いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

理想の暮らしの次に展開すること。

正直な言葉がいい。今朝起きて波乗りに行った。まだ秋のはじまりで、それほど寒くない。南風だと波が良いと理解していたけれど、どうもそういうことでもないと分かって、天気が良い日は、毎日、海の様子を見に行くことになった。

家から海まではクルマで20分ほど。クルマを停めて海が見える瞬間まで、どういう波なのかワクワクする。今日の海は少し荒れていて、おまけに波が大きかった。海に入って波に向かってパドリングしたけれど、到底、自分の力量では乗れる気がしなかった。自然は、ときに途轍もないエネルギーを巻き起こす。乗りこなせないから小さな波で少し遊んで帰ることにした。

身体と精神は繋がっていると感じる。ストレッチをするとき、手足の先に感覚を持っていく。自分の身体の隅々まで感じるようにしている。身体と向き合うことをどこかで習った訳ではないけれど、30代になって運動するようになって自然にそうするようになった。

「生活をつくる」という活動が続いていて、廃墟の改修もいよいよ完成に近づいている。もはや、他人から見たらもう完成しているのに何をやっているのか、という領域だけれど「神は細部に宿る」という言葉もある。慌てて仕事を終わらせても、対価のある頼まれ仕事でもないから、丁寧に自分が納得するまでやった方が、のちに残る仕事になる。一度完成した仕事にもう一度手をつけることは滅多にない。だからやれるときにとことんやった方がいい。

今、注目しているは土器だ。googleで「世界の土器」で検索している。人類の活動のなかで、土器の発明と創造は、人間に表現するチカラを与えた。文字はもっと根源的な表現の発明だっただろうと思う。そうやって現在の人間が駆使している能力の源流を辿るのが面白い。

理想の生活をつくって、いよいよ何をしてもいいという状況になって、自分が向かっているのが「ファンタジー」で驚いた。そもそも小説を書こうとして、アート作品をつくるようになった。小説はどれだけ想像世界を構築できるか、という遊びだった。フィールドは頭の中にあるから、永遠に広げていける。これもまた危険な遊戯だ。

もし小説を書くなら、かなりコントロールして取り組む必要がある。そもそも、これがお金になるなんて程遠い話でもある。まあ、と分かっていても、やりたくなったらはじめてしまうのだろう。家の改修もサーフィンもお金になる仕事でも何でもないのだし。

「生活をつくる」という活動は、人類必須の科目だと思っている。ひとりひとりが理想の生活を手にすることができれば、世界はずっと美しく住みやすくなる。理想と向き合ったとき、人はそれほど多くを望まなくなる、と思う。実際には訊ねて歩いた訳じゃないから、どうなんだろうか。

自分が生活をつくることに成功したら、きっと多くの人が同じようにやると思っていた。少しの努力をすれば、ライフタイルをつくり変えることができる。それは夢を実現させることでもある。ところが、それほど自分を変えるという欲求を持っている人は多くない。不満を抱きながらも現状に居座ってしまう。少しでも自分のしたことを、そのよかったところを人に伝えたいと考えて本を書いた。出版に向けて準備をしている。

まあとにかく大真面目に生きている。中途半端はよくないから、このまま突き進もうと思う。ドキュメンタリーよりも、ファンタジーにした方が伝わりやすいと考えている。一周回って、本来やりたかったことに戻ってきた。惑星は回転しているのだから、あらゆることも回転しているのかもしれない。自分を中心軸に回転すれば、何事にも振り回されない。