いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活の中に芸術はあるのだろうか。

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アートとは何だろう。生きるとは何だろうと考えてきた。あるとき、藝大の大学院に在籍するアーティストにその話をしたら「生きる」はカテゴリーが曖昧だから論文のテーマとして採用されないんですよ、と言われたことがある。

 

「アート」も「生きる」も確かに漠然として、何を指すのか、その言葉からは共通イメージが生まれない。「リンゴ」なら、あの赤い果実を容易く想像できるけれど、「アート」や「生きる」から生じるイメージは、あまりに人それぞれ違ってしまう。それは関心や興味の度合いよって変わる。リンゴにも産地や種類があるようにアートにもジャンルや表現方法の違いがある。

 

なかでもぼくは、アートと生きるには何か関係があるのだろうか、と考えている。バカな大真面目だ。そんなこと考えなくても、それこそ生きていける。そもそも人は、アートがなくても生きていくことができる。けれども、食料がなければ死んでしまう。

 

「生きる」とは、命を繋ぐ活動だから、アートがなくても人間が死なないのなら、アートは生きると関係がないことになってしまう。それでいいのだろうか。アートは人間にとって必要な、それがなければ死んでしまうほど大切なものなんだ、とぼくは人類に訴えたい。後世に伝えたい。

 

前提として、ぼくが何をアートと定義するかを明確にしなければ、話を進めようにも理解しようがないと、言い返されるだろう。けれども、その曖昧なアートを新たに定義し直したくて、これを書いているので、読み進めてもらいたい。

 

アートの語源は「アルス」で技術という意味に遡る。アートはかつて技術だった。だとすれば、アートと生きることは、無関係ではない。むしろ、技術がなければ人間はとっくに滅んでいただろう。

 

人間にとって最初の技術とは何だったのだろうか。それは道具を生み出すために必要だった。つまり、生き延びるために必要な食料を確実に手に入れるためにつくった石器。生きるための道具を作り出すために技術が生まれた。それまでになかったモノを作り出す瞬間、そこにアートがある。石器以前には、石を投げるという動作があった。

それから200万年が経ち、ぼくら人類は今なお、生き延びている。石を削って作った「アート」は、長い歴史の中で、その大河は支流となって、文明社会のなかに枝分かれして注ぎ込んでいる。

 

例えば「現代アート」と言えば、ギャラリーや美術館に展示される作品をイメージできる。この現代アートとは、常にその姿を変え続けている。貨幣経済と結びつき、その価値を増殖させて、捉えようのない概念に化けている。これを資本主義アートと呼び変えることができる。この蔓延する「資本主義アート」のなかで、生きるためにイノベーションを起こしきた「アルス」は、その閃きを失っている。

それは、"there is no alternative"や「この道しかない」という選択肢がもはやないような政治的なスローガンにも象徴されている。

 

ほんとうに、ぼくたちはどん詰まりの時代を生きているのだろうか。そうではない。「アルス」は、今なお閃いているけれど、そこへ至る眼差しが失われている。だから、ぼくはその道筋を、けもの道のように、自然と現代社会を繋ぐバイパスとなる生活芸術という概念を紹介したい。

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