いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

桃源郷芸術祭/Arigatee(ありがてえ) 

「忘れていた記憶が蘇ってきました。
過去と現在が繋がって驚いています、ありがとうございます。」

 20世帯もない小さな集落の古民家を改修したギャラリー・アトリエの展示をみてくれた人の言葉。

 
2018年3月14日から18日までの5日間、北茨城市の7箇所を舞台に「桃源郷芸術祭」が開催された。昨年の10月から改修してきた古民家Arigateeも、その会場のひとつとして参加した。築150年の古民家は、芸術祭の出展作品でもある。

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 できるだけ、そこにあるモノを素材にする
ぼくと妻が心掛けていること。買ってくればそれで満たされてしまうのを、別のモノで代用したり工夫するところに想像力が働いて、予期しなかったカタチが現れることがある。頭の中のイメージを超えた何か。勘違いやトライ&エラーがオリジナリティを発揮させる。それを失敗と名付け抹消しなければ。今日話した友達は「棚から牡丹餅」は努力の結晶だと評価した。つまり、棚に牡丹餅があることを発見したこと。その餅が棚から落ちてきたタイミングで、そこにいたこと。

 赤い屋根の古民家は、この土地に馴染み、自然の一部になっている。150年生き延びてきた家そのものが美しい。周辺環境も美しい。これがアートでないのだとしたら、ほとんどのアートは偽物だと思う。否。本物のアートをみつけ、これがアートですと提示するのが作家の仕事かもしれない。

別の企画で、布を集めていて、偶然、数メートルの長さの五色の布を手に入れた。これで古民家を飾ろう。イメージか湧いた。あらゆるところから、自在に距離を保つ。抵抗するでもなく、流されるでもなく、自立しているような。その状態を「A」という記号で表した。

f:id:norioishiwata:20180327192357j:plainここでは、arigatee のA。つまり感謝。artのA。attitudeのA。anarchy=無政府主義のサインでもある。

 

古い家には、人間が生きるために蓄えてきた技術と道具が結晶化している。現代に通用しない古いモノは化石とも言える。化石を標本として陳列する。それを博物館と呼ぶ。ぼくは、このarigatee にあったモノを発掘して磨き展示した。これは博物館に見立てたコラージュ作品。実在しない揚枝方民俗博物館を5日間だけ出現させた。

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訪れてくれた6割は50代以上だったと思う。そこの土地にあるモノは、その土地に生まれ育った人々の記憶の片隅に眠っているモノたちだった。鑑賞した人々の記憶は眠りから目を覚まして、かつての働きについて嬉々として語ってくれた。泣いて喜んでくれた人もいた。

 

ぼくの目的は「生きる」と対峙する機会をつくること。さらに言うなら、感動をつくりたい。心を動かしたい。その結果、作品がよければ、貨幣価値が生まれるのだと思う。

 こう言う人がいる
「作品の値段安くないですか。もっと高くした方がいいですよ」でも、そう言う人は買わない。

 78歳のお婆さんが猫の作品を買ってくれ、こう言った。
「賢い猫だこと。この子だったらエサ代もかからないし、わたしが死んでも大丈夫だわ」

 作品と鑑賞者の心が通じたとき作品は売れる。もちろん、作品が売れるのは嬉しいこと。感謝。

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家を作品にすることは、その空間で起きるすべてをアートだと言うことができる。ぼくの作品ではなく、そこに現れるパブリック・アートとしての作品。誰かと誰かが、そこで会話する。そこで生まれる気持ち。空気、鳥の声。風、花、木々に石。縁側に腰掛けて感じること。ときには雨、ときには晴れ。この場所に5日間で延べ500人も訪れてくれた。あの心地よい空間はみなさんの参加なくしては成立しなかった。そのひとりひとりに感謝です。

 

桃源郷芸術祭には、arigatee の他に、天心記念五浦美術館にも作品を展示した。

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 【MAGIC HOUR COLORS】

ひとつは、ペットボトルの筏で北茨城の海岸沿いの岩まで漕いでいくプロジェクト。この映像作品。筏の実物、絵画3点。

筏の実物は、使用済みペットボトルであることと海に浸かっていることから、展示できないかもと打診された。理由は自然物の展示は黴などの原因になりやすく、所蔵作品に影響を与える可能性があるからだった。かつて、新潟の美術館は、自然物を展示して、黴が広がって、所長が辞任する騒動になったらしい。

チフミはその話を聞いて、ペットボトルの筏を密封する方法を模索した。そして、無菌状態でペットボトルの筏を展示することに成功した。

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美術館は綺麗だし、成果になるけれど、木も飾れない石も置けない、花も活けれないのであれば、そこにある作品は、生きているのだろうかと考えてしまう。arigatee に、庭の梅を剪定したから飾ろうと持ってきてくれた梅の花を、牛乳を入れていた鉄瓶に挿したとき、とても美しかった。捨てられる梅の花が偶然に活躍する場面。そいう瞬間は、美術館では起こりえない。

北茨城市という地域でアートを魅せるなら、美術館からArigatee まで続く道の途中に見たり聞いたり感じたりすることこそがアートなんだと提案したい。だからこそ、桃源郷芸術祭で、もっとも桃源郷のような場所を会場にした。ぼくたちが、暮らしている日常こそが、もっとも美しく、また、そうなるように働きかける技術が、アートなんだと思う。

今回、展示で紹介できなかったけれど、Arigateeの裏に樹齢500年の木があると教えてもらって。昨日、その樹に会ってきた。

f:id:norioishiwata:20180327202306j:plain自然は大きい。人間は小さい。


生活芸術家
檻之汰鷲(おりのたわし)

http://orinotawashi.com/

 

いま生きている場所-生活圏としてのゾミア

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あなたはどこにいる?
In the place to be / いるべき場所

ぼくはどこにいるのか、と問われれば北茨城と答えることができる。ぼくは茨城県に暮らしている。けれども、毎日、同じ場所にいるのではなく、移動している。たまに東京へ行ったり、水戸に行ったりもする。けれども仙台や千葉にはいかない。まだネットワークがない。けれども明日、スカイプでミーティングするアイルランドの友達はいる。人との繋がりが人生を豊かにする。日本中に世界中に友達が欲しい。

ひとは、暮らしている家を中心に、移動しながら、ひとりひとりが異なった活動範囲を持っている。それを「生活圏」呼ぶ。

「あなたの生活圏はどの範囲ですか?」とはあまり使用しなけれど、これからは便利かもしれない。家から会社や、遊び場、友達や趣味、いろんな人間の側面をこの地図は明らかにしてくれる。今日は自由に地図をつくる方法について書こうと思う。

先週のこと。
以前、本の出版企画を持ち込んで相談に乗ってくれた三輪舎の中岡さんに会うため、水戸に行った。中岡さんは、いま茨城県の県北クリエイティブの編集を担当しているとのことだった。その日は、北茨城市に暮らすアーティストを紹介したホームページをつくった山根さんと、茨城大学民俗学の先生と呑むとのことで合流した。稀にまったく関係ない流れで出会った人同士が繋がることがある。そんなときは、面白いことが起きる予兆かもしれない。人が流れている。循環している。

生活芸術の原点
ぼくは、芸術をやっているつもりだけれど、世間のそれからはかけ離れてる。何せ、影響を受けているのは、宮沢賢治宮本常一宮本武蔵なのだから。そういう訳もあって、民俗学の本は好きで読んでて、自分なりの考えもあって、その研究者に会えるのはとても楽しみだった。

テーブルを囲んでみれば、民俗学から哲学まで、幅広く話題が尽きない文系男子飲み会だった。ぼくがなぜ、北茨城市に暮らし、どんなアート活動をしているのかを説明した。

f:id:norioishiwata:20180224224034j:plainアートを表現するには、まずライフスタイルを整理する必要がある。そう考えた。活動しやすい環境を持つこと。そのために、世界中の有名ではない表現者たちが、どう生き延びているのか、調査するための旅に出た。ヨーロッパとアフリカを旅した。アフリカのザンビアでは、アートどころではなく、日々サバイバルしている人々に出会い、生きる技術こそがアートだと発見した。その本質だと感じた泥の家をザンビアで建てた。泥の家をきっかけに、家は道具だと気がついて、日本に帰国して空き家を探し、木造住宅を改修できるようになった。木造住宅の木がどこから来たのか調査するために、岐阜県里山に暮らした。空き家を旅して辿り着いた三重県の伊勢志摩安乗では、海の暮らしを調査して、かつて海賊と呼ばれた人々がいたことを知った。

そこで語られた海賊とは、人を襲うのではなく、国家に従わない人々だった。乱暴者ではなく、国賊だった。その理由も、とても納得のいくものだった。

海で魚が捕れるので、生活には困らない。けれども、国家は田んぼをやって年貢を納めろと圧力をかける。それは生きるための労働ではなく、国家の支配による労役だ。それに抵抗して、独立国家のようになっていたこの地域の人々が海賊と呼ばれたという話だった。

そのエピソードをきっかけに、民俗学の先生から「ゾミア」という本についての話が始まった。
その本の原題は「the Art of Not Being Goberned」

先生は、タイトルに書かれた「アート」の意味が、日本語の芸術とは違うと教えてくれた。日本語には翻訳されていないアートの意味があると。タイトルを訳すなら「統治されない技術」となる。

先生はその本の内容をこう説明してくれた。

 

「未開民族と考えられている人々のなかに、実は国家の管理を逃れるために、敢えて、そうした暮らしを選んでいる民族がいるんです。いままでは、遅れていると考えられていたが、それはむしろ生き延びるための戦略とも解釈できるんです。」

アフリカのザンビアで出会った人々のなかには、未開拓な土地へ、転々としている人々がいた。ぼくが滞在させてもらったンデケビレッジも、まだ住所がなかった。開拓されて10年も経っていなかった。物価の高い中心市街地を離れて暮らす人々は、貧しいという理由だけでなく、独立するために、そうした選択をしていた可能性もあると知った。そしてぼく自身も、より自由なライフスタイルを手に入れるために、生活芸術というコンセプトをつくったのだと原点を再確認した。

f:id:norioishiwata:20180224224501j:plainそう。ぼくたちは、自分の地図を描くことができる。それは「生活圏」。すべてに対して、自由に距離を編集することができる。貨幣から、都市から自然から、テレビから、仕事から、ネット、SNS、友達、楽しみや趣味から。

ゾミアとは、東南アジア8ヶ国に跨る、複数の山岳民族の総称で、彼らは、原始的な暮らしをしながら、国家による支配から逃れ続けていた。

支配という大袈裟なことでなくても、ぼくたちは、ゾミア的な生活圏をつくることができる。そう。己をコントロールすることで。それは距離感とバランスだ。流されるものなかに流されない何者かになる。

ライフスタイルをつくる冒険は、続いている。何をどれだけやれば、理想の生活が完成するのだろうか。まるでそれは、青い鳥だ。もしくは、永遠の命を約束する火の鳥かもしれない。そうだ。鳥だ。飛べば見えるかもしれない。

檻之汰鷲(おりのたわし)とは、檻のような社会のなかで、アートのチカラで大空を飛ぶ鷲のように自由になること。

飛べ。

(つづく)

夫婦芸術家
コラージュアート
生きるための芸術

檻之汰鷲(おりのたわし)

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生きるための道具についてのメモ

f:id:norioishiwata:20180219202744j:plain今日は、道具の使い方を学んだ。昨日、ガーランド旗づくりで、年輩の方に布をハサミで切ってもらったところ「本職は布屋だったんだ」と。そして、ぼくらが使っているハサミの切れ味が悪いと、砥石を持参で、今日ハサミを研いでくれた。

布屋だったタイラさんは教えてくれた。
「仕事の終わりに、ハサミを研いで明日の準備をしたよ。明日の朝はすぐ仕事をはじめられるように。」「むかしの道具は、ひとつひとつ職人さんが手づくりしている。だから、修理もできるんだ。道具は使う人が手入れする。これが当たり前だったんだけどな。」

近くで様子を見ていた女性の方は「わたしは、布切りバサミ大切だから、家族に触らせないわ。今では、刃物は子供に危ないから触らないって言うけど、そうじゃなくて、刃物を落としたり、切れ味を悪くするから触らせなかったのよ。いつの間にか意味が変わってしまったのよ。」

ハサミ。切るためのモノ。文房具屋さんで買う。切れ味が悪くなったら捨てる。ぼくは、そういうハサミとの付き合い方をしてきた。コラージュで紙を切ったり、それなりにハサミを使うけれど、その程度の付き合い方しかしてなかった。だから、よく妻チフミに道具の使い方が悪いと注意されてきた。

f:id:norioishiwata:20180219202844j:plain道具。スマホ、パソコン、車、ノコギリ、丸ノコ、鑿、鉋、インパクト、筆。よく使うモノはこんなところだろうか。最近ようやく鑿を研げるようになった。自分で手入れすると、道具を大切にするようになる。なぜなら、それはお店では売っていない世界でだったひとつのモノへと変身するから。宝物。

壊れたらどうする?
毎日使う道具との接し方の影響力はとても大きい。手入れする習慣がなければ、やがて壊れる。直すという考え方がなければ、カスタマーセンターに持ち込むか、捨てるか、買い換えることになる。それしか方法を知らなければ、選択の余地はない。

思考は習慣化する。つまり、モノを手入れしたり直したりする発想がなければ、健康を意識したり、身体のメンテナンスをするという考え方さえも忘れてしまう。忘れているうちに消えてしまうのが文化だ。

 

「生きるための道具」

新たなコンセプトを発見した。何でも壊れたら、買い換えるのではなく、手入れして使う。直して使う。身体をメンテナンスして、食事も必要最低限にして、身の回りにあるモノを駆使する。人に親切にする。新しいモノよりも、何度でも不死鳥のように蘇る道具を手に入れる。大切にして自分だけの宝物にする。道具としての言葉。道具としての身体。道具としての家。道具としてのシリーズのバリエーションは増え続ける。それが豊かさ。なぜなら再生するから。不死鳥の如く。

アイディアの種は、至るところに落ちている。落ち穂拾い。そして、種を言葉にして、テキストとして蒔く。やがてアイディアの芽がでる。思考の畑を耕す。カルチャーの語源は、cultivate=耕す。道具をみつければ、それは永遠に使える。

(つづく)

 

生きるための芸術
サバイバルアート
生活芸術

檻之汰鷲(おりのたわし)

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過去の延長に未来があるのではなく、望む未来のために過去を編集する。

音楽と過ごした1週間だった。金曜日に渋谷でライブをやり、満員の会場で爆発した。ぼくはNOINONEというパンクバンドをやっている。けれども、死ぬほど音痴なので歌わない。言葉を発している。それはラップだという人もいる。ぼくは、激しく動きながらメッセージを伝えている。

自分なりの音楽のやり方を
20年近く続けてみつけた。
ライブの瞬間のみ存在する
音楽の価値を発見した。

f:id:norioishiwata:20180216222652j:plainぼくが好きな音楽のルーツ、ブルースは奴隷として連れて来られた黒人たちが労働するときに歌ったことに由来する。働く苦痛を和らげるために歌った。人々を癒したブルースは、やがて録音され、レコードになり、商品として流通された。それがロックンロールとなって、いまでは、売れない音楽には存在価値がないとさえ思われるようになった。メジャーデビューできなければ、CDをリリースできなければ、音楽への夢は潰えてしまうことさえある。

しかし、音楽が必ずしも商品である必要はない。音楽は希望であり、明日を生きるチカラになる。特技もなく、不安で未来が見えなかった中学生のぼくは、ボブ・マーリーの「ノー・ウーマン・ノー・クライ」を聴いて泣いた。

everything gonna be alright
(大丈夫、すべてうまくいく)

 

ライブの帰り、涙が溢れた。
表現を受け止めて楽しんでくれる人がいることは、そこに商品価値がなくても、感動が生まれている証だった。きっとはじまりは、こうだったんだと思う。ぼくが尊敬する音楽家たちも、こうやって、立ち上がり、活動を続けたんだと思う。ボブ・ディランは「何千人のコンサートよりも50人に歌う方が気持ちが届く。」とインタビューで語っていた。


ぼくの活動のルーツは音楽にある。

価値がないモノに
価値を与えたい。
金塊を叩いて
彫刻をつくるより
路傍の石を磨いて
その美しさを讃えたい。

そもそも、ぼく自身、役に立たない人間だ。勉強もスポーツも音楽も美術も得意ではなかった。進路は、早くから見えなかった。だから、ロックに救われたんだと思う。ロックは弱者や敗者に希望を与えるアートだ。

ぼくはバンド活動をやりながら、作家を目指し文章を書いて、アート作品をつくるようになった。はじめたのは28歳。(詳しくは「生きるための芸術」を読んでくれ)。文章もアートも音楽も別々の活動だった。アート作品には、文章は必要ないと言われたこともある。「生きるための芸術」を自分で編集して、出版社に持ち込んだときも、芸術を文章で説明した本は出版できないと言われたりもした。


けれど、文章を書くことは、自分が進むべき未来を照らしてくれる。どんなアート作品をつくるべきなのか教えてくれる。ぼくにとって欠かせない生きるための技術になっている。

 

作家の先輩がメールでこう言った。
「過去があるから、未来があるんじゃないってことに気がついて」

はじめはピンと来なかった。

「過去ってのは過ぎていく出来事の連続でしかなくて、でも未来をつくるために、過去を編集しているんだ」

そう言われて理解できた。

文章を書くときには、残す価値のある言葉や想いや出来事だけが綴られる。そうやって歴史は編集されていく。まさに自分のなかにある言葉を記録し過去を編集して、その言葉たちが次の行動を決める。

誰もが自分を持っている。ほんとうは。向き合わないだけで。ぼくは、思いついたことをメモするようになってから、やりたいことがはっきり見えるようになった。このブログを書きながら気づいたことがある。

音楽も文章もアート作品も
どれも根っこはひとつで
ぼくには伝えたいことがある。
ただそれだけだ。


父から手紙が届いた。
ぼくの名前は「のりお」で、ひらがななのだけど、父が市役所に矩生という漢字で名前の届けを出したら、使えないと言われてしまったらしい。

矩は、老子の弟子、柏矩(はくく)に由来するという。柏矩のエピソードが書かれた父の手紙を読んで、自分がしていること、しようとしていることが、名前の由来に一致して驚いた。


なぜ音楽するのか
なぜアートをつくるのか
なぜ生きるのか

編集された歴史を
書き換えて
ルーツをみつけ
流されない杭になる

われわれは
どこからやってきて
どこへいくのか

everything gonna be alrightだ。
(大丈夫、すべてうまくいく)

 

(つづく)

「お前がお前を信じなくて誰がお前を信じる?」by SAFARI

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今日は音楽の話しがしたい。なぜなら、2月9日にライブをやるからだ。ぼくは、夢のない子供だった。小学一年のとき、将来何になりたいか、という作文で何も浮かばず、サラリーマンと書いたのを覚えている。

初めて体験したコンサートは、小室哲哉TMネットワーク中学生のとき。場所は忘れたけど、2階席で座って見てたけど、突然の衝動で立ち上がった!(周りは座っているけど笑) これが音楽の原体験だった。

高校生のとき、地元の友達に誘われて、先輩たちとクラブに行った。芝浦のGOLD。分けもわからず、隅のほうにいたけど、深夜2時くらいになって、フロアに出て踊った。カッコいいとか悪いとかなくて、みんな勝手に踊りを楽しんでいるんだ、と知った。

高校生の文化祭で、教室をライブハウスにして、ベースを友達から貰って、ついにバンドをやった。

16歳になった頃には、夢を持つようになった。音楽に携わって生きていきたいと思うようになった。それからいろんなライブハウスやクラブに遊びに行き、友達や先輩と出会い、その繋がりで、音楽を仕事にできるようになった。

10代から20代は、自分の夢ややりたいことを理解してもらえなかったし、叶えられるような場所もなかった。けれども、好きで仕方がないし、それ以外には考えられないから、ずっと音楽の傍にいた。想いは伝わる。願いはいつか叶う。

結局、高校の学園祭でやった音楽イベントが自分の仕事になって、バンドもCDをリリースして売っているわけじゃないけど続けてきた。28歳のとき、自分が交通事故に遇い、それとは別に親友のバンドのメンバーが死んだ。

ぼくには、伝えたいことがあった。けれども勇気がなかった。交通事故と親友の死をきっかけに「やりたいことをやりたい」その気持ちが、心の底から沸き上がってきた。

ぼくは、文章も書きたいし、絵も描きたかった。でも才能がないと諦めていた。いや、何もしていないうちから、才能がないと決めつけられていた。

ぼくの好きなパンクバンドSAFARIはこう歌う
お前がお前を信じなくて誰がお前を信じる?」


ぼくは、誰に頼まれることも評価もなく、バンドを続けて、文章を書き続けて、絵を描き続けた。それが売れるとかおカネになるとか、それよりも、表現したくて伝えたくて。

ほんとうは
誰もが可能性の塊なんだ。

ぼくのバンドは、ポップスじゃない。ぼくは、聴いたことないような音楽がつくりたかった。大好きな音楽を全部詰め込んだような。パンクロックでハードコアで、ヒップホップでダンスミュージックで、実験的なクラウトロックのようで、真っ直ぐな日本語の歌を。

今回のライブは、16年前に亡くなったメンバーの子供が、16歳になって、音楽好きになっていて、ぼくたちのバンドに参加する。そんな奇跡が起きた。普通じゃない音楽なのに、その子は、このバンドにぴったりのギターを奏でる。ちょうどぼくが、コンサートで、立ち上がったり、夜こっそりクラブに行った年頃の彼が。

大丈夫。ダメだとか、
できないという大人はたくさんいるけれど
それは、やったことがないからそう言うだけだ。
何歳になったって夢は叶えられる。
70歳から星の観測をはじめたひとだっている。

この地球という惑星のうえで
繰り広げられる回転と偶然のマジック。
種も仕掛けもない、ほんとうの魔法。
ぼくは、そういう偶然に巡り合うとき感動する。

 

クラブで踊って何が悪い。アンダーグラウンドは、ルールが曖昧だからこそ、いろんな実験や挑戦が繰り広げられている場所で、そこから文化が誕生する。いつだってカルチャーは、マイノリティーがつくる。それをマジョリティがビジネスにする。

浮気や不倫なんてどうでもいい。それより酷い状況が社会に蔓延しているじゃないか。そもそも、テレビやネットでのネガティブなニュースもどうでもいい。目の前にいる君やこれから出会う誰かと過ごす時間の方が重要だ。

世の中には、つまらないニュースばっかり溢れているけど、楽しい場所もある。よいニュースもある。

もし音楽に興味があるなら、2月9日の渋谷LUSHに遊びに来てほしい。驚くほど、最高の雰囲気のなか、素晴らしいバンドたちが、夢を叶えて音楽を演奏している。それを聴いているひとたちもまた、たくさんの夢を抱えて輝いている。

2018.2.9.Fri FALSETTOS 1st Album Release Party
@Shibuya LUSH
LIVE
NINJAS
NOINONE
Tropical Death
in the sun
sing on the pole
FALSETTOS
●OPEN 18:00 / START 18:30
●ADV 2000 / DOOR 2500 (+1D)

カミサマは怒っているのではなかった

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神さまの怒りで、家のなかに水が吹き出したのだろうか。自然に囲まれて暮らしていると、そんな不思議なことが起きる。今日、古民家の改修作業をしていると、師匠が「庭のヘノコ石を運ぶっぺ。」と3人の仲間たちと現れた。

このARIGATEEには、たくさんの石がコレクションされていて、男性器と女性器のカタチの石は、ちょっとした名物だった。それは、ヘノコ石とか陰陽石(いんようせき)と呼ばれていて、ヘノコは、男性器のことで、陰陽石は、夫婦岩のことで、古くは子宝や安産祈祷の神として崇められていた。師匠は、先祖からのモノだから、大切にするため神社に奉納することにしていた。なんでも神社にもヘノコ石があるらしい。神聖な石なので御神酒と塩で清めて、なかなかの重さなので、大人5人で、知恵とチカラを出し合って石をトラックの荷台に乗せた。御神酒は飲んだらいい、と置いていってくれた。

師匠たちが、石を運んでいったので酒を飲もうかと、部屋に戻ると、聞いたことのない音がする。シャーーー。なに?なに? よく見ると、台所から水が吹き出している。外国人ではないけど、オーマイゴッド!!慌てて、駆け寄ると、蛇口が破裂している。手で塞ぎながら「チフミーー!」と叫んだ。

「何ー?」と現れた嫁も状況をみて、驚いたものの、すぐにタオルをたくさん用意して蛇口に巻いた。天才的な迅速な対応にもかかわらず、それでも水は止まらない。漬け物樽を蛇口の下に置いて、溢れる水をなんとか溜めて家が濡れるのを防いだが、それでもすぐ溢れてくる。

「水の元栓を閉めるんだ!」と叫ぶもどこにあるのか分からない。パニックだ。せっかく改修した家が水浸しになってしまう。「これは、カミサマの怒りかもしれない!」ぼくがそう言うと「そんなこと言わないで!」と嫁チフミに怒られる。

水を止めたい。チフミが師匠に電話した。ぼくは、柄杓をみつけて、樽の水をバケツに移す。溜まったら外に捨てる。この繰り返しで、浸水は防げるようになった。頼みの師匠は、電話に出なかったので、ぼくが、水の元栓を探したが、まったく見当たらない。どうしよう、どうすればいいんだ、と焦っているうちに師匠からの折り返しの電話で「井戸の電源を落としてみろ」

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そうして、水は治った。ARIGATEEの生活水は、井戸から汲み上げていて、ここ数日の寒さで、凍って出なくなっていた。蛇口の水が凍って膨張して、亀裂をつくり、氷が解けて水が吹き出したようだった。井戸だから、水道局に問い合わせる訳にもいかず、自然と共に生きるなら、あらゆるトラブルは自己責任になることを学んだ。

 

しかし、水が吹き出すタイミングに驚かされた。なにせ100年以上同じ場所にあった石を動かしたら、水が吹き出したような話だ。事件の最中は、カミサマの怒りとも思ったけれども、事態が終息してみれば、逆に良かったとも思えてきた。

 

例えば、数日不在にしているときに水が吹き出していたら、もっと事態は最悪なことになっていた。それに、凍っていた井戸水を解かしてくれたと解釈することもできる

 

「女性器のカタチをした石を動かすと、水を出してくれる。」

そう言い伝えよう。

 

なにせ、水がなければ、人間は生きていけない。実際、水が出なくて困っていた。だから、この事件の数時間後には、ぼくたちがいるときに水のトラブルが起きてくれたことへ、また水の恵みに対して、感謝する気持ちになった。

そんなトラブルも乗り越えてみれば、愛おしいばかりの、毎日コツコツと改修している北茨城の古民家ギャラリーARIGATEEは、かなり面白い空間に仕上がってきた。この場所が、いろんな人に利用され、愛され成長することを願う。

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見えない星を求めて。現代の仙人に会った話

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仙人に会った。きっと、こんな体験をした昔の人は、そう呼んだのだと思う。仙人は炭焼き小屋の上に住んでいた。誰も行かない、小高い空に近い場所に家を建て、自作の天体望遠鏡で、超新星を観測していた。

ずっと遠くの未だに発見されていない星をみつけるために、大学や研究機関が何億円も出資してつくる装置を自作してしまった。何百万円で。仙人が北茨城のこの山に引っ越してきたのが70歳。それから12年、仙人は星を探してきた。

「星をみることは宇宙に行くこと。だから、地球を見ることにもなる。この部屋は、ヨーロッパからアフリカ、アジアに別れている。世界を見渡しながら生きている。わたしは日本という単位では生きていない。」

仙人の家は北茨城産の木材で建てられた自作のログハウスだった。ドアには、素敵なステンドグラスが嵌めてある。

仙人は、この2年ほどで自分史を完成さたらしい。まだ膨らませることができるけれど、とりあえず5000枚。それを国会図書館に収める。自分が生きた記録を後世に残すために。100年後でも200年後にも発掘されればこの時代を読み解く鍵になる。

仙人は言った。

「歴史は、勝者の記録。名もない庶民の生活は、歴史に残らない。だから、わたしは記録を残したい。」

仙人は、自作の天体望遠鏡をみせてくれ、こう教えてくれた。

「夜、空を見上げれば星がみえるだろ? その星のひとつひとつは、恒星で、つまり太陽と同じで、その周りには地球のような惑星が存在する可能性があるんだよ。そう、宇宙人なんて夢でも空想でもない。けれど、もう時間がない。大切なことは、継続することだ。エネルギーを費やし過ぎて、続かなかったら、やらないに等しい。だから、自分のペースで続けることが大切だ。」

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「わたしという存在は、数分で構成している分子が新しくなっているし、わたしたちは、話しをしながら、分子を交換しているんだ。いまもぼくの身体を宇宙線が貫いている。この見えない線が、細胞のどこかに衝突する。そういう可能性もある。その衝撃が、突然変異を起こす。その繰り返しで、人間は進化したんじゃないだろうかと思うんだ。けれども肉体は老いていく。だから、畑仕事をして健康を保っているよ。」

宇宙からDNA、孔子から禅、細胞の話から不老不死、イスラム教とキリスト教の攻防、スペインとモロッコ、日本とアメリカ、そして、社会へ庶民がどう参加するべきなのか。82年分の博識が披露され、ティータイムは終わった。まるで手塚治虫火の鳥に出てくるマサトのようだった。なぜ、星を観測する場所が北茨城だったのか尋ねると「岡山県に次いで日本で晴れの日が多い場所なんだよ。」と教えてくれた。北茨城の空が、夕焼けがいつも美しいのは、そういう理由だったんだ。生きている場所が悪いとか、魅力があるない、とかではなく、目の前にあること、起きていることを感じる心があるか。何をみて、何を聞いて、何を考えるか。82歳のとき、ぼくは何をしているのだろうか。人生がそれだけ続くなら、いまから何を始めても遅くない。

昼と夜が逆転する星を観測する生活が厳しくなってきた仙人は、手伝いと話し相手を必要としているようなので、春になったら仙人の天体望遠鏡で、宇宙を覗いてみようと思う。

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