いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活のリズム

暮らしにはリズムがある。何時に起きて何を仕事として、何時に食事をして何時に好きなことをして、何時に寝るのか。いつも「何時」に支配されている。「何時」とは時間のことだ。

 

かなり前に(もう10年以上前に)「時間を生かす」という本を拾った。ここには時間について、どう時間をコントロールすれば良いのか書いてある。つまり時間を良きパートナーにする方法が書いてある。

ここ数ヶ月は、廃墟の改修をしていて、いまはコンクリートの土間打ちをしていて、仕事はまさに土木作業で、肉体の消耗が激しくて、夜は疲れてダラけてしまう。ぼくの心に刻まれている座右の銘は「怠けない」。ぼくの祖父の家にお世話になったことがある小笠原さんという方が教えてくれた言葉。きっと人それぞれに、そういう言葉があるはずだ。それを作品にしようと考えている。

 

話が逸れた。「怠けない」ためには時間をコントロールする必要がある。改修仕事の後に予定を残さないことだ。そのために今日は朝5時に起きた。起きてメールを整理して返信した。そして、これを書いている。

現代では「人間」がどんどん破壊されている。だから、ぼくは人間とは何かを追求している。人間とはなぜ生きるのか。生きるとは何か。究極のところ、芸術に関係しなくてもいい。芸術もどんどん、その意味を狭めている。今読んでいるハイデガーの本には言葉の意味が時代によって変遷していく様が描かれていた。「芸術」も広義の意味と狭義の意味があって、ぼく自身は広く音楽、文学、絵画、彫刻、建築、農業と学んでいきたい。

 

けれども、ぼく自身に欠陥があって、学習能力が低い。子供の頃、火が熱いといくら注意をしても、結局ストーブを触って火傷するまで理解できなかったそうで、今でも同じだ。だから、なんでもやってみるしかない。

 

生きていくために必要なものは、水、食料、おカネ、家、服。あと何だろうか。あと哲学が必要だと思う。もしくは宗教。ぼく自身は無宗教だけれど、信仰がある人には道徳がある。人間として、こうあるべきだという芯がある。ムスリムは一日5回お祈りをする。それだけ真剣に何かに向き合うことができれば、ぼくたちはもっといろんなことができる。

 

本は好きで、隙をみつけては、あれこれ読んでいる。なかでも最近はトルストイの民話にハマっている。「文読む月日」という本には古今東西の名言が365日に並べられていて圧巻だ。夜風呂に入りながら読んでいる。

 

例えば

二人の兄弟がいた。ひとりは王様に仕え、ひとりは額に汗を流して働いていた。あるとき富裕な兄が貧乏な弟に向かって言った。

「どうしてお前は王様に仕えないのだ?そうすれば苦しい労働から逃れられるのに」

それに対して貧乏な弟が言った。

「どうしてお兄さんは、卑屈な隷属の境遇から逃れようと努力しないのですか?むかしから賢者は言っていますよ。黄金の帯を締めて他人の奴僕になるよりは、自分の勤労によって得たパンを安心して食べる方がよいし、自分が奴隷であるしるしに両手を胸の上に置くよりも、それを使って石灰や泥を捏ねるほうがよいし、奴隷のように背中をかがめるよりも、一片のパンで満足する方がよい、と」

 

またこの数行後に

額に汗を流して働く生活の方が怠惰な生活よりも尊いと確信し、自らその信念に従って生き、またそのように生きる人々を高く評価する人々にとって、生きることは実に楽しい。

と書いてある。

 

ただぼくは真っ直ぐに生きてみたい。けれども、それは難しいと言う。もしくは、そんなことを考える必要はないと言う。それより「ちゃんと働きなさい」と言われる。働くとは何だろうか。ぼくはそう考えてしまう。だから自分なりに全力でやってみるしかない。問題は、何もしようとしてない自分に気がつくかどうか。

 

ぼくは自然と芸術の間に隠れている人間の美しさを生活のなかに発見したいと思っている。それは都会ではできない。だから、いま暮らしている北茨城市に魅力を感じているし、いま改修している廃墟のある環境を開拓する意義がある。それらすべては、おカネにならない行為だけれど、その行為が価値を生み出して、ぼくはおかげで生きていけると信じている。自分のすることを信じて、その道を進むことも信仰のひとつだと思う。

 


いずれ誰もが死ぬのだから、「死」ということにも慣れて親しんだ方がいい。ただ恐れるのではなく、その日が来るのを喜びとして。死の側から見れば、今日も生きている。フランス文学で知られるセリーヌは「一日減って一日増えた」と書いている。つまり、生きられる残りが一日減って、生きた時間が一日増えた。

 

朝5時に起きたら、こんな文章が出てきた。今日も一日働こう。そして少しずつ前に進む。ぼくのアートが表現がカタチになる日に向かって。