いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活と芸術の1日の傑作。個展のお知らせ。

生活と芸術。今朝は6時に目が覚めた。パンとコーヒーを用意して畑にいる妻を呼んだ。妻は犬の散歩のために5時ころから起きている。

朝食を済ませて、トラクターを動かして、花畑を耕した。木曜日に特別支援学校の高校生たちが、コスモスの種蒔きに来てくれる。その準備をした。今年は6月下旬に梅雨が明けて、すでに夏の暑さ。だから毎日、早起きして景観づくりの外仕事をしている。朝早くないと太陽の暑さに負けてしまう。午後を制作に充てることができるメリットもある。

f:id:norioishiwata:20250701042809j:image

午後は、北海道の雪景色の絵の額をつくることにした。この絵は、札幌南区の廃屋に雪が積もって、いつの時代か分からない景色に惹かれて絵にした。札幌南区の神社改修の仕事で、この廃屋から廃材を頂いて、神社改修の材料にしたりもした。神社と廃屋は同じ持ちで了承を得ている。

その廃屋で木材を漁ったときに、いくつか使えそうな柱や板を別の場所に移しておいた。板には昭和16年と書いてあった。そのうちに廃屋は崩れてしまって、今は家のカタチを留めていない。描いたときはカタチがあったものが、いまは失われて、この絵自体が現在進行形から過去へと、時空を移してしまった。

改めて絵を眺めると、建物が昭和10年代だから、雪が積もってしまえば、きっとこれは、当時の景色なのかもしれない、とさえ感じた。数年前に額を作ろうと、この景色の家の廃材をアトリエまで運んで帰ってきたことがある。わざわざ飛行機で。絵画の風景は失われて、その廃材で額が作られている、だからどうだ、ということでもないのかもしれないけれど、その実在と不在のコントラストが面白いと感じる。いま13時。というわけで額をつくる。

f:id:norioishiwata:20250701042831j:image

額を作っていたら、近所のおじいさんが来て、札幌から持ってきた古材を見て、このスキーは貴重だな、初めてみたよ、取っておきな、と言われた。額の部品にしようと思うと説明したら、それはダメだと言われた。こういう出来事が制作に影響して、想像したもののカタチが変わる。会話や人との出会いも作品の一部になる。ぼくはその意外性を楽しむ。残った廃材で額を作った。15時が過ぎて、いよいよ暑くなってきて、温泉に入りたくなった。海にも入りたい。妻に海に寄って温泉を汲んでくると声を掛けて出掛けた。

海の状態は、南風で引き潮から上がっていくところ。風は微かで波情報によると1mぐらい。予想としてはちょうどいい。目当ての海に着くと波はなかった。どうしようか考えたとき、サーファーのトオルくんの言葉を思い出した。「何周もまわって、やっぱりパドリングが基本なんですよね、だからぼくは波なくても海入ります」

f:id:norioishiwata:20250701042907j:image

上手い人がそうしているのだから、入るしかない。ウェットスーツを着たりボードを準備するうちに、少しだけ波が立ちはじめた。これはチャンス。海に入ると冷たいけれど気持ちいい。パドリングして波があるポイントで待っていると、ちょうどいいタイミングが来た。乗れた。今までで一番良かった。そのあとは海に浮いているだけで満足だった。1時間で切り上げ、温泉を汲みに向かった。

現在88歳のおじいさんが掘った温泉は、非営利で運営されている。商売じゃないから、宣伝もないし営業もしない。知っている人だけが汲んだり浸かりに来る。このおじいさんには真菰栽培を教えてもらって、トラクターを貰って、薪割り機を借りてて、山ほどお世話になっている師匠のひとり。温泉を汲んだついでに師匠に個展の案内を渡すと、お土産にコーラを二本くれた。自分が88歳まで生きられるかも分からないし、万が一その年齢になったら、このおじいさんの超人さに驚愕するだろう。尊敬している。

f:id:norioishiwata:20250701082002j:image

家に帰って温泉の入ったタンクを浴槽に移して、薪を焚いて風呂を沸かした。夕食を済ませて入った風呂は特別だった。海に入ったあとだからか、この温泉が包み込むような効果があった。身体がスベスベになった気がした。生活のすべてが便利になってしまったらすべてが商品やサービスに埋め尽くされる。それより欠けている不便さのなかで工夫したり身体を動かして満たす方が豊かに思う。

風呂のあとは紙漉きをした。妻が帽子をつくりたいとの願いで去年から取り組んでいる。自作の和紙。自然からできる帽子。もう21時にはクタクタに疲れて、これを書いて寝ることにした。充実した1日。今日も1日、自分を作品をつくり、生きた。

 

いつも読んでくれてありがとうございます。

年に一回ぐらいのペースで開催する

個展のお知らせです。

f:id:norioishiwata:20250701081353j:image

f:id:norioishiwata:20250701081400j:image

檻之汰鷲 個展

7月19日(土)〜27日(日)

ギャラリーいわき

福島県いわき市泉ヶ丘2-12-1

open 11:00〜19:00

*水曜日は定休日

常磐線 泉駅から

タクシーで10分

徒歩30分

もし電車でお越しの方は

ご連絡頂きましたら

泉駅まで送迎します。

お気軽にお問い合わせください。

norioishiwata@gmail.com

070-6514-5912

 

人間のあらゆる注意を収益化する方法への対策としての制作。

「わたしたちは、今や人間のあらゆる注意を収益化する方法をみつけたのです。A Iは注意捕獲装置として働き、それをお金に変えるのです」

Google CEOのエリック・シュミットがこう発言している記事を見た。もちろんSNSで。ハッとして恐ろしくなった。ミヒャエル・エンデがモモで、時間を盗む寓話を描いた。それを超える現実になっている。

友達と会っても、SNSや何かしからの情報を元にしているから、あ、その記事見たよ、とか、共通の話題になる。それがコントロールされているのだとしたら。携帯を通じて与えられる情報。検索などはほとんどしてなくて、捕らえられ、離れられなくされている。捕獲されている。思考パターンまでもインストールされリリースされる。自由になったつもりが似たような思考に分類されてしまう。

やっと作品の制作に没頭できている気がする。それでも油断すると注意力は奪われる。携帯に手が伸びたり、あ、材料を買いに行こうとか、夜になればお酒でも飲もうかと考えてしまう。確実に目の前のことから注意力が奪われている。

サブスクリプションで音楽を聴いていると、次々とおすすめを提案してくれる。しかも定額で。最近リリースされた曲を並べて聴いた。その経緯でおすすめされたLaurrie TorresのApres coupというアルバムは、類似をすり抜けて、声を荒げることなく、静かに独自の音を鳴らしている。

「音楽を演奏する女性として、またクィアであり黒人であることで、異質であり、形骸化された存在であることは、犠牲を伴うと同時に、押し進めたい、見てもらいたいという強い衝動に積極的に駆られる」

「私には創造性を一種の休憩所、物事がゆっくりと展開し、時間をかけて明らかになる場所として使いたい衝動があった。つまり、もっとゆったりとした、とらえどころのないものを作る必要性を感じたのです」

東京のマネジメント会社が、所属しないか、と先月誘いに来てくれた。とくに急ぐ必要もなかったので、1か月くらい経って、やっと新しいプロフィールをまとめた。妻と相談しながら。全体を俯瞰すると溢れてしまい、無駄にプロフィールは長くなり何をやっているのか捉えられない。何をしているかと言えば、ひたすらにコラージュをしている、と話しがまとまった。空き家漂流コラージュ、古民家改修コラージュ、桃源郷ランドスケープコラージュ。生活芸術というライフスタイルのコラージュ。色、カタチ、文字、文化、環境、人との出会いをコラージュしている。

コラージュの本質は予測不能であり、それを許容するところにある。妻と一緒に制作することで、ぼく個人のイメージは固定されず流動する。そこに素材の制約が加わる。できるだけ身の回りのモノを使うことは下書きを不可能にし、即興的にその場で組み合わせながらモノをつくる。モノとモノの組み合わせは無限の可能性がある。こうして作品をつくっている限り、ぼくの注意は奪われない。

自然を相手にすることは、注意捕獲装置から逃れる唯一の手段かもしれない。草刈りをしているとき、自分以外に接続されるものはなく、自分に没頭する純度の高さ。サーフィンを上達したいがためにるストレッチ、身体を鈍らせないためのトレーニングも注意捕獲装置対策になる。

しかし、携帯に触れSNSをやっていると、ぼくの傾向を把握したAIがオススメをしてくる。炭や和紙を使った作家の作品を紹介してくれる。これには迷惑する。ここに書いたように、偶然の出会いを即興的に組み合わせている、そのとき完成品のブループリントが放り込まれる。しかも誰かほかの人の作品。

Laurrie Torresの言葉に戻ると「衝動」が鍵になっている。ぼくの衝動は何だろうか。未だ見たことのないモノが見たい。誰かが作ったモノではなく。そのそれを自分で発見したい。その最先端を見るには自分で創造するしかない。絵画だけじゃなく、彫刻やオブジェでも。ライフスタイルでも文章でも。誰かと同じではない何か。それはもしかしたら「わたし」という存在をカタチにしたものだろうか。だからそれが何なのだろうか。わたし、 I、。つまりは人間を描いている。

作品は誰かに頼まれることもなく、自分を動かすなかから現れる。わたしの時間のなかで。素材として、または題材として現れる。それは預言のように。日々暮らしている環境そのものを作っているから、イメージするものは、そのままカタチにする。参照はない。自然から。そうした制作はイメージとは違うモノになる。それは妻だったり、素材だったり、環境だったりに影響されて完成するから。ずっとコラージュに貫かれている。わたしをコラージュしている。人生をコラージュしている。万が一にも、AIをコラージュする方法があったら手を出すかもしれないが、それまでは注意力を奪わせない。もしかしたらコラージュとは、自然の摂理を技術のなかに取り入れるミッシングリンクになる、かもしれない。

 

追記: つまりコンピューターにはじまりAIなどに欠ける、人間特有の感情のゆらぎは、コラージュがもたらす、偶然性やセレンディピティが隠し持っているかもしれない。それは野生の思考で、レヴィ=ストロースが明らかにした先住民族や日曜大工などのありあわせの技術に通じるブリコラージュが、神話の混沌さに秩序を与えたように、コラージュ技術が、創世に関するミッシングリンクを埋めるという推測を今朝思いついた。

 

暮らし自体が空想に包まれている。そのイメージを遮るものがない。自然はどこまでも許容してくれる。

2000年ころから働いた先輩に会いに行った。10年くらい一緒だった。会社を立ち上げた先輩と朝から晩まで。音楽業界の戦友という感じか。先輩は7月でアメリカのLAへ旅立つ。日本のカルチャーを世界に広めるために。数年ぶりの渋谷駅は複雑になっていた。目的の地上に出れない。広告と店舗を迷路のように歩き回る。

f:id:norioishiwata:20250624063857j:image

過去と未来がある。その間に生きている。過去はすでに存在したものだから容易にアクセスできる。未来は壁のように立ちはだかり容易には見せてくれない。見る方法は、一歩ずつ山を登るように忍耐強く積み重ねるしかない。登った崖のうえに未来が広がるが、またすぐに次の山が待ち構えている。それぐらい未来は見えない。

東京の先輩たちと話した。ある人は仮想通貨で資産を10倍にできる詐欺にかかった。巧妙な手口でみんな騙されるから注意した方がいいと教えてくれた。お金が増えます、というのは何かしらの嘘だと思う。ある人はお金が欲しいと言った。とにかくお金がかかる、と。その人はすぐにタクシーに乗る。すぐにカフェでコーヒーを買う。歩きながら、お金を落としているようだ。ある人は従業員がすぐに退職すると言った。退職代行のバスが走っていて、街なかを歌が流れている。若い人は退職代行を利用して気軽に辞めてしまうそうだ。

その翌日はバンドのインタビューだった。自分がお金を出してプレスしてもらった7inchレコードをタワーレコードディスクユニオンで売ってもらうなんてことは直接連絡しても取り扱ってもらえない。代わりにディストリビューターと呼ばれる配給会社があって、そこを介して音楽は店頭に並ぶ。ずっと音楽業界で仕事をしていたから、その繋がりがあった。

というわけで7inchを配給してくれたレーベルのオーナーにインタビュー原稿つくるからWEB MAGAZINEに掲載して欲しいと頼んだ。オーナーがインタビューしてくれた。10代からの音楽の話。現在の話。これをまとめて原稿をつくる。目的は興味を持ってもらうこと。レーベルオーナーは音楽を売ることばかり考えている。よりたくさん売る方法ではなく、好きなモノをつくって、それでも生きていけるだけの売り上げを模索している。ぼくらバンドの7inchは200枚プレスして、あと50枚くらい残っている。充分だ。25年でやっとバンド活動できる循環が整ってきた。

ついでに東京都現代美術館で展示を鑑賞した。岡崎乾二郎パティ・スミスの展示がやっていた。再来年に美術館でグループ展を企画する予定なので、構成とか見せ方とかに注目した。パティ・スミスは、映像が中心で展示室も暗くて残念だった。ぼくはテクノロジーよりもモノが観たい。モノはその存在自体が主張する。モノの想念がある。

岡崎乾二郎は、全体を貫く思想とカタチがあった。モノの展示だった。それは自分が考えるモノやカタチとは違っていたから嬉しかった。一方で作品の量や質のエネルギーにもっとやらなきゃと思わされた。それぞれのペインティングやオブジェが思想とカタチを空間に響かせていた。展示はわかりやすいに越したことはない。煙に巻くような表現では、伝わるものも伝わらない。

6月なのに暑かった。今年は梅雨が消えてしまったのか。東京は人とモノに溢れていた。生きているだけでお金が消えていく。先輩たちとの食事会で15000円。タクシー代で2000円。古本を買って2000円。蕎麦を食べて1500円。美術館で3500円。北茨城から東京まで片道5000円。インタビューのコーヒー代1600円。古本は、「徒然草」「ケルト/装飾的思考」「ケルトの神話」「フランダースの犬」を買った。

夜電車で家に戻った。翌朝は7時には草刈りをはじめた。暮らしているのは限界集落で、人より木の方が多い。その環境で作品づくりをしている。午前中に彫刻をやって額をつくった。東京は巨大で自分が小さく、どこにも居場所がなく、商品と広告に覆われ、インターネットが世界を閉ざそうとしている。このギャップが次に構想している小説になる。このギャップはアート作品で伝えることが難しい。というのも作品はそのオブジェとしての佇まいが言語になる。その読み方は鑑賞者に委ねられる。社会や世界を描写し、何かを伝えるなら言葉での物語が適している。ちなみに今日使ったお金は自動販売機で買ったカルピス160円だけだった。

ぼくの暮らし自体が空想に包まれている。そのイメージを遮るものがない。自然はどこまでも許容してくれる。草を刈って想像する、木を彫って想像する、妻と話しながら想像する、犬と散歩して想像する、それらイメージが消えてしまう前に、ここに記録している。朝起きて寝るまでが仕事であり表現活動だから。

f:id:norioishiwata:20250624063934j:image

小説はこういう構想だ。

---

暗闇で目覚める。したしたと水の滴る音。身体がこわばっている。記憶。死者の書。名前を思い出す。ナカジマ。声がする。目を開けるとナカジマと名乗る女がいた。

目を覚ました主人公は、ナカジマと工場へいく。仕事だ。人々は黙々と働く。何を作っているのかも分からない。ひたすらに部品をつくる。昼休み明けにナカジマが工事長に質問する。何を作っているのか。はっきり分からない。ナカジマは兵器をつくっているという。その夜、工場が爆破される。幸いに怪我人はゼロ。工場のメンテナンス日を狙った犯行だった。

その夜、ナカジマに起こされて、逃亡する。ナカジマが爆破したのか。

---

逃亡しながら、それを助けてくれる人々に出会う。何者なのか。社会はクレジットカードからマイナンバー、貨幣は流通しておらず、すべて監視され把握されている。社会の編み目を潜り抜けて向かう先は。

---

若者たちのあいだで流行っているのが疾走。管理社会の編み目を潜り抜けて消えること。1日、1週間、やがては数年。完全に逃亡できるユートピアがあると噂されている。

---

ナカジマと主人公は「サイン」を読み解きながら逃亡する。かつて疾走した先人たちがそのルートを残している。それは現実のバグとして現れる。同じことが二回起こるとき「サイン」が現れる。たとえば、電車にまったく同じ人物が二回乗車してきたとき。まったく同じネコが歩くとき。逃亡しながら、レッスンは続く。ナカジマを手助けする人々から少しずつ明かされるユートピアの存在について

---

主人公はついにナカジマを好きになってキスしてしまう。途端に消えてしまうナカジマ。

---

途方に暮れる主人公。ひとりサインを読み解きながらナカジマの跡を追う

---

構想メモ。もうひとつの社会を描く。安藤礼二折口信夫論で展開された、柳田國男らがイメージした山人。社会の外側に生きる存在。フーコーのコレージュドフランスもカウンター社会の描写に参照する。山に暮らす人々。移動しながら。自然を利用したテクノロジーでインディペンデントに違法に暮らしている。山人(名前を新たに考える)は、星を観測する仙人が作り出したムーブメント。星の観測を通じて未来を預言してしまった。地球の理想を構想する。それがもうひとつの社会、ユートピア思想として受け継がれた。

主人公の存在自体が空想で、それは空想の動物と呼ばれている=AIを暗喩。ナカジマと主人公の関係についてドラマと展開の構想必要。逮捕される、脱獄する、のエピソードを挿入したい。キスをして消えたナカジマは人を目覚めさせる。

 

浮かんでくるアイディアをメモして、ある程度溜まったら書きはじめる。

根っこは芽を出し幹と枝を伸ばす。それぞれの枝を伝って今現在が作られていく。

51歳になりました。まさかこんな歳になるとは想像もしなかった。そんなものか。年齢についてテーマがある。20代でやったことで30代を生き、30代でやったことで40代を生き、つまり50代は60歳を迎えるためのステップ。その一歩を踏み出した。

f:id:norioishiwata:20250618012906j:image

28歳のとき芸術家になると決意して、38歳で独立。48歳でいまの集落に引っ越した。今年はアイルランドで個展が決まっていて、それを海外展開の足掛かりにしたい。まさに一歩。

こんな生活ができるのは、決して多くない、友人や仕事をくれる理解者たち、作品を購入してくれる人たち、最大の協力者は妻チフミ。30歳のときに結婚して、ぼくの無謀な企みと共に歩んでくれている。

いましている仕事は、暮らしている北茨城市限界集落の景観づくり。春から秋は、桜を育てるための草刈り、秋から春は、炭焼き。休耕田を開拓して、真菰と蓮の栽培、菜の花とコスモスを春と秋に咲かせている。これらランドスケープアートの取り組みが、集落支援員として収入になっている。

f:id:norioishiwata:20250618013011j:image

ランドスケープ制作は、何かを新たに作るのではなく、ここにある景色を再生したり維持したりしている。というか新しく作る時代は過ぎていて、維持やメンテナンスのフェーズにいると感じる。一年のほとんどを自然相手に過ごしている。というのも、日々、何を見て、何を聞き、何をして、それら経験が人間をつくると考えている。だから、作家として、その活動する環境そのものを作ることが、作品の根っこ、つまり大地、つまりそこに根を張るものになる。つまりそこから花を咲かせるものが作品になる。

街までクルマで30分ほどの水道のない山間部、限界集落生活用水は井戸。電気はある。秋冬は暖房に薪ストーブを使っている。炭焼きのときに薪を作るので、その余りで冬を生き延びる。風呂も薪風呂で、井戸水を廃材で燃やしている。ガスは繋げていない。代わりカセットコンロを使っている。

妻とふたりでひとつの作品をつくる。ふたりで檻之汰鷲という名前で活動している。名前の意味は、檻のような社会からアートのチカラで大空を飛ぶ鷲になる、という意味。「社会が檻だなんて嫌な感じ」という人もいる。社会は全体として機能する。ときによっては細部をコントロールする。だから全体に合わせて個人が自己検閲する/させることも社会の一部となる。それに抵抗する摩擦になりたい。

ぼくはアートのおかげで現在、空を飛ぼうとしている。けれどもこの手にした自由には責任が伴う。檻から出ると、大地はなくなり360度自在になる。しかし何をしてもいい代わりに、この自由さは、綱渡りのようなもの。気を抜けばすぐに転落するだろう。だから毎日、モノを作ることだけに専念する。この日記もそのひとつ。書くことは自分との対話。反省と計画。反省と言っても失敗を省みるわけじゃない。鏡のように自分の今現在を省みること。

f:id:norioishiwata:20250618013038j:image

何を作ろうか、という企みは、ほとんどなく、ランドスケープ作りを通じて、みつけた景色や題材、素材が作品の種になっている。それらに出会うこと、感動することが作品になっていく。

社会と自然のグラデーションのなかに自分をロケーションしている。自然の側に寄っている。毎日会う人間の数より、草や木の方が多い。鳥の鳴き声に包まれている。夜は街灯がないから真っ暗だ。朝起きてやるべきことを決めるのは自分。ランドスケープ作りか、作品づくりか。

ランドスケープ作りは、自分が生きる環境づくりで、ベーシックなインカムになっている。その環境から材料と題材をみつけ、作品をつくる。作品は、言葉の代わりに語ってくれる。作品を展示するということが芸術家の仕事、そのフォーマットが社会に存在している。だから、展示をする。そのおかげでぼくの周りの人たちが、あの人は芸術家だと認知してくれる。稀に芸術家だったらこんなことできませんか、と仕事をくれる人もいる。それが幼稚園と小学生の絵画造形教室になった。中高生向けの造形教室になった。子供たちと壁画を描くプロジェクトになった。北茨城市でのランドスケープを見てくれた人が北海道でもやって欲しいと札幌市内で現在進行中の景観づくりもある。

38歳のときに音楽関係の仕事を辞めて、芸術家として独立した。まったくアテもなかった。やり方も分からないから、スペイン、イタリア、ザンビア、モロッコのアーティストインレジデンスに滞在して、それぞれの場所の芸術家たちから、学んだ。そのときスペインで出会ったアーティストが彼の地元アイルランドのダブリンのギャラリーのディレクターになった。そんな経緯で、アイルランドで個展をすることになった。人生は物語のように繋がっている。根っこから芽を出し、幹と枝を伸ばす。それぞれの枝を伝って今現在が作られていく。

テーマは「生きるための芸術」。終わりはない。死んでからも作品たちが語り続ける。「生きる」ということが当たり前過ぎて、それについて考えない。生きるとは、今日明日、ご飯を食べて、寝る、寒くないようにとか、水を確保するとか、だから食料も。もちろんお金も。生きるために、と線を引けば、それ以上は余剰だ。それ以上は、創作に投資する。蓄え持て余すな。それ以上は社会に還元する。家も屋根と床と壁があればいい。壊れたら自分で直す。クルマも乗れればいい。人間は欲深き生き物だから、その欲の方向性の操作が必要。無欲にはチカラがなく、だから欲深きは生きるエネルギーだ。

どのように生きるか、が生きるための芸術のテーマだった。この10年くらい。でも、ここに書いたように、自分の生きる環境は構築された。もちろんこの先どうなるかは分からない。だとして作品の質を高めていきたい。なぜなら、作品を通じて伝わることがある。それは言葉にはできない、モノが語るという芸術の仕事。どこまでそれを果たすことができるか。挑戦したい。アイルランドをきっかけに世界中のいろんな環境で、作品に語らせてみたい。どんな対話が生まれるのか。

f:id:norioishiwata:20250618013156j:image

それは小さな仕事。かもしれない。しかし小さな積み重ねでしか、大きな仕事は果たせない。細部を蔑ろにして、全体は輝かない。

お金より大切な時間の使い方

時間は有限。誰にでも一日24時間が平等に与えられている。しかしそれをどう使うかについては明確な答えは存在していない。「とにかく働け」というメッセージだけが発せられている。けれど、お金を稼いだところで、どうしろという指示もない。というか、あるとしたら、そもそも誰が指示しているのか。

f:id:norioishiwata:20250614165345j:image

パンクバンドのCRASSは"There is no authority but yourself"というスローガンを残している。翻訳すると「君自身以外に権力者はいない」という意味になる。CRASSは80年代に空き家にグループで住み着いた。ヒッピー世代のペニーリンボウと彼女で画家のジーバウチャー、それに若者たち。空き家で演奏して録音、レコードを自分たちでプレスして流通させた。かの有名なSex pistolsよりもThe clashよりもパンクだった。というかCRASS以外の有名なほとんどのバンドはメジャーレコード会社と契約して売り出されている。そんななかで、CRASSはDo it yourselfを実践したリアルパンクバンドとして歴史にその足跡を残している。

生活芸術というコンセプトはそのCRASSに影響されている。生活そのものを作って、その環境のなかで制作した作品を発表する。姿勢にこそクリエイティブが宿る。態度だ。我々、生活芸術家にも権力者は自分以外に存在しない。これは自由であることの宣言でもある。

しかし自由である以上、自分をコントロールする責任と同時に操る必要性も生じてくる。ほんとうにどこにも所属してないのだとしたら、何をしてもいい代わりに、自分が自分の主人になるべきだ。同時に自分が自分の奴隷になる。

愛国心を持つなら地球に持て。魂を国家に管理されるな。

If you want to be patriotic, have it on earth. Don't let the state control your soul.

Jimi Hendrix.


たとえば、英語の単語を覚えるために10分使うこともできれば、1時間くらい携帯でSNSを眺めることもできる。明日ニューヨークに発つこともほんとうは可能だ。人生は時間でできている。作家セリーヌが「一日減って一日増えた」と書いたように、生きた時間が増えれば、死ぬまでの残り時間は減っていく。常にカウントダウンしている。

まるでY字路に立っている。どっちの道を選択する?向かう先は怠惰ではなく有益な時間。ぼくは英語の文章を書いて読み上げた。そのあと、この日記を書いている。死に向かっていく人生を、もはや、可能な限り、トレーニングする。trainingとはラテン語の「trahere」:「引っ張る」という意味だとか。trainには訓練する、という動詞的用法もある。馬や牛が貨車を引っ張ったことに由来する。trainingとは「己の人生を引っ張る」と解釈しよう。

人生を引っ張っていく。それが自由を手に入れた代償。自分に対するAuthorityたる責任の果たし方だ、とみなさんにお伝えしたい。1日を有益に使う。自分に無駄なことをさせない。生涯無敗だった剣豪の宮本武蔵はその奥義を記した五輪書で「無駄なことをしない」と極意を書いていた。その意味が分かる。それは人生を常に引っ張る、つまり鍛錬である。

f:id:norioishiwata:20250614170013j:image

モノづくりに没頭する。その時間のあいだ自分は消えてモノになる。その時間が作品になる。生きた時間、没頭した時間が作品になる。その没頭した時間こそが平和的な瞑想状態にある。すぐに劣化する人間を新鮮に保つ奥義でもある。その費やした時間によって生み出されたモノ、だからその結果である生み出されたモノも美しくありたいと願う。どこから来て、何処へ行くのか、その来し方と行きし方、つまり誕生から死までの責任の持ち方、それがモノの美しさだと考える。人生とモノの行方。人生は人間を導く道標として記録する。モノは宝物になる。作品を鑑賞する人すべてが王様や女王様のようになる。わたし自身は宮澤賢治トルストイのように質素に生き、作品だけがひたすらに研ぎ澄まされ至高の品として献上される。未だ見たことのない、素朴な、ありのままのモノのカタチ。

その思考を英語で伝えてみたい。自分のしていることを英語で書いてみる。

I'm an artist. I'm working with my wife. She is an artist too. We are art team. Our main technique is collage. In the beginning, we cut and paste papers. I have been collage 30 years. So the technique evolved. Now I use not only paper, I use wood, grass around myself things, it means I use natural materials. Because when I use natural materials, I can say where they come from, where they will go. it means, human being create everythings from nature. I would like to restart human's creative history from ancient. Because I think it is so beautiful.

 

 

自分を動かす技術。

f:id:norioishiwata:20250610073050j:image

朝起きて海に行った。サーフィンだ。このちっとも上達しない運動のおかげで、最近「やる」ということが分かってきた。どういうことか。「やる」とは、英語のDo itで、つまり受け身ではなく能動状態、命令形、能動とは自分を動かすこと、だ。

分かったのはサーフィンのできなさで、この「できない」とは、できない状態を受け入れているということ。サーフィンが上手くならないんですよーと笑って言えてしまうこと。だから逆に、できないままだったら死んでしまう、という状況だったら、このミッションをクリアするしか生きる手段がないわけで、ある程度サーフィンをできるようになるだろう。

たとえば英語の勉強をしている。これも受け身の状態になりがちだ。学校に行けば喋れるようになる、そんな訳がない。語学は、ヒアリング、ライティング、スピーキング、リーディングの4つに分類できる。なかでもスピーキングは自分で実践するしか手段がない。いまは便利なアプリや勉強方法があるから、ついつい本を買ってみたり、その方法を調べたり、消費へと逃げてしまう。

しかし。この「スピーキングを実践するしかない」というDo itさに生きるための突破口がある。それは「できるようにする」というとてもシンプルながらに最強な手段。遠回りのようだけど、結局のところ効果も抜群によいやり方。もちろんコスパも。なぜなら動かすのは自分だから。自分と向き合って自分を動かすというただそれだけの動作。

Yesterday, I went to the sea to do surfing. I'm not good. But I understood. When I say that I'm not good. I have been accepted that state. If I didn't get better at surfing, I were to die, I would practice more. That's answer.

In spite of that, If you have been accepted some state, We can change it. It is relate to yourself. For example when you use map app, you don't remember how to go there. But before, we had to remember how to go there. To remember is belong to your abilities.

さっそく英語を書いて読んでみた。英語の目的は、会話だから、多少間違えていても問題ない。何かをできるようになるとは、能力を身につけることで、それはスポーツのようにシンプルなトレーニングが与えてくれるもの。この発想がどこまで実用的なのかしばらく実践してみる。

なぜ働くのか「我々に糧を用意してくれるもの」

土曜日に飲みに行った。相手が酒豪だったこともあり、翌日はダウン、それが火曜日の午前中まで続いた。響いた。酷い頭痛だった。調べてみると、アルコールを分解できずに残ったものが血液に溜まり頭痛を起こすらしい。だからポカリスエットを飲みまくった。たぶん風邪も同時に発生している。

おかげで3日間も休んでしまった。辛い。休日はないのに。自営業だし、遊びも仕事の境界線もない。出勤することもなく、家周辺でアート活動と総称する仕事に邁進している。だから2か月に一回くらいの頻度でシャットダウンする。強制終了だ。それも必要なのだと思う。

やっと体調も回復してきて、しかし休んでしまったときの罪悪感はなんだろうか考えた。もっと気軽に休んだらいいと思う。この罪悪感は、学校や会社なんかの強制力の名残りだろう。これがまさにフーコーが言うところの規律ってやつだ。英語のDicipline/ディシプリンで、上から強制されるのではなく、自ら律してしまう、自己規制のチカラ。

その逆に、たとえば、昨日たくさん働いたので、今日は海を眺めてリフレッシュしてきます、と言い放てる職場があったら楽園だろう。

f:id:norioishiwata:20250607222026j:image

休む、とは怠けるのでもサボるでもない。一旦離れてリフレッシュする、身体も精神も休ませる。休むことの師匠はウチの犬。見れば、ほとんど休んでいる。無駄なく休んでいる。8割ぐらい休み。むしろ休むのが仕事ってくらい。鳥なんかも、木の実を食べたりしながら飛んだり休んだり、いい感じに過ごしていらっしゃる。

f:id:norioishiwata:20250607222124j:image

f:id:norioishiwata:20250607223849j:image

人間が人間を管理するような働き方になって、休むことに対する管理も発生したのではないだろうか、とのヒントを探して本棚を漁ってみつけた「中世ヨーロッパの農村の生活」という本によると、

13世紀の村人はほぼ耕作者だった。自給自足のためではなく、市場に出すために働いた。生きるために必要最低限なものを自分で手に入れようとしていた。それはパンであり、オートミールまたは粥、エールだった。

春や夏にはキャベツ、レタス、白ネギ、ほうれん草、パセリ、様々な野菜が手に入った。毒のあるもの、とても苦いものを除いて、生えているものは何でも鍋に放り込んだ。

村はあくまでも、労働の場だったが気晴らしができる時期もあった。季節ごとにキリスト教の祝日があり、人々の生活の区切りになっていたのである。季節ごとに少なくとも祝日が一日はあって、人々は遊びに興じ、肉やケーキ、エールが振舞われた。

まあ、やっぱり働くことからは逃がれられない。では神話の世界ではどうだったのか。本棚から「マヤ神話 ポポル・ヴフ」取り出した。

神々は動物を造った。しかし泣き喚くばかりで言葉を理解しなかった。だから神々は「われらを養い、その糧を用意してくれるもの」を創り出した。すなわち、人の姿を形どり、泥土でその肉を造った。ところがそれは、柔らかくてすぐ崩れてしまい、じめじめとしていて力もなく、すぐ倒れてしまって動くこともできず、頭を動かすにしても顔が一方に傾いてしまい、目は霞がかかってしまって、後ろを振り返ることさえできなかった。初めは口をきいていたが、わけが分からなかった。しかも水のなかに入れると溶けてしまって、じっとしていることができなかった。

神々ですら、我々に糧を用意してくれるもの、として人間を作ろうとしている。一応答えておくと、なぜ働くのかは、中世の人たちがそうであるように、生きるために必要なものを手に入れるために、だ。それは今も同じだ。

しかし現代は必要以上のものが溢れていて、生きることの基礎条件が見失われている。シンプルに言えば、朝起きて働き、食事をして、ほどよく疲れ、眠る。これこそが幸せのリズムじゃないだろうか。

そういうわけで考えたのは、人間という生き物が長い歴史のなかで、生きるための、労働と休息の境目に、アート的な表現に触れるような心の豊かさが蓄積されていったとする仮説。それは動のアートではなく、静のアートかもしれない。

ギリシャ哲学に、外界にわずらわされない平静不動なる心の状態、心から動揺をとり除いた境地を表す「アタラクシア」という言葉がある。

ポポル・ヴフは世界の始まりをこんなふうに描写する。何かアタラクシアと共振する静のアート感がある。

ここには、すべてが静かに垂れ下がり、すべてが動くこともなく平穏にうちしずみ、空がただうつろに広がっていた。

仏教とキリスト教はモチーフを同じにしているという説がある。どちらにもこんな説教があるらしい。

「そしてなぜあなたがたは着る物の心配をするのか。野に咲く百合の花を考えてみよ、それらがいかに育つのかを。彼らは骨折って働くわけでも、紡ぐわけでもない。さらに私はあなた方に言う。栄華を極めたソロモンですら、百合の花ほども着飾らなかった[…]それゆえ明日のことなど考えるな、というのは明日には明日の考えがあるからだ」

バビロニアで発見された粘土版にはこう書いてある。

たれが己のあやまちを知るや

われを隠れたる咎より解き給え

f:id:norioishiwata:20250607224634j:image