いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

豊かさは貨幣に換算できない。

これは3年前の記事だけど、やろうとしていることは、全く変わっていない。変わったのは、やろうとしていることが、やったことになったぐらい。人間には「できる」と「できない」がある。その障壁を越えるのは、習慣をコントロールすることだ。

 

何ができたら、よりよい暮らしをつくれるのか。よりよい暮らしとは何だろうか。「よりよい暮らし」とは、ぼくの場合、無理をしないことだ。無理をしないと言っても怠けるのとは、また違う。

 

木曜日の夜に、友達と馴染みのお店「太信」に夕飯を食べに行くと、店主のマエケンさんが

「明日の夜、満席でとても回せそうにないから手伝って欲しい」と言われた。つまりはバイトなんだけど、このカタチで頼まれたことはなかったし、好きなお店のピンチなら助けたいと思った。

翌日の夕方から何十年振りに、飲食店のアルバイトをした。基本は配膳と片付け。お店の中を行ったり来たり。あっと言う間に時間は過ぎて、全身が痛い。太信は忙しいとき、こんなに働いているのか。正直驚いた。

 

ぼくは、ぼくなりに制作活動を日々続けているつもりだったけれど、もっとやれると思った。足りてないとさえ感じた。自分が自分をコントロールすることが生き延びる術でもある。

 

自由になることは、不自由になることだ。表現して生きていくことは、お金になることも、お金にならないこともやる必要がある。なぜなら、お金になることだけに価値がある訳じゃない。むしろ、お金にならないところに踏み込んで、オルタネイティブな価値を提案していきたい。具体的には、人生について。生まれてから死ぬまでのことについて。

 

何がしたいのか。面白く楽しく生きたい。それだけのために日常を冒険する。どこか遠くに行かなくても、身の回りにある環境を最大限に活用して、まるで、脱獄するように現実を豊かにするパフォーマンス。ぼくは、これを生きるための芸術と呼んでいる。

 

生きるために必要なのは食べ物。雨風を避ける屋根。それ以外に必要なものを交換する貨幣。まず、それらを手に入れるゲームとして日々の生活を楽しむ。

 

家については、2014年から2017年にかけて空き家と向き合い、ボロ屋に暮らしたおかけで、困ることはなくなった。ぼくたち夫婦は、家をいくつも手に入れる可能性もあるし、仮に暮らす場所もある。詳しくは、2冊目の本に書いたので読んでほしい。シンプルに言うなら、人が欲しない家屋で十分満足できる。満足できれば、家に対する欲望は消える。

 

おかげで新しい欲望を満たすことができる。その先に見えてきたのが、食料の問題だ。世界中のいろんな環境で、いろんな食文化が営まれていて、それはその土地から生み出されたものを、その土地に生きる人々が食べている。

 

北茨城のアトリエにしている古民家には庭があって、柿の木、柚子、金柑、キュウイが実る。夏にはミョウガが生えてくる。今年は、干し柿をやってみたけれど、時期が早かったのと、暖かかったので、腐ってしまった。津島に行ったときに、教えてもらったポン酢醤油は作った。柚子を絞って、みりんと醤油と混ぜるだけだ。けれども、お店で売ってるどんなポン酢醤油よりも、天然で100%な味を出せる。

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飛び切り美味いとか、売るほど特別なものでなくても、自分の生活を満たすだけの食べ物を作る可能性は、かなり余地がある。

 

週末に東京から友達が遊びに来て、話したことに「貨幣経済に換算できない豊かさがある」という話題があった。

 

つまり、北茨城では、野菜を貰ったり、調味料を自作したりという活動があって、それらは貨幣を介していないから、税金もかからないし、経済成長や景気云々の話しとも関係ない。実は豊かさは、こうした領域に広がっているじゃないかと思えきた。

 

じゃあ、この貨幣経済以外の豊かさを何と名付けて、遊んでみようか。もちろん、半農半Xとか自給自足とか、パーマカルチャーとか、いろんな試みに名前が与えられているけれど、それらを参照してしまえば、何も作ることがなくなってしまう。とりあえず、教科書は無視して、勝手に気ままに始める。そういう意味で無理をしない。自分のアンテナで行きたい方向に進めば、道に迷う。そこから冒険が始まる。ようやく、名前の未だない領域に出会うことができる。とにかく、食べ物について、考えて行動してみようと思う。

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アトリエに行くと、誰かが野菜を置いて行ってくれていた。まさに貨幣以外の交換経済。ありがとうございます。