いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

巨大な違和感が社会を包み込む。

チフミが「喉が痛い」と寝込んでしまった。

いよいよコロナウィルスの影響が拡大していて、小池都知事の緊急会見をネットで観たら、さらにチフミは不安になってしまった。

夜間にウィルスに感染した人が多く、飲み屋やバー、ライブハウスやクラブなどの営業を自粛してほしい、との話しだった。

 

世界の各国でウィルスへの対策が講じられている。人と人が接触することでウィルスが拡散するから、対面する多くの業種が経営できなくなる。仕事ができなければ、収入がなく生活が成り立たなくなる。その仕事もその人自身も存続できなくなる。

世界各国の政府は、国民への補償を検討している。ドイツでは、芸術は今こそ必要だと宣言し、アーティストへの補償を実行した。60万円振り込まれたという情報もある。アメリカは小切手で全国民に1200ドルを渡すと報道されている。

日本は、未だ何も補償は決まっておらず、名指しで営業を自粛させる業種への補助もない。一方でオリンピックの延期日程が決まったと報道している。

残念ながら、これが日本の現状だ。小池都知事の会見を観ても、何の救済もなく、ただ不安を煽るだけだった。チフミは喉が痛くて寝ているだけなのに「コロナに罹ったかも」と言い出した。万が一、自分がコロナに罹ったら、と、いま誰もが不安だろう。コロナに罹ったら、仕事ができなくなる。仕事ができなければお金がなくなる。補償がなければ働くしかない。その両極に悩まされる。

チフミとぼくも、仕事をするべきか、しないべきかで口論になってしまった。チフミは100%コロナのはずはないのに、不安な気持ちから、そう思って何もできなくなっている。

 

ほんとうに申し訳なく思う。ぼくは政治的なことに関わらずにここまで生きてしまった。東日本大震災をきっかけに生き方を変えた。災害に負けないライフスタイルを作りたかった。おかげで、現時点では、自分の生活にコロナウィルスの影響はない。北茨城市という田舎に暮らしているのもある。

いま考えるのは、コロナウィルスが収束して、どれだけ社会を改革できるのか。どれだけ、日本社会を理想的なものにできるのか。今まではチフミと自分だけの話しだったけれど、未来のことを考えるなら、この取り組みを広げていきたい。それにはもっと政治に参加する必要がある。どんなやり方が可能なのか模索したい。

前提として政治家は、国民の代表として、国会に立っている。その議員が自分の気持ちや困っていることを代弁していないのだとしたら、その声は国に届いていない。自分個人の問題ならどうでもいい。けれども何十万人もの人の声が届かないのなら、それは社会の仕組みが壊れているのか、自分たちがその努力を怠っていたか、どちらかだ。壊れていると批判するより、その声を届ける努力をまずしたい。

 

何度でも自分を再構築して、進むべき道を照らす。模索していく。

 

ほんの少し先の未来もどうなるか分からない。それはウィルスに脅かされる現在だけでなく、実はずっとそういう状況にあった。そこに向き合わなくてもよいような環境を社会が作ってきた。その檻のなかで、人は見えないフリをして生きてきた。

人類の長い歴史のなかでは、厳しい生活を強いられている時期の方が長かった。その時代に逆戻りをしたい、という話しではなく、そこから学び実践できることがある。

ほんの50年ぐらいの悪習を踏襲するくらいなら、まるごと放棄してしまえばいい。その中から、役に立つ、生きるために必要なモノを拾い集めればいい。

疫病や飢饉、自然災害は、人類へのテストだ。自然からの問いだ。人間という存在自体が、何か特別な訳ではなく、あらゆる環境の要素のひとつでしかない、そのことを再確認させられる。その一方で、ひとりひとりの命はかけがえのないことも実感する。ほんの僅かな瞬きほどの時間を生きている人間ひとりの人生。その弱い命を守れないなら、この現代社会は機能しているとは言えない。

どうすれば、もっとマシな世の中になるのか、どうすれば、もっとマシな生き方を選択できるのか、どうすれば、社会がもっとマシに、みんなが楽しく笑いながら生きていけるのか。

そう自問自答してみれば、そういう瞬間もあることを思い出す。確かに存在している。でも、それを掴んでこれが幸せのカタチです、と提示することができない。掴んだと思えば、嫉みや憎しみまで手にしてしまう。

 

とても巨大な違和感が社会全体を飲み込もうとしている。それが自然の営みだとしたら、どうぼくらは応えるべきなのか、考えたい。