いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

道を見失ったら自分に聞いてみる。それが答えだ。

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ぼくは自分がどの辺にいるのか把握できなくなってきた。それは、地理的な位置ではなく、アート活動とライフスタイルの向かう先として。そんなときは自分との対話が足りていない。自分がどうしたいのかは、自分に聞けば、それが答えだ。

ぼくは、生きるために「つくり」、そのカタチを伝えることで、世の中に愉しみを提供したい。これこそがぼくの目指す生活芸術の態度だ。ぼくは今、岐阜県中津川市の古民家に暮らしている。朝から晩まで、作品づくりに集中している。作品はコラージュという技法でつくる。紙を切って貼って見たことないイメージをカタチにする。最近は自然をモチーフにすることが多くなってきた。

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 「自然」には2種類あって、それは人間側の都合でつくられた自然。もうひとつは地球規模の時間軸から見た自然。山の中に足を踏み入れても、そこはまだ人間側の自然の領域を出ない。足の踏み場がある山や森は人間によって管理されている。
 先日、木や枝を使ってデブリハットというシェルターをつくった。冬の前なので寒いとか熊がいるかもとか、いろいろな理由で、深夜に少しだけ横になって過ごしてみた。
そこは闇の世界だった。闇と言っても黒ではなく、紺色の静寂な空間が広がっていた。月明かりも手伝い、夜はとても豊かな空間だった。

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 自然に接近するほどに、今迄やってきたアートが薄っぺらく感じてしまう。それでも何でも、やらなければならない。なぜなら作品をつくることは、息をするのと同じで、意味なんか必要なかったりもする。生存に不可欠な行為なのだから。

 「つくる」行為にはいくつもの種類があり、すべての創造行為が、そこを起点にとび散っていく。

僅かな着想でコラージュ作品をつくることが多くなってきた。「森」「雑草」「女性」「火」、それぐらいのキーワードからスタートして、それぞれまったく違う作品に仕上がったりする。「それでいい。そこは実験の場所だし、コラージュで表現できないものがないほど追求すればいい。」とチフミは言ってくれた。

雑草は見たことのない景色「幻列島」に変わり、女性はデビッドボウイとプリンスの象徴画になり、火は自分では仕上げまで到達できなくて、チフミに壊してもらい完成に至った。

こうやってつくった作品たちを、貨幣と交換する。これは正しい経済活動だ。つくったカタチに社会的な価値が与えられ、ぼくら夫婦は、生き延びることができる。だから、贋金をつくっていると言い換えることもできる。作品づくりを時に「贋金づくり」と呼ぶ所以でもある。

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しかし、それとは別にぼくには伝えたいことがある。まったく別ではないにしろ、おカネと交換できなくてもやらなければならない使命がある。使命とは本人が勝手に思い込んでやるバカな行為のことだ。それが生きるための芸術だ。

ぼくは中津川の山の中で生きているが、多くの人は、そんな場所では生きていけないという。しかし人間は、森がなければ生きていけない事実もある。ぼくは幸いにも、そんな場所で生きていけるナリワイがある、と他人事のように羨ましがられる。ところが逆で、生きていく術がないからナリワイを生み出している。これは重要なポイントで、満たされてしまえば、人間は何もしない。命令でもされない限り。そう、人は、満たしてもらうために、命令され動く。そうやってほどほどに満たされて生きている。それでもいい。しかし、問題はそれでは嫌だという人までが強制的にその列に並ばされてしまう、日本の全体主義の暴力にある。

 一体、幸せになるのにどれだけ働けばいいのか。そもそも会社は誰かを幸せにするために、その機関を働かせているのか。そもそも国家は、国民の幸せのために機能しているのか。そもそもすべてが違う。そもそも経済のために働いている。それはそれでいい。それでは嫌だという人までがそれで満足しろ、と夢や目標までもが消されてしまうことに強烈な違和感を持っている。

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ここまで共感できる、あなた。もう芸術家になるしかない。なんでもいい。100円でも1000円でも貨幣価値を生み出す何かをトライ&エラー繰り返して、失敗は成功するための実験だと喜んで、根気よく続けて、自らの消費と支出の無駄をなくすことができれば、独立独歩の人生を歩むことができる。空き家暮らしは家賃をゼロに近づける技術でもある。経済社会から独立できれば、人生の時間はすべてあなたのものだから、それは豊かで幸せな暮らしになるに違いない。もうとっくにやってる人もいるかも知れない。それはそれで、ぼくは、それを伝えたくて、これを書いている。ほんの僅かな悩める友達のために。

この想いと日々つくるコラージュの間に、女と男という人間の最もベーシックなユニットの間に、自然と共にある昔の暮らしのなかに、普遍的な新しい芸術表現があるような気がしてぼくは嫁と活動をしている。
 実を言えば、その目的は、その行為をしている時点で達成している。毎日、作品づくりのことばかりを考えて嫁と旅をしながら、新しい体験と視点を手に入れて。そうした生活を手に入れるために2014年の春、空き家探しを始めた。
そう、これはこれで本にして出版する予定だ。これもその時に見た夢。つまり、ぼくは2年前の夢のなかにいて、その多くが現実になった今、ぼくはまた新しい夢の世界に逃げ出さなければ、この世界の住人になってしまう。冒険とは常に未だ見たことない世界を求めて旅をすることだから、捕らえられたら、満足したら終わってしまう。

ぼくはあると思う。人間がもっと根源的にその生を発揮できるライフスタイルが。それは国境を越えて、宗教や人種も越えて、人間が人間としてお互いを理解し合えるような、貧しさの向こう側に、経済的な利害を越えて、国家が単なる地方自治体ほどの小さな機関になるような、そんな視点をこの命がある限りに手にしてみたい。

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人間の巣【最もシンプルな家のつくり方】

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 遭難したり、家を失ってしまったらどうやって生き延びればいいのか。どんな動物にも睡眠や休息が必要で、安心して眠るには、巣が必要だ。人間も動物だから究極的には巣があれば生きていける。それが、このDebris hut(デブリハット)。

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木を組み合わせて骨をつくり、枝を絡ませて、その上から落ち葉で覆う。それだけ。作業は2時間ほど。最もシンプルな家のつくり方。

冬の生活

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次のテーマは「冬」。
自然と対話したい。日本には四季があり、春夏秋冬とそれぞれ違う表情をみせてくれるから、冬を全身で受け止めて暮らしてみる。
冬は寒くて嫌なモノだけれど、自然の循環のなかでは、必要な季節であり、自然界から冬が消えてしまったら、それでは生態系が狂ってしまう。一方で便利が発達して、都市部での快適な暮らしの中から着実に冬が消えようとしている。

冬とは寒いこと。だから火は不可欠なのに、都市生活では火を自由に扱うことができない。毎日、踏みしめる足の下には土もない。極端な言い方をすれば、既に人間の生活は狂っている。

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岐阜県の加子母で知り合った杣(そま=きこり)の熊澤くんは「森を間伐したり手を入れるのは人間側からの必要だけの話しで、自然側からすれば、山崩れも長い目で捉えれば必要な現象なんだよ。」と話してくれた。

ぼくは、自然の側から人間の暮らしを観察してみたい。だから今年の冬は、岐阜県中津川市高山の古民家で過ごすことにした。その古民家で森と共に暮らす。
古い家で生活するのは、不便そのものだけど、不便は自然であり、便利は不自然だから、この場所で、不便な冬を楽しんでみたい。ぼくにとって不便は、チャンスでしかない。満たされれば、発見やアイディアは便利の中に埋もれてしまう。この「冬」にしか生まれない何かを誕生させてみたい。

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ぼくは「生活芸術」という仕事をつくった。

 生活とは「生きながらえるための生命活動」であり、生活芸術とは「美しく生きるための技術」であり、生活芸術の作品とは「美しく生きるための技術によってつくられた作品」。

この仕事は、
未だこの世の中に存在していないから、これに価値を与え、社会に流通させ、より生活芸術を深めていきたい。つまりは、都市生活にどうやって自然をインストールするのか、それが次のお題だ。

生きるから死ぬまでの芸術

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ここ1週間、福浦に滞在しながら、素晴らしいロケーションの家で作品展示をしながら顔料づくりの実験を繰り返した。
身の回りにある材料で作品をつくる【サバイバル・アート】の発想で、150万年前の地層から剥がれ落ちた土を採取してトライ&エラーを繰り返した。
絵をつくりながら、その作品が何からできて、その材料がどこからやってきて、それはどうなっていくのかを考えてきた。それは、古い家から学んだこと。

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偶然とはよくできた必然で、福浦のスーパーマーケットのゴミ箱で、最近注目していた本「スモール・イズ・ビューティフル」を拾った。その本は多いことや大きいことよりも、全体のバランスのなかで、つまり、生産性や経済成長ばかりを追うのではなく、自然という有限な資源のなかで、どう人類が社会をつくるべきかを提案していた。ぼくはその理想を社会に求めるのでなく、個人の生活のなかに求めることが今の時代に要求されていると感じている。誰かに要求するのではなく自分自身を駆使してこそ。

絵の具ひとつ、お金を出せば買うことができる。でも、その絵の具をつくるという選択肢もあるはずだ。

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福浦が与えてくれたテーマ「顔料づくり」。友人に誘われ辿り着いた場所で着想したのだから、この縁に感謝しかない。絵を描くというよりも環境からカタチを取り出す、彫刻のような制作方法。今回の課題は、土を細かく粉砕して不純物を取り除くこと、土に何を混ぜて絵の具のように固定させるのか。

インターネットで検索すれば、いくつものやり方がみつかる。たくさんあるなかで自分に適しているのは何か。答えはインターネットには書いていない。やってみなければ、自分の答えは手に入らない。

卵と植物性の油に土を混ぜれば、油絵の具と同じ効果が得られるし、木工用ボンドを水で溶いて使う方法もある。

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福浦港でみつけた古い船に惹かれ、それをコラージュで作品にすることにした。いくつかのアイディアは散らばっていて、どう作品に結びついていくのか分からないけど、それぞれを少しずつカタチにしていった。

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昨日の夜、友人からの電話で、とてもお世話になった人の死を知らされた。ガンだったが、奇跡的に回復して、音楽活動を続けていたから、深夜の知らせは、驚きが涙に変わった。

昨日と今日のように、突然、生が死に変わっても、生涯現役だった死は素晴らしいと思う。

生と死は表裏一体で、ぼくが追い求める芸術は、死の芸術でもある。だから、どのように死を迎えるかはとても重要。「生きろ」と社会は強制するが、ハッピーな死に方があってもいい。なければつくればいい。美しい死を。

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何十年も会わない友達は、目の前にいないから、存在していないとも言えるし、ぼくの目の前にいない誰かにとっては、ぼくは存在していないとも言える。ほとんどのモノコトは目の前に存在していない。見えるモノコトなんて、ほんとうに僅かだ。

だから、存在することよりも、目の前に存在しないことがこの世界のほとんどを占めている。

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多くの絵画はモノの存在をカタチにするが、ぼくはその不在をカタチにする絵もありえると気がついた。目の前に現れた存在を無にするような表現。空は青いけれども、その青も空も実体としては存在していないような。
始まりがあれば、終わりがくる。だから、終わってしまう前に始める。

消費の反対に創造あり

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朝から湯河原の福浦エリアを散歩してみた。家の裏側が半島の入り口になっているので、進むとケモノ道を発見。さらに進むといくつかの廃屋がある。こんな道がないところに家があるとは。さらに進むと、海に出れる様子。波の音が近づいてくる。

さらに進んだ先は、家の下だった。ぐるっと回って崖の下に出ただけだった。しかし収穫があった。その崖は150万年の地層が剥き出しになっているという。

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その色具合を見ているうちに、その土を絵の具にしようと閃いた。
 自然以外のほとんどは人間がつくり出したモノ。塗料のルーツを辿れば、壁画に答えがある。人類最古のアート、ラスコーの壁画は身の回りの顔料で描かれたことで知られている。

 空き家を巡り旅をして、家もまた自然からつくられていることを知り、人間の暮らしも自然のうえに成り立つことを学んだ。
 自然から手に入れた色彩で表現すれば、その色はそうやってしか手に入らないオリジナルなものになる。湯河原で顔料づくりに取り組むことにした。

消費の反対には
創造があり
自然のなかに
人間の営みがあり
雑草のように
自然と人工の狭間で
想像を価値に変え
根を張り生きていく

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【モノと人間】について。なぜ、こんなにモノが溢れているのに少しも満足できないのか。

いろんな場所を訪れて、いろんな人に会って話してみても、満足で幸せハッピーって人間はあまりいないが、なかでもアイルランド出身でバルセロナに移住して活動するアーティストMark Reddenだけは、子供のように創作と戯れていた。空き家に暮らし舟をつくって自然と戯れるライフスタイルは、彼の影響で始まっている。感動を素直に表現すれば、それはオリジナルになる。学ぶは真似ることだし、始めるに遅いなんてことはないから、いつでもスタートすればいい。今すぐに。

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東京の家を片づけて、身の回りのモノがなくなって感じるのは、季節のせいもあって寒さ。いよいよ冬がやってくる。今年の冬は、岐阜県中津川市の古民家で越す予定。そこで冬に直撃されてみたい。

 空き家を巡り学んだことは、江戸時代から昭和初期までの民衆の暮らし方だ。かつて人々は、自然や身の回りにあるモノを駆使して生活していた。材料にも限りがあり、ないものはあるものと交換して手に入れた。だから、モノを大切にする文化があった。
 中津川の古民家のお父さんの子供の頃も物々交換だったらしい。ほんの60年前の話しだ。
嫁の実家で余っていたお菓子を貰ってきて食べている。物が溢れる場所では魅力がないお菓子も、モノが少ない我が家に来ると重宝される。これいかに。学ぶことが多い。

 千利休の「家は雨が漏らなければ、食事は飢えなければ」を参考にしていたが、考えてみれば、利休は、その言葉とは正反対の栄華を極めていた。ここには見逃していた奥儀が潜んでいる。むしろ宮沢賢治の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の方が今の気持ちに響く。

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この3年間の活動から見えたのは、
ニューヨーク、マンハッタンの高層マンションに暮らす人々、その路上に生きる人々、ザンビアの泥の家に暮らす人々、東京で身を粉にして働き、働いては消費を繰り返す人々、地方で手に仕事を持って余暇を楽しむ家族、地方へ移住して自給自足に取り組む人々、快楽を貪る人々、捨てらた家たち、活用する路のない裏山の森、人々の暮らしから離れていく海、人間が開拓した場所に自然を回復させようとする雑草、スーパーマーケットに山のように陳列される食品、一方で、食べ物が手に入らない人々、スクラップ&ビルドな建築と行き場のない廃棄物。

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その何処かに自分の居場所を求めるのではなく、そのすべてが自分の世界で、その世界に生きる誰もが悩みを抱えている。その悩みを突破できるのは、ただひとつ【楽しみと喜び】だ。それを表現するのが芸術だと信じている。誰がなんと言おうと、喜びや楽しみを日々の暮らしに手繰り寄せ、憎しみや悲しみを遠ざけることだ。言うのは簡単だけど実行するのは難しい。世の中のほとんどは、ネットもテレビも雑誌も、妬み憎しみ悲劇を語る。それらを押し退けるチカラは【生きる目的】だ。

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だからこそ

冬の間
美しい暮らしを探求し
創作に専念して
雨ニモマケズ、風ニモマケズ、僕ハ、デクノボウニハナラナイ】
である。

 

身辺整理をしながら、改めて大切なモノコトを思い返した日【死ぬ訳でもないから】

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東京に戻り、家を片付けている。いくつか滞在できる空き家と出会ったので、これから漂泊民になってみようと思う。家があると安心だけど、遠くへ飛べないことも確かで、仕事も先が見えなければ不安だけど、見えないからこそ、自分で先の仕事をつくるようにもなる。不安とは自然現象であり、野生の証拠でもある。

東京に戻り、体調を崩して3日ほど寝込んで、週末に山梨の野外イベントで作品を制作し、戻ってきたら携帯電話を紛失していた。失態。おまけにノートパソコンの無線LAN機能が壊れてしまった。

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ノートパソコンは、4年前に購入してヨーロッパとアフリカの旅にも耐えた。池袋の量販店で、修理の相談をすると、このパソコンは、とても優れていたらしく、話を聞いているうちに感謝の気持ちが湧いてきた。考えてみれば身の回りにいろんな道具を持っている。

移動のための軽自動車、ノートパソコン、携帯電話、i-phone、丸ノコやインパクト、矩計、鑿、玄能、のこぎり、カヌー、釣り竿、靴や服、防寒着、布団やテント、両手、眼、足、鼻、口。日々、働いているのは、自分だけではなく、身の回りの道具たちも同じだ。

昨日は、新宿で本の出版の打ち合わせをした。水曜日の16時の予定だったのに間違えて火曜日に行ってしまった。曜日感覚も壊れている。それでも話しは進んで、いよいよ本を出版できる段取りが見えきた。20年来、お世話になってきた人と、こんな形で仕事をする未来があるとは。こんなに身近なところに夢が芽吹いていたとは。嬉しくて新宿から池袋まで歩いた。

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帰り道、ノートパソコンのことを想って歩いた。ずっと共に旅をしてきたし、出版する予定の本の編集作業もして、いろんな仕事をしてくれたパートナーだったと気がついた。もう少しこのノートパソコンに働いてもらって、本をもう一冊、この冬に書き上げよう、と考えて帰宅したら、紛失していた携帯電話が発見された。

東京に戻ってきて、深い谷に沈んでいるようで、遠くが見えないし、自然を感じることができなかったけど、太陽も昇るし月も星も見えるし、風も吹けば青空も広がる。

不安や不調があっても、感謝や愛が勝れば、奇跡は起きる。信じ続ければ、花は咲く。冬から春まで、次の夢を育ててみたい。

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