いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

冬の生活

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次のテーマは「冬」。
自然と対話したい。日本には四季があり、春夏秋冬とそれぞれ違う表情をみせてくれるから、冬を全身で受け止めて暮らしてみる。
冬は寒くて嫌なモノだけれど、自然の循環のなかでは、必要な季節であり、自然界から冬が消えてしまったら、それでは生態系が狂ってしまう。一方で便利が発達して、都市部での快適な暮らしの中から着実に冬が消えようとしている。

冬とは寒いこと。だから火は不可欠なのに、都市生活では火を自由に扱うことができない。毎日、踏みしめる足の下には土もない。極端な言い方をすれば、既に人間の生活は狂っている。

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岐阜県の加子母で知り合った杣(そま=きこり)の熊澤くんは「森を間伐したり手を入れるのは人間側からの必要だけの話しで、自然側からすれば、山崩れも長い目で捉えれば必要な現象なんだよ。」と話してくれた。

ぼくは、自然の側から人間の暮らしを観察してみたい。だから今年の冬は、岐阜県中津川市高山の古民家で過ごすことにした。その古民家で森と共に暮らす。
古い家で生活するのは、不便そのものだけど、不便は自然であり、便利は不自然だから、この場所で、不便な冬を楽しんでみたい。ぼくにとって不便は、チャンスでしかない。満たされれば、発見やアイディアは便利の中に埋もれてしまう。この「冬」にしか生まれない何かを誕生させてみたい。

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ぼくは「生活芸術」という仕事をつくった。

 生活とは「生きながらえるための生命活動」であり、生活芸術とは「美しく生きるための技術」であり、生活芸術の作品とは「美しく生きるための技術によってつくられた作品」。

この仕事は、
未だこの世の中に存在していないから、これに価値を与え、社会に流通させ、より生活芸術を深めていきたい。つまりは、都市生活にどうやって自然をインストールするのか、それが次のお題だ。

生きるから死ぬまでの芸術

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ここ1週間、福浦に滞在しながら、素晴らしいロケーションの家で作品展示をしながら顔料づくりの実験を繰り返した。
身の回りにある材料で作品をつくる【サバイバル・アート】の発想で、150万年前の地層から剥がれ落ちた土を採取してトライ&エラーを繰り返した。
絵をつくりながら、その作品が何からできて、その材料がどこからやってきて、それはどうなっていくのかを考えてきた。それは、古い家から学んだこと。

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偶然とはよくできた必然で、福浦のスーパーマーケットのゴミ箱で、最近注目していた本「スモール・イズ・ビューティフル」を拾った。その本は多いことや大きいことよりも、全体のバランスのなかで、つまり、生産性や経済成長ばかりを追うのではなく、自然という有限な資源のなかで、どう人類が社会をつくるべきかを提案していた。ぼくはその理想を社会に求めるのでなく、個人の生活のなかに求めることが今の時代に要求されていると感じている。誰かに要求するのではなく自分自身を駆使してこそ。

絵の具ひとつ、お金を出せば買うことができる。でも、その絵の具をつくるという選択肢もあるはずだ。

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福浦が与えてくれたテーマ「顔料づくり」。友人に誘われ辿り着いた場所で着想したのだから、この縁に感謝しかない。絵を描くというよりも環境からカタチを取り出す、彫刻のような制作方法。今回の課題は、土を細かく粉砕して不純物を取り除くこと、土に何を混ぜて絵の具のように固定させるのか。

インターネットで検索すれば、いくつものやり方がみつかる。たくさんあるなかで自分に適しているのは何か。答えはインターネットには書いていない。やってみなければ、自分の答えは手に入らない。

卵と植物性の油に土を混ぜれば、油絵の具と同じ効果が得られるし、木工用ボンドを水で溶いて使う方法もある。

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福浦港でみつけた古い船に惹かれ、それをコラージュで作品にすることにした。いくつかのアイディアは散らばっていて、どう作品に結びついていくのか分からないけど、それぞれを少しずつカタチにしていった。

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昨日の夜、友人からの電話で、とてもお世話になった人の死を知らされた。ガンだったが、奇跡的に回復して、音楽活動を続けていたから、深夜の知らせは、驚きが涙に変わった。

昨日と今日のように、突然、生が死に変わっても、生涯現役だった死は素晴らしいと思う。

生と死は表裏一体で、ぼくが追い求める芸術は、死の芸術でもある。だから、どのように死を迎えるかはとても重要。「生きろ」と社会は強制するが、ハッピーな死に方があってもいい。なければつくればいい。美しい死を。

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何十年も会わない友達は、目の前にいないから、存在していないとも言えるし、ぼくの目の前にいない誰かにとっては、ぼくは存在していないとも言える。ほとんどのモノコトは目の前に存在していない。見えるモノコトなんて、ほんとうに僅かだ。

だから、存在することよりも、目の前に存在しないことがこの世界のほとんどを占めている。

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多くの絵画はモノの存在をカタチにするが、ぼくはその不在をカタチにする絵もありえると気がついた。目の前に現れた存在を無にするような表現。空は青いけれども、その青も空も実体としては存在していないような。
始まりがあれば、終わりがくる。だから、終わってしまう前に始める。

消費の反対に創造あり

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朝から湯河原の福浦エリアを散歩してみた。家の裏側が半島の入り口になっているので、進むとケモノ道を発見。さらに進むといくつかの廃屋がある。こんな道がないところに家があるとは。さらに進むと、海に出れる様子。波の音が近づいてくる。

さらに進んだ先は、家の下だった。ぐるっと回って崖の下に出ただけだった。しかし収穫があった。その崖は150万年の地層が剥き出しになっているという。

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その色具合を見ているうちに、その土を絵の具にしようと閃いた。
 自然以外のほとんどは人間がつくり出したモノ。塗料のルーツを辿れば、壁画に答えがある。人類最古のアート、ラスコーの壁画は身の回りの顔料で描かれたことで知られている。

 空き家を巡り旅をして、家もまた自然からつくられていることを知り、人間の暮らしも自然のうえに成り立つことを学んだ。
 自然から手に入れた色彩で表現すれば、その色はそうやってしか手に入らないオリジナルなものになる。湯河原で顔料づくりに取り組むことにした。

消費の反対には
創造があり
自然のなかに
人間の営みがあり
雑草のように
自然と人工の狭間で
想像を価値に変え
根を張り生きていく

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【モノと人間】について。なぜ、こんなにモノが溢れているのに少しも満足できないのか。

いろんな場所を訪れて、いろんな人に会って話してみても、満足で幸せハッピーって人間はあまりいないが、なかでもアイルランド出身でバルセロナに移住して活動するアーティストMark Reddenだけは、子供のように創作と戯れていた。空き家に暮らし舟をつくって自然と戯れるライフスタイルは、彼の影響で始まっている。感動を素直に表現すれば、それはオリジナルになる。学ぶは真似ることだし、始めるに遅いなんてことはないから、いつでもスタートすればいい。今すぐに。

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東京の家を片づけて、身の回りのモノがなくなって感じるのは、季節のせいもあって寒さ。いよいよ冬がやってくる。今年の冬は、岐阜県中津川市の古民家で越す予定。そこで冬に直撃されてみたい。

 空き家を巡り学んだことは、江戸時代から昭和初期までの民衆の暮らし方だ。かつて人々は、自然や身の回りにあるモノを駆使して生活していた。材料にも限りがあり、ないものはあるものと交換して手に入れた。だから、モノを大切にする文化があった。
 中津川の古民家のお父さんの子供の頃も物々交換だったらしい。ほんの60年前の話しだ。
嫁の実家で余っていたお菓子を貰ってきて食べている。物が溢れる場所では魅力がないお菓子も、モノが少ない我が家に来ると重宝される。これいかに。学ぶことが多い。

 千利休の「家は雨が漏らなければ、食事は飢えなければ」を参考にしていたが、考えてみれば、利休は、その言葉とは正反対の栄華を極めていた。ここには見逃していた奥儀が潜んでいる。むしろ宮沢賢治の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の方が今の気持ちに響く。

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この3年間の活動から見えたのは、
ニューヨーク、マンハッタンの高層マンションに暮らす人々、その路上に生きる人々、ザンビアの泥の家に暮らす人々、東京で身を粉にして働き、働いては消費を繰り返す人々、地方で手に仕事を持って余暇を楽しむ家族、地方へ移住して自給自足に取り組む人々、快楽を貪る人々、捨てらた家たち、活用する路のない裏山の森、人々の暮らしから離れていく海、人間が開拓した場所に自然を回復させようとする雑草、スーパーマーケットに山のように陳列される食品、一方で、食べ物が手に入らない人々、スクラップ&ビルドな建築と行き場のない廃棄物。

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その何処かに自分の居場所を求めるのではなく、そのすべてが自分の世界で、その世界に生きる誰もが悩みを抱えている。その悩みを突破できるのは、ただひとつ【楽しみと喜び】だ。それを表現するのが芸術だと信じている。誰がなんと言おうと、喜びや楽しみを日々の暮らしに手繰り寄せ、憎しみや悲しみを遠ざけることだ。言うのは簡単だけど実行するのは難しい。世の中のほとんどは、ネットもテレビも雑誌も、妬み憎しみ悲劇を語る。それらを押し退けるチカラは【生きる目的】だ。

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だからこそ

冬の間
美しい暮らしを探求し
創作に専念して
雨ニモマケズ、風ニモマケズ、僕ハ、デクノボウニハナラナイ】
である。

 

身辺整理をしながら、改めて大切なモノコトを思い返した日【死ぬ訳でもないから】

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東京に戻り、家を片付けている。いくつか滞在できる空き家と出会ったので、これから漂泊民になってみようと思う。家があると安心だけど、遠くへ飛べないことも確かで、仕事も先が見えなければ不安だけど、見えないからこそ、自分で先の仕事をつくるようにもなる。不安とは自然現象であり、野生の証拠でもある。

東京に戻り、体調を崩して3日ほど寝込んで、週末に山梨の野外イベントで作品を制作し、戻ってきたら携帯電話を紛失していた。失態。おまけにノートパソコンの無線LAN機能が壊れてしまった。

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ノートパソコンは、4年前に購入してヨーロッパとアフリカの旅にも耐えた。池袋の量販店で、修理の相談をすると、このパソコンは、とても優れていたらしく、話を聞いているうちに感謝の気持ちが湧いてきた。考えてみれば身の回りにいろんな道具を持っている。

移動のための軽自動車、ノートパソコン、携帯電話、i-phone、丸ノコやインパクト、矩計、鑿、玄能、のこぎり、カヌー、釣り竿、靴や服、防寒着、布団やテント、両手、眼、足、鼻、口。日々、働いているのは、自分だけではなく、身の回りの道具たちも同じだ。

昨日は、新宿で本の出版の打ち合わせをした。水曜日の16時の予定だったのに間違えて火曜日に行ってしまった。曜日感覚も壊れている。それでも話しは進んで、いよいよ本を出版できる段取りが見えきた。20年来、お世話になってきた人と、こんな形で仕事をする未来があるとは。こんなに身近なところに夢が芽吹いていたとは。嬉しくて新宿から池袋まで歩いた。

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帰り道、ノートパソコンのことを想って歩いた。ずっと共に旅をしてきたし、出版する予定の本の編集作業もして、いろんな仕事をしてくれたパートナーだったと気がついた。もう少しこのノートパソコンに働いてもらって、本をもう一冊、この冬に書き上げよう、と考えて帰宅したら、紛失していた携帯電話が発見された。

東京に戻ってきて、深い谷に沈んでいるようで、遠くが見えないし、自然を感じることができなかったけど、太陽も昇るし月も星も見えるし、風も吹けば青空も広がる。

不安や不調があっても、感謝や愛が勝れば、奇跡は起きる。信じ続ければ、花は咲く。冬から春まで、次の夢を育ててみたい。

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どこからやってきて、どこへいくのか 【焚火曼荼羅】

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モノをつくるとき、材料がどこからやってきて、どうなっていくのか、考えてみると、すべて自然にあるものを利用できれば、成り立ちからその最期までが美しい。
山梨県昇仙峡の近くにあるキャンプ場で開催されたフェスOff-Toneで、会場にある石や木や草を並べ、曼荼羅をつくった。日が沈む頃に燃やし始めて、朝には灰になり、すべてが消えて無くなる。ぼくら夫婦が、もっとも理想とする作品のカタチだ。

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考えてみれば、生活のすべてを選択できて、それらがどう社会に影響するのか配慮して手に入れるなら、世界をずっと美しくできる。それは政府や企業がコントロールするものではなく、生活者の側からコントロールできる未来だ。ぼくは、それを「社会彫刻」と呼んでいる。その選択肢には消費だけでなく、自然も含まれている。

しかし、自然を相手にすることは、商品やサービスに比べ、扱いが難しく骨が折れるし、時には人から何かを奪うような暴力を働くこともある。それでも、何千年も、もっと遥か昔から営み続けてきた地球のシステムに従い生きる能力は、これからも絶対に必要不可欠な技術だ。

それらの能力は当然、商品やサービスではないから、どこにも売っていない。それらは、かつての知恵や、忘れられつつある、もしくは、役に立たたずに、サービスや商品未満として放棄されている領域にある。ぼくは、それらを掘り返して、社会に還元させたい。それを「生活芸術」と呼んでいる。

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社会には社会なりの像があり、無意識の「こうした方がよい」という強制力がそのカタチをつくっている。戦前、戦後、高度成長期、バブル崩壊東日本大震災以降、それぞれの時代にそれぞれの常識感覚が流通していた。

テレビも、冷蔵庫も洗濯機もないぼくら夫婦の生活は、両親の世代には美しくもなく、むしろ、なんでそんな暮らしを自ら選択するのか、と嫌がられることもある。それもそのはずで、常識や商品やサービスの外側に生活を発見しているからで、それでは100年以上も前の生活に逆戻りしてしまうからだ。

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何かをすれば、同時に何かを失う。ひとつの木を切れば、その木はなくなる。お金を使えば、自分の手元から消える。もっと、質のよい木を欲しいと手に入れれば、誰かはその木を手に入れることができない。お金をもっと欲しいと手に入れれば、誰かの手元からはそのお金は消えていく。しかし、みんなが同じ競争をする必要はない。

そもそも「働く」とは何なのか。人と人の間にあるニーズを満たしたときに価値が生まれる。それは貨幣流通以前から存在するコミュニケーションであり、経済の原点である。山の中にある木や石や草を集めても売れるほどの価値はないが、並べ方や場所や環境を考慮して、周りの人のためになる行為であれば、そこには価値が生まれる。

「生活芸術」は、人生そのものが作品で、誰もがつくることができる。その生活は、明らかに質素で、しかし、他の誰よりも豊かである。水が、高いところから低いところへ流れるように。至るところの生活を潤す、純粋な水のように。

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できないことなんてない。イメージできるのであれば。

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人は常に偶然によって人と出会い、恋人も友人もそうやって結ばれていく。社会は、常に人が人と縁を持つことでつくられていく。貨幣は、人と人が価値を円滑に交換するための道具であり、その行為が経済を動かしている。そうあるのが理想の社会像だ。理想がなければ、未来をつくることはできない。理想とは、勘違いのような思い付きを丸呑みして信じ込ませることだ。できないことなんてない。イメージできるのであれば。

生活芸術的商売の発見
愛知県津島市には、しげんカフェという廃棄物の買い取り施設があって、ぼくたち夫婦が今月制作したPOP LIFEの像の発泡スチロールの廃棄を引き取ってくれた。発泡スチロールはリサイクルできないので、買い取りではなく有料で、630円支払った。しげんカフェのスタッフは親切にも、いくつかのお金を支払わないで処理する方法を提案してくれた。ひとつは、少しずつ、ゴミの回収日に出すこと、ひとつは近所のスーパーの発泡スチロール容器の回収に少しずつ出すこと、だった。しかし、翌日に津島市を発つぼくらはすぐに処分したかったので、630円はむしろ安価だった。お店のスタッフは「申し訳ないね、ゴミを買い取りできたらいいんだけど、リサイクルできないからね、余計な出費をさせて申し訳ないね。」と言ってくれた。そのとき、喉が渇いていたので「チフミにジュースを買うから100円をくれ。」と言うとお店のスタッフの人が「そんなの買う必要ないなら、そこにある水を飲んでいいから。」と水筒を差し出してくれた。よく冷えた水は、乾きを癒してくれた。

しげんカフェのやっていることは、不用物に価値を与える仕事で、社会的に貢献度が高く、それは徳の高い心をつくるのかもしれないと思った。人の役に立ち、尚且つ、人から何も奪わずにむしろ与える。これこそ、生活芸術的な商売の態度だと思った。

土曜日の朝、津島での滞在制作した作品の写真撮影をして、徳川美術館の展示を見て、東京に向かった。東京の家をいよいよ引き払うことにした。ぼくたち夫婦は、利用価値のない空き家を転々として、その家に滞在して、使える状態にして家主にお返しする、そんな暮らしを始めている。

妄想と現実、怪獣の教え
昼から夕方まで、名古屋から東京まで車を走らせ、六本木に向かった。土曜日の夜は、友人のアーティスト、ピューぴる、ことぴゅーちゃんが、怪獣のデザインをした「怪獣の教え」という舞台を観る予定だった。

その舞台芸術は、いまの東京、日本を表現していた。
東京という街は、いつも東京だった。コンクリートに覆わて、人が溢れて消費を煽ってくる。いつも何かが欲しくて、常に消費を繰り返してしまう。働いても働いても、決して満足するこはない。
高校生のとき、気が狂ってしまった友達が「空を怪獣が飛んでいて、それは視界いっぱいに広がっていて、街は陰に覆われて、俺は銃を持って追跡したんだ。」と話したことを思い出した。その友人は、見ず知らずの他人の家の押入れに隠れていたのを発見され逮捕されてしまった。もし、彼がその妄想を文章や絵で表現していたら、また違う未来があったかもしれない。

「怪獣の教え」は、他の誰でもない自分の夢を生きろ、と伝えていた。

人は常に選択して生きている。右か左か。今か明日か。自分の夢を生きるとは、とても難しく険しい道だ。気がつかなければ、すぐに他人の夢に寄りかって生きてしまう。
東京で生まれ育ったぼくは、常に音楽や本を探していて、その刺激を理解することが、自分の価値だと思っていた。平日働き、休みになると、新しい刺激を追い求めていた。その頃は、まだ自分の夢を生きていなかった。誰かの夢を追体験して満足していた。それは常に消費だった。

どんな小さな夢の種でも、自分の心のなかで育て続ければ、やがて芽を出す。大抵の場合は、そんな小さな芽を育てるより、あっちの大きな畑で働いた方が効率が良いし、何より安心だ、とお世話をしてくれる。そうやって自分の畑を放置してしまう。

ぼくの場合は、嫁と一緒にアート活動を始めたこと、アート作品に貨幣価値を与え、仕事にしたこと。そこから自分の夢を生きる道が始まった。

それは些細な頭に浮かんだイメージを捉えてカタチにしていく作業だ。例えば「空き家に住んでみよう」と思いつく。どうすればいいのか考える。それができない理由を消去していく。ライフスタイルをつくることは、この時代に最もクリエイティブな表現だと思う。そう行動する人間が増えれば社会が変わる。

自分の夢を生きるとは、とても危険で不安なことだ。誰かが完成させた夢を追体験するのとは次元が違い、夢を現実とすり替えてしまうことだから。しかし、好きなことをしているから、何の苦労も不安もない。そのことをしている限り。それはときに自分との闘いでスポーツのようでもある。そこには優しさや愛や勇気といった、大きな畑で忘れられていく大切なことが詰まっているように思う。

徳川美術館に陳列された品々は、手工業の傑作ばかりで、自然をモチーフにした作品が多かった。そのはずで、200年も前には、自然が身近で、生活のすべてで、そこには畏怖があり、至るところに神が宿る信仰があり、だからこそ美しい瞬間を捉えることができたのかもしれない。

ぼくは自分のつくるものに価値が与えれら、人の手に渡ることを大事にしたい。それは、人と人の出会いであり、そこに価値が生まれる瞬間だから。その人から戴いた価値を、よい未来へと循環する社会をつくるための糧にして生きていく。だからこそ、生活は芸術であり、社会が押し付けてくる現実を押し退け、ぼくの夢に浸食されて理想が立ち現れてくる。「怪獣の教え」を観て、ぼくは、2013年から自分の人生の舞台に立ち続けていると気がついた。

次のテーマは「商い」
「世界旅行」「空き家」とテーマをみつけては開拓してきたぼくら夫婦の次の冒険は「商い」にしてみたい。商売をテーマに、自然や社会から採取できるマテリアルをアートにして、貨幣経済へと還元させる理想の交易を描いてみようと思う。
生活芸術とは、生きること、当たり前の日常のなかを冒険すること。日々のルーティンも、僅か右や左に寄れば、まったく新しい世界が広がっている。思いついたことは、まずやってみる。ぼくら夫婦にできることは、誰にでもできる。生き方は、自分の手でつくれることを証明しよう。

商いの原則
1. 他より安い物
2. 質の高い良い物
3. 付加価値の付いた物
4. 誰かに頼まれるようなこと
5. 売れる場所をみつける
6. 儲からないと思われているもの
7. 暇を潰せるもの
8. 人生の悩みを解決出来る術