いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

日々起きていること。見捨てるのか拾うのか。糞なのか宝物なのか。

起きたことを書く。10月19日。依頼されたデザイン仕事の締め切りが近くなってきたので、廃墟の改修はお休みして、一日中デザイン仕事に費やした。そうするつもりだったけれど、疲労が溜まってたらしく、昼過ぎまで寝てしまった。

起きて、デザインのイメージを下書きしてパネルに描いて、パソコンに取り込み、調整して、レイアウトして、夜10時頃にはカタチになった。

 

「仕事は何をしていますか?」「絵を描いています」と答えると「売れるんですか?」と聞かれる。常に売れる訳ではないけど、必要なときに売れる。同じように必要なときに仕事が回ってくる。デザインは、高校生のとき学園祭でライブハウスをやって、そのときにチラシを作って、それからずっとやっている。いつの間にか、それも仕事として対応できるようになった。デザインとアートの違いって話題もよくある。デザインは、依頼されてやること。アートは、頼まれなくてもやること、と区別してる。だからアート作品も頼まれて作るものは限りなくデザインに近い。純粋なアートは、ニーズを先取りするもので、とにかく作りたい衝動から生まれたもので、そこに奇跡的なニーズがあって、お金が発生した、というものだと思っている。頼まれたことをどんどんやっつけて、純粋な時間のなかで、誰にも頼まれもしないことに全力をを尽くす。それがアートだから暇なんて1ミリもない。休日もない。毎日創造したい。疲れたら倒れるように休息する。

 

10月20日。7月末に読売タウン誌に掲載された記事を読んでくれたご老人が水戸から奥様と見学に来てくれた。タウン誌では「廃墟を再生しているから廃材をください」と呼びかけた。おかげで、いろいろ提供してもらった。協力者は60歳以上の人ばかり。木材や建具がこれまでに提供された。捨てるものばかりだけれど、どれも工夫次第では、再利用できる。どうやって使うか、考えることで状況は変わり、イメージはデザインの向こう側へと広がる。

ご老人は、商業建築のプロデュースなどを手掛けきた協会も運営する人だった。息子さんがリサイクルをやっているから、協力したいと見に来てくれた。やたらに押し付けても無駄だから何が必要なのか見定めるため現地まで足を運んでくれた。

人のために何かをしようとするのはお年寄りが多い。時間と経済に少しは余裕があるからだろうか。ぼくも若い人に何かをしようとするべきだ。世代から世代へ豊かさが伝わっていかなければ。

何が欲しいか、と言われればキッチンが欲しい。けれど水がない。水をどうするか考える方が先だから、もう少し改修が進んで具体的に必要になったらリサイクルの店舗に来てくれ、という話になった。商業施設をプロデュースしている人なので、この場所に来た人を楽しませるポイントは何になるか、という質問をした。

「ここはわざわざ来る場所だから、なぜ来るかと言えば、自然があるからだろう。人は日常を離れたい。で、ここまで来たらコーヒーの一杯くらいお金を出すよ。それから、ドッグランとオートキャンプ場を作るといい。その管理棟として、このギャラリーがある。きっと魅力的な場所になるよ」

と話してくれた。

 

廃材をください、と呼びかけるメリットは、人に出会えることだ。お金を媒介しない代わりにコミュニケーションが発生する。待ち合わせしたり、連絡したり。そのうちに知り合いになる。つまり知らない人ではなくなる。この過程はとても重要だ。コミュニケーションをやがて交易へと発展させることもできる。お互いにとって有益な取り引きができる。ほんとうにお互いにとって有益なこととは、お互いが損をすることだ。損をする気持ちになれるようなことに生き甲斐があるように思う。

 

10月21日

明日は雨だとチフミに聞いて、せっかく新しくした柱や梁が濡れるのは嫌だな、と思って、トタン屋根を張った。とにかく廃墟の倉庫が大きくてなかなか終わらない。

午後は11月6日にアーツ千代田で開催される移住のイベントの打ち合わせが北茨城市役所であった。アート関係の人に移住をオススメするイベントでTURNSという雑誌のプロデュースをしている堀口さんと対談することになった。

「移住」というキーワードに関係するようになって5年経つ。東京ではなくても、どこでもいいと考えるようになって、地方に暮らす選択肢ができて、はじめは、とにかくどこか違うところに住んでみたいというモチベーションで、愛知県津島市に暮らした。

移住をオススメするときに思うのは、仕事の問題が大きくて、けれど、移住するからと言って、過去を一旦清算して、ゼロからやるんじゃなくて、今まで付き合いがあった人と、繋がりながら、仕事をしていく方が可能性は広がるし、社会とは人間と人間の繋がりな訳だから、どんな場面でも人を大切にした方がいい。仕事は人からしか回って来ない。雨のように空からは降って来ない。誰かが未来のクライアント、お客さん、パトロンになる。

北茨城市に移住したメリットは何ですか?と質問されて

「東京にいると情報量が多いんですね、ものを作るときにやっぱり見ているモノにインスパイアされるから、広告やテレビやニュースや人の話しが作品に影響して、広告とか誰かが作ったものに影響受けると、それはそれで直接的過ぎると問題あるけれど、北茨城では、ほとんど見てるものは自然だから、いくら模倣しても問題ないし、自然をテーマに表現することは、むしろ素晴らしいって言われたりしますから、ずっとこっちの方が環境的にはいいですね」と話した。代理店の人は、なるほど!と頷いてくれた。

ぼくには、東京生まれ育って、してきたことがあって、今でもその繋がりがあって、ぼくを知ってくれている人がいろんなカタチで、仕事をパスしてくれているから生きていられる。それはSNSやブログを通じて近況報告をしていて、アイツ今こんなことしてこんなこと考えているんだ、と思い出しくれ共感したところから、ライフラインを繋いでもらっている。「ライフライン」とはお金になる仕事のことだ。

 

この先どうなるのか分からないし安定なんかしないだろうけど、それでもやっていくしかないし、そういう生き方を選んだんだから、生き抜くしかない。そもそも、人間は生き物として安定したことなんかない。もし安定しているのだとしたら、誰かが不安定なところに立ってバランスを取ってくれているからだ。自然はいつもカオスだ。秩序を破壊する。それに抗って生きる。これが人間だ。

 

夜、チフミと話していたら、倉庫の構造は「合掌造りだ」ということになった。改修しながら、破損の激しい箇所は取り替えている。どうやら、むかしの大工さんの技術をコピーして、合掌造りをやっているらしい。楽器を演奏するように誰かが作ったものをコピーする。それが出来るのは技術が多少身に付いた証拠だ。

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廃墟には水がないから、トイレどうしようか問題があって、奇跡的に前に住もうとした誰かが汲み取りトイレの仕組みを作ってあって、それを利用する予定だったのだけど、チフミは汲み取りは嫌だ、ということで、コンポストトイレを自分が実践してみることになった。

まあ、実際「うんこ」は向き合うべき課題だろう。マイナスをプラスに転換したいなら。調べてみたら、ミミズが腐敗した有機物を分解して堆肥にしてくれるらしい。カナダのゴルフ場では実用されているらしい。新発見。次のテーマは「うんこ」になった。

続く