生きている芸術に出会ったこと

本を出版するために紹介してもらった編集者のところへ話しにいった。別の編集者の紹介で「生きる芸術」の出版企画を持ち込んで、その返事を待っていた。既に、この本はいまは出せない、という回答をもらっていたが、担当編集者がはっきり言う人で納得するところがあったので、今後に繋がればと会いにいった。

この編集者の手掛けた本は、生き様をテーマにしている。数年前、本屋で手にしたクートラスというフランスの画家の本もこの人の仕事だった。
クートラスは、段ボールにタロットカードのような絵を6000点も残して貧困のうちに亡くなった。画廊に所属した時期もあるが辞めてしまった。お金のために画廊で絵を描き続けることができたのに、そうしなかった。

この編集者はぼくの書いた「生きる芸術」を「20年後なら、出版する意味があるかもしれない」と言った。人生の重さ、その年輪がページに刻まれ束ねられ本は真価を発揮するのかもしれない。その意味でぼくは、必ず本を出版する。そう確信している。

この編集者の眼差しが好きだ。ついつい流されて軽々しく跨いでしまう社会と芸術の隔たりを改めて気づかせてくれた。創造は孤独のうちに、人生の沈殿物のように蓄積されたエネルギーの発光体なのかもしれない。社会という集団の営みから遠く離れた、心の自然に宿るものなのかもしれない。

昨日この日記を書きながら、クートラスの絵をみにいくことにした。展示は渋谷の松濤美術館で3月9日まで開催している。
クートラスは、カンヴァスも買えず段ボールを切ってカードをつくり、そこに絵の具を繰り返し塗って、削ったり、アイロンをかけたり、放置して、自然が宿るのを待った。気に入らないものはまた上から塗りつぶして6000点にも及ぶカードをつくった。
それらの小さな作品と、たったひとりの無名なフランス人の画家、たまたま日本人の女性と付き合った時期があり、その女性がクートラスの死後、作品を管理して、彼について文章にまとめた。その原稿が人から人を経て、ぼくが出会った編集者の手に渡った。

クートラスの魂に誘われ、ぼくは彼の作品と対峙した。そこにはクートラスの人生の物語があった。ぼくは、彼の物語の登場人物になった。こうやって物語が編み続けられている限り、クートラスの魂はまだ発光している。作品をつくるという、出口のない迷宮を歩く作業を想いださせてくれた。今日は、チカラ強く、美しい芸術に出会うことができた。

 

夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/

生きる芸術のための生活者
石渡のりお
norioishiwata@gmail.com