いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

光。

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動物をつくっている。「つくる」行為の原初は、天地創造として聖書に記さている。はじめに光ありき。形づくるのは、神の仕事とされる。土を捏ねて動物をつくり、やがて男をつくった。であるなら、ヒトもまた動物。

作品をつくることは、カタチを取り、色彩を与えること。自然のつくり出すカタチを捉えようとすれば、まるで神の仕事を真似るようで興味が尽きない。作品は何をつくらなければらないというルールも制約もないから、魅了されるモノコトをひたすらに追求することになる。

バルセロナを旅したとき、ぼくは2つの技術と遭遇した。ひとつは、船をつくる技術。ひとつは、動物をつくる技術。動物はパピエマシェという張り子に似た技法でつくる。アイルランド出身のトム・キャンベルに教えてもらった。紙と枝と小麦粉でつくる、そのどこでも実践できる技法に魅了されて、動物をつくり続けている。動物のカタチを捉えるために、枝で骨から組む。紙を何層にも重ねるから、木の年輪のような質感が現れ、そこに景色が見えるようになる。

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冬に暮らしていた岐阜県の古民家の山奥で、カモシカに遭遇したとき、その生命力に圧倒された。野生。動物をつくりながら、人間ばかりがとても違ってきていると思うようになった。野生の反対は栽培で、そう、人間はまるで栽培されているようだ。動物と人間。ほんとうは同じなのに、まるで違う次元の生き物のように扱われる。人間がつくった訳でもないのに。動物をつくりながら、シンプルな人間になりたいと思う。

生活芸術という活動では、旅をしたり、トークしたり、文章を書いたり、家を建てたり、芸術以外のことを芸術として表現しているけれど、絵や動物をつくることは、作品にすべてを込めているから、語る言葉がない。檻之汰鷲(おりのたわし)という夫婦がつくる作品は、生活芸術とは別の何かを目指しているのかもしれない。これを書きながら、新しいキャラクターに出会った。書くことは、心を土のように耕すことだ。誰かの心に光を差せればいい。光あれ。


 

夢は叶う。やり方はイメージが大切。

f:id:norioishiwata:20170412090647j:plain仕事にしろ、友達にしろ、恋人にしろ、日々の生活のすべてを自分で選んでいる。もしかしたら、まったく自分で選んでない人もいるかもしれない。自分で選んでいないのであれば、ぜひたった今から、自分の声に耳を傾けて、未来を選択してみて欲しい。

なぜ、こんなことを書くのか。なぜなら、ぼくは生活芸術家と名乗り、人生をつくれるかどうか実験してきたからだ。人生と言えば、大袈裟に聞こえるが、その一部でもある生活は、誰にでもつくれる。

どんな場所に、どんな家に、誰と暮らし、どんな仕事をして、何を食べて、どんな服を着て、毎日を過ごすのか。何を見て、何を聞いて、何を口にして誰と過ごすのか。人生とは時間だ。24時間は、人間に唯一平等に与えられた資源。

f:id:norioishiwata:20170412091149j:plainぼくは、嫁のチフミと結婚したけれど、違う会社にそれぞれ通っていたので、1日を一緒に過ごす時間はほんの数時間だった。寝ている時間を除けば。夫婦とは制度ではなく、男と女を、人間と人間を結ぶ自然現象でもある。けれども社会制度としての結婚にとらわれてしまうと、途端に楽しくない。結婚は契約ではない。違う。心の底から湧き上がる気持ちがあるから一緒にいる。それ以外に他に何が必要だろうか。書類? おカネ?

もうひとつ例えば話しをしよう。ぼくは、ずっと家に悩まされてきた。なぜなら、大きな家に住みたかった。できれば、少しでも新しく綺麗な、できるなら便利なところに。ところが、ほとんどの人がそう考えるから、そんな家は、どんどん値段が上がっていく。ニューヨークのマンハッタンに行けば、それこそ、何十万円もするアパートに暮らしている人もいるし、東京代々木の3LDKのマンションに住もうとすれば、そこそこの値段にもなる。

f:id:norioishiwata:20170411225400j:plainところがだ、みんなが住みたくない場所に行くほどに家賃は安くなる。アフリカのザンビアのサバンナでは、0円で家が建った。三重県志摩市阿児町安乗では家賃1万円だったし、岐阜県中津川市の古民家の家賃は0円だった。初めて暮らした空き家の愛知県津島市の長屋も0円だった。結論。家にもあれこれ種類があるが、家は住めればそれでいい。何にもないと言われる場所には、自然がたくさんある。その対極にはコンクリートジャングルの都市。

そもそも、何のために何をしているのか。ほとんど意味が分からないまま生きている。会社に行かなければならないから。働かなければならないから。しかし、何のために?人は、おカネを手にして豊かになるかと思いきや、ほとんど同じモノを手にしている。それぞれの単価が高くなるばかりで。他人との比較でよりよい家や服や飯や車のために。

誰かがつくった価値を求め続ける限りは、満足できない。どこまで追いかけても消費しかない。ところが、ひとつ生産してみると、視点が変わる。つくる喜びを知る。誰かにとっては、何でもないモノコトが美しく見える。それは成長するから、育てることができる。誰かに与えらたモノコトは成長させることができない。成長しないのは、自分で選んだ夢ではないからだ。誰かに便乗していたり、他力本願だったり、自分でイメージをコントロールできる環境にいないからだ。

f:id:norioishiwata:20170411225213j:plainそれは種を手に入れるのか、もしくは誰かが種から育てた果実を与えられるのかの違い。少しの違いが大きな違いになる。人間は皆ほとんど同じだから。だけど、失敗するかもしれないけれど、自分で種を撒いて、育んでみて、消費者から生産者になることは生活の革命だ。パンを買うのか、焼くのか。選択こそが創造だから。自分のイメージを大切に育ててみることが、人生をつくる。

ぼくは、夢が現実になった途端に次の夢へと逃げる。そうやっていつまでも、素人のままでいる。なぜなら、ビギナーズラックがあるから。それはコントロールできない天然の魔法だから。コントロールできない奇跡を操る技術。大人なのにバカみたいな話で、子供のままでいることをピーターパンシンドロームというらしい。子供のころ、母親から教えられた。ところが、大人よりも子供の方が、柔軟かつ発想が豊かで、ハッピーな日々を過ごしていると思わないか?

f:id:norioishiwata:20170411225826j:plain子供のままで何が悪い? 永遠に子供のままで死んだってOK。「星の王子さま」に感動した心は、老人になっても失わない。大人になるってことが、みんなと同じになるってことなら、いつまでも子供のままでいい。人が住みたくない小さな古い家で、何にもないといわれる自然のなかで、ヒーローごっこをしながら、生きていたい。大丈夫。既に、いくつもの種を持っているのだから。あとは撒いて、芽が出ることを信じて見守るだけでいい。

いくつもの人生があっても、生きるのはひとつの道。

人生はいろいろ。ほんとに。いろんな人の数だけある。人と人が重なるのは一瞬のこと。友達とか仕事とか愛や恋や。自分の人生は自分にしか見えない。

f:id:norioishiwata:20170405093226j:plainそんなぼくの昨日の人生は、北茨城市の新しく暮らす家で目覚めてスタート。GWに展示する動物をつくった。嫁のチフミはオランウータンを、ぼくはキツネとネコを。午前中に、少し前に暮らしていたお隣さんが置いていった洗濯機が運ばれてきてゼロ円で入手。ラッキー。洗濯機は洗濯できればいい。それ以上の機能はすべてオマケだ。

お昼は、チフミがつくってくれた満足のランチで、デザート代わりにパンにバターをつけてコーヒーを飲みながら食べていたら、バターをコーヒーの中に落としてしまった。残念な気持ちになったけど、全部飲んでみた。味はイマイチだったけど、お腹の中では同じだから、まあいいと思う。

 気をとりなおして、キツネを磨いて仕上げた。その間、チフミは東京に帰るための荷造りをしてくれ、15時に出発すると、なんと車の調子が悪い。ぼくらは2年前に中古で買った軽自動車を【ホワイティ】と名付けて親しんでいた。何でも名付けると愛着が湧くし個性さえ溢れてくる。ホワイティは、言うならば馬だ。ぼくらを乗せて、約2年間で地球一周ほど走ってくれた生き物。イエローハットに行くも、修理できないと言われ、騙し騙しなら走れるかも、という言葉を信じて東京に向かった。距離にして160km。ホワイティは、信号で止まる度にエンジンが止まってしまう状態。それでも高速をかっ飛ばして(時速80km)、東京に着く頃には、信号でも止まらなくなって、なんとか車検をしてもらったお店にゴールした。

お店のお兄さんは「よくここまで走ってきましたね。キャブレターが吹っ飛んでますね。」お兄さんは、代車を手配してくれ、ホワイティの修理を見積もってくれることになった。

 考えてみれば、愛知県津島市の空き家に暮らすのをきっかけにホワイティを14万円で買って、それから三重県岐阜県、神奈川県と空き家を巡る冒険はすべて彼のおかげだった。修理をしてくれるお兄さんは「軽自動車は人間に例えるなら10万キロで100歳ですから。」と教えてくれた。100歳の老人を足にして走り周っていたぼくらはかなりアホだけど、無知って最強説あるかも。

f:id:norioishiwata:20170405095044j:plain別に高級でも特別でなくても、愛して大切にすれば、モノコトは、応えてくれる。敬愛する宮本武蔵は、五輪書で、一切の無駄をなくすことを説いている。ぼくには、まだ無駄が多いけれど、一日という過ぎ去っていく今日を感謝する気持ちは、無駄を少なくしてくれるかもしれない。他人の人生や社会のエトセトラを覗く窓はたくさんあっても、自分の人生を覗く窓はひとつしかない。今日も感謝して生きれば、不幸中の幸いってシチュエーションが、人生を助けてくれる。

岡倉天心を生活芸術にインストールする

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「芸術家です」と名乗りながら、空き家を転々として、出会った環境で創作活動をして2年が過ぎ、昨年の冬に知り合いから「北茨城市が芸術家を募集しているよ」との情報を教えてもらい応募して、なんと採用され、北茨城市を拠点に芸術活動をすることになった。

 技術をどこかで学んだ訳でもなく、自分のなかから湧いてきたコラージュという技法と、表現して生きていくという覚悟だけで、こんな展開を迎えた2017年の春。人生は何が起こるか分からない方が面白く、予定調和から逃げた方がハッピーエンドなのかもしれない。これはこの時代に適ったライフスタイルのつくり方かもしれない。少なくとも今現在は。

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 北茨城市は、日本美術の創始者とも言える岡倉天心が、隠遁した地として知られている。「茶の本」をはじめとした日本の伝統文化を西欧に紹介した人物でもある。

ぼくが、「生活芸術」というコンセプトを掲げるのも、ヨーロッパとアフリカを旅して、芸術とは、生きることに関する技術や表現だと考えるようになり、その道が、日本の伝統文化にあると気づかされたのがきっかけでもある。

ぼくが表現したい芸術とは、日本の美術だ。それは絵画や美術館やギャラリーではなく、生活のなかにある。宮沢賢治の農民芸術概論、柳宗悦の民芸、宮本常一民俗学に影響を受けてきた流れは、とても納得できる曲線を描いて岡倉天心をぼくのところにインストールしてくれた。

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人間は空っぽだ。子供は純粋無垢な心で、あらゆるモノコトを吸収していく。ぼくは42歳だけど、何ひとつ完成していない、未熟さのままで、単なる器でしかないから、新しい日本の美術をここから世界に向けて表現してやろう、という大胆な野望を抱く。まるで子供がヒーローの真似をするように。

生活を芸術にする目的は、世界中の人間が豊かに生きる可能性を提示することにある。

ぼくを採用してくれた北茨城市で、今日、嘱託式があった。
 市長は「芸術がなんだか全然分からないが、遠慮なく自由にやってくれ。」と言葉を贈ってくれた。
芸術家が生き延びる手段は時代によって変わる。作品を売るのと同じくらい、理解者を得ることは難しい。ぼくは、この機会を強力なパトロンが現れたと捉えて、存分に制作に没頭したい。それができる環境がついに手に入った。

日本の至るところに失われつつある、消えつつある、生活芸術を発掘し、未来のアートとして提案していきたい。岡倉天心をインストールするのだから、生活芸術を日本の伝統芸術の最先端に位置付けできるように挑戦してみたい。2020年を目指して。
 

技術を【インストール】することが生きるためのチカラになる

f:id:norioishiwata:20170316195017j:plain恵比寿ガーデンプレイスゴールデンウィークに小屋を建てることになり、それはそれで最高なオファーなのだけど、茅葺き屋根にしたい、という仲間のアイディアで、しかも茅も山に刈りにいくという100年前にタイムトリップする話になって、嫁と少々喧嘩しながら茅葺き屋根をどうやってつくるのかシミュレーションをしてみた。

f:id:norioishiwata:20170316193620j:plainそもそも、小屋の材料をゼロ円で、社会が必要としない、あちこちから集まったモノで建てることにして。茅も、いまでは使われない技術だからぜひ再現したいところだ。柱は、いま暮らしている古民家の森に倒れている木を使うことにして、森を歩いて木を選んだ。まさにこれが「気取る」の語源だと閃いた。

f:id:norioishiwata:20170316193932j:plainそもそも家とは竪穴式住居に遡る。きっと専門の技術者なんていなかった。実は、屋根とは、ティピや竪穴式住居のようなシェルターがルーツらしい。シェルターの空間を広く使いたい想いが壁を立ち上げた。だから小屋は、空間を囲う構造と、シェルターの屋根でつくられている。なんなら、箱をつくって、雨をしのぐ屋根をつければ「家」になる。では、何が屋根に適しているのか。調べてみると、「片流れ」「方形」「寄棟」「妻切り」が主な屋根のカタチ。

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イメージ的には「方形」がいい。考えてみれば、ザンビアで建てた泥の家にすべての要素が詰まっていた。それが「家」のオリジナルだった。

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f:id:norioishiwata:20170316194122j:plain記憶を頼りに模型で再現してみた。ここまでやって全体像がみえてきた。これは実現できる。

やりたいことは、いくらでもある。欲しいものは、頭の中にある。
今朝、起きてすぐに陶芸をやることにした。1月に粘土でつくった動物を焼くので、窯をつくるところからスタート。

f:id:norioishiwata:20170316194244j:plain森のイノシシが掘った穴に

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f:id:norioishiwata:20170316194457j:plain瓦とトタンと缶で窯の完成。

f:id:norioishiwata:20170316195700j:plain窯に火を入れて、粘土でつくった動物を焼いた。朝起きてから寝るまで、つくることばかりを考えている。なんて幸せなのだろうか。 眺めているうちにこの窯が作品だと気がついた。ラクではない仕事だからこそ発見できた。とびきり原始的な技術こそが、アートそのものだと。「技術」こそがアートの語源なのだから。

とびきり原始的な技術でつくられた小屋も、その「技術」こそが作品になる。技術は、インストールできる。つまり人生の武器になる。原始的な技術は誰でも使える。シンプルだから。という訳で、4月には、東京の恵比寿で「生きるための技術」のいくつかを発表するので、ぜひインストールしに来てください。

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屋根さえつくれれば、何処にでも家をつくれる。

みんなが幸せになること。理想は夢かもしれない。

f:id:norioishiwata:20170311092210j:plainもう、小さな生活を嫁と2人でしていければいいと思っていた。しかし「信じること」は人を信じる者と書く「儲け」の字の意味に通じる生きるための技術らしい。

ぼくは、3年前に芸術で生きていくと決めて専念してきた。この3年間は 、それ以外をほとんどやらなかったので、収入はどんどん減って、自由な時間ばかりが増えた。でも、ぼくの心の中にはいつも確信があった。
 「自分が自分を信じないで誰がお前を信じる?」だからずっと信じて自分に投資してきた。

ところが、この春。爆発してる。やってきたことがひとつに集まってビッグバンを起している。

f:id:norioishiwata:20170311092257j:plain本が出版されて流通する。2冊目も出る予定だ。GWには、愛知県豊田市のお寺の本堂でこれまでつくってきた動物たちを展示する。今週の月曜日には池袋のボルダリングジムの壁に宇宙をペイントしてきた。

4月はGWに向けて、恵比寿ガーデンプレイスに廃材で小屋を建てることになった。小屋の周りで野菜を育て、植物を愛でる都市生活に自然をインストールする企画。4月1日、2日には、代々木公園で「音楽から盗む反抗生活のつくり方」と題したトークイベントもある。

ぼくは3年かけて、都市から自然へと生活の拠点を移していった。いまは岐阜県の森に暮らしている。そこで、水や火や土や風や、自然という現象からたくさんのことを教わった。

f:id:norioishiwata:20170311092352j:plain人間は自然の中に生きている。自然の中に都市がある。都市から自然は見えないが、自然から都市を俯瞰することはできる。都市と人間がいくら暴れても、それは地の果てをお釈迦様の手と勘違いした西遊記孫悟空のような、井の中の蛙で、自然が教えてくれる以上の発明も発見も存在しない。

ひとそれぞれいろいろな種を持っている。でも、種だからどんな芽が出るか分からない。それは持ち主にしか育てられない。芽が出ると、周りの人はやっと気がついてくれる。「へえ、そんなことしているんだ。」とか言って。

その芽が成長して実がなっても、まだ成果は出ない。その実をひとりふたり3人と、たくさんの人が味わって、それでようやく、少しだけ価値が生まれる。

何のためにぼくは、種を蒔いて育て、果実をつくるのか。ぼくにとっての果実とは「作品」だ。それはテキストも絵もコラージュも立体も家もイベントも生活も、どれも人間のためにつくっている。人間とは何なのか。この理解しても理解しても理解しきれない愛おしい動物。結局のところ、人間は既に狂っていると思う。たくさんの誤ちを積み重ね、誤魔化すうちに、それが常識になって受け継がれている。

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そんな人間が形成する社会のなかにも、僅かながら心地よい空間を作ることができる。そう信じている。ぼくはそれがアートだと思う。人間が理想を実現できる空間をあらゆる手段を使い表現してみたい。これでようやくスタート地点に立ったのかもしれない。
ここから上を目指すのではなく、水のように低いところへ流れていきたい。そこで出会う仲間と、小さなエネルギーを寄せ合って炎のように明るく燃えて辺りを照らしていく。

ぼくら夫婦の旅は、この春から北茨城に暮らすことになった。福島の隣だ。ある人は「放射能は大丈夫なのか?」と言う。ある人はWEBの記事をみせて「危険だ。」と言う。でもテレビのニュースやインターネットの情報では「ほんとう」のことは分からない。すべての情報は、誰かが編集した遠くの出来事だ。

 昨日、北茨城市の職員の人が「もう大丈夫です。6年前はもっと大変な状況でした。」と話してくれた。ぼくは目の前の言葉を信じる。ぼくたちの目の前以外、どこに自分の人生があるのだろうか。地方でも都市でもない、生きているここにしかない。

ひとりの人間なんて、大海原に流される棒みたいな存在だけど、ひとつここだ、という場所をみつけて、根を張り杭になれば、流されない強いチカラになることもできる。

f:id:norioishiwata:20170311093936j:plainみんなが幸せににるためには、みんなが生きる自信と勇気を持つこと。表現が、なんらかの意味で、人を励まし勇気づける存在でありたい。それがぼくの目指す「生活芸術」でもある。あと3年かけて「豊かな芸術」をつくりたい。

高いところから低いところへ流れる水の生き方

水は高いところから低いところへ流れる。人よりも粗末な食事をし、人よりも粗末な服を着て、人よりも質素な生活をし、誰よりも贅沢な暮らしをする。「水の生き方」とはこういうスタイルかもしれない。

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 「何のために」を突き詰めていくと「水」になる。目的は、高いところではなく、低いところへ向い、周りを潤していく。

「しあわせ」には2種類あって「幸せ」は自分がハッピーになることで、その漢字のルーツは、囚われ、手枷を意味している。もうひとつの「仕合せ」は、具合よく重なることの意味で、アート技法のコラージュに通じるし、文化人類学でのブリコラージュでもある。 個人の「幸せ」を追求するならば、競争の世界が待っている。カフカの「城」か、バベルの塔か。争いは絶えず、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように他者を蹴落とし、高みを目指す宿命を負う。

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もうひとつの「仕合せ」は、自分の行動で周囲をよりよいカタチに変えていく。恋人でも、友達でも家族でも、会社でも、地域でも、自分が属するところをハッピーにする。それは、高いところに登るのではなく、手を差し伸べること。沈没船で、女性や子供を優先して助けるような。誰かの役に立てば、人間は生きていける。それが対価になり、生かされるようになる。

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中学生の頃から25年も音楽が好きだ。今はpenguin cafe orchestraを聞いてる土曜日の朝。
 10代や20代は、働いたおカネをレコードやライブに費やした。本も好きで読みもしない難しい本や装丁が美しい本を集めた。好きでどうしようもないことを抱きかかえながら生きてきた。

 1月末、音楽からのギフトが届いた。アメリカのロスアンゼルスのバンドが日本でライブをやりたい、だけど周りにライブハウスを知っている人がいない、ということでぼくに声が掛かった。みんなは、立派なホールしか知らないという。自分がよく遊んでいたライブハウスにアメリカのそのバンドマンを連れていくと、
 「これだ!これだよ!」と喜んでくれた。そしてこの男は「みんなで楽しみたいね!ライブを無料にしたい。そしたら日本の音楽好きが遊びに来れるだろ?」と言い出した。

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それが3月25日に下北沢スリーで開催される入場無料のイベントになった。このバンドはハンニ・エル・カティブ。そのリーダーでもあるハンニは、ステージの上から降りてきた。まるで水のように。ステージを観ている観客はひとりもいない。すべての人が、それぞれの人生のステージに立っている。

ぼくは何もしていないが、好きなことを好きでいたら、仕事になった話。好きでいた音楽がお返しをしてくれた。アートも本も10年が過ぎた頃からギフトを届けてくれるようになった。だから、競争なんかしないで、好きなモノコトを大切にしたらいい。自分を信じれば大丈夫。競争を止めれば、敵は同じ未来を目指す仲間になる。それが【水の生き方】だ。

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http://www.toos.co.jp/3/

このライブハウスの考え方もまた素晴らしい。