いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

廃墟再生日記その1

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9月になって暑さが和らいだので、廃墟の改修が始まった。たぶん、この廃墟はプレハブか何かが原型だと思う。話によると、港にあった物置が、山に運ばれて、何回か人が住んだけれど、長くは続かなく、いまに至るとか。悪い面を挙げたらキリがない物件だけど良い面もある。最大のメリットは鉄骨。これは強い。

 

6月から建物の中にあるゴミをひたすら捨ててきた。今日は、重くて産廃になるようなゴミを片付けた。建物の外に出してチェンソーで切断した。チェンソーに初めて触ったとき、ガソリンとオイルを間違えて壊してしまった。あれから3年が経ち、ようやく使えるようになった。人間は成長する。失敗を恐れずにやり続ければ。

トタンの屋根に登って現況を確認した。かなりサビてる。全部取り替える選択肢もあるけれど、できるだけゴミを出したくないので、錆びたトタンの上にもう一枚トタンを張ることにした。ほとんどの住宅は、捨てられない素材でできている。つまり何百万、何千万円もする買い物をして、それを捨てるとき、何百万円もまた支払いが発生してしまう。これは誤ちでしかないと思う。エラー。「建築」は、環境の中で循環する住宅を想像できても市場では必要とされない。それは家を建てる人が必要としないからだ。誤ちの原因は、ぼくたちの小さな選択のひとつひとつに根を持つ。

トタン屋根に一部分、凹んでいる場所があった。下から確認すると、鉄骨が歪んでることに気づいた。どうしようか。捻れた鉄骨を真っ直ぐにしたい。屋根が凹んでるのもそれが原因らしい。

これだけの重量を持ち上げるにはジャッキしかない。クルマに常備されているジャッキを使うことにした。早速、ジャッキで鉄骨を持ち上げる。家がピシピシ音を立てる。

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家は、歪んでいると、いろんなところで不具合が生じる。できるだけ直せるなら修正した方がいい。同じように水平や平行も大切で、真っ直ぐにした方が家が長持ちするし心地よくなる。生活も人生も自分の心に真っ直ぐに組み立てた方がいい。自分を騙し続けていると、ほんとうの自分を見失ってしまう。

 

今回の再生は、建物が二つある。ひとつは住居にして、ひとつはアトリエにする。今日は住居にする方の作業をスタートできた。家を改修するのは楽しい。巨大なオブジェをつくるようだ。オブジェの中に足を踏み入れ、構造から想像を膨らませ夢を見る。

家は、簡単に言えば、屋根と壁と床だ。それを整えることができればいい。更には暑い寒いの対策。壁や屋根の隙間を無くす。できるだけ密閉した空間をつくる。それだけで快適さが違う。暑さには古民家が優れている。土壁は、室内をクールダウンさせる。寒さには薪ストーブがいい。田舎なら燃料費はタダだし、暖かさが違う。けれども薪割りという労働がオマケについてくる。

次に水道、トイレ、電気。今回は、水道がない地域なので、30mくらい離れた井戸から配管する計画になっている。無いモノは、どうにもならないけれど、あるモノは使える。

トイレはない。だから、選択肢は汲み取りかコンポスト。まだ具体的には考えていない。

意見は、分かれるところだろうけれど、ぼくは直感で決定する。なぜならよく考えたら、やらない方がいいことばかりになってしまう。けれども、直感で決定した事を絶対にやり遂げると決めて、それに立ち向かうなら、その思いは絶対に達成できる。なぜなら、ぼくの目的はシンプルに「生きる」ということを実践したいだけだから。究極に言えば、どんなに不自由してもキャンプだと思えば、生活は成立する。もちろん、継続できるできないとか、快適ではないとか、いろんな問題はあるけれど、お金以外のところで、つまり自然環境のなかで、生きるための問題を解決するのが人類が積み重ねてきた「生きるための技術」だった。その技を自分の人生に召喚するには、それが必要不可欠な状況に自分を追い込むしかない。その状況でこそ「サバイバルアート」が発揮される。

なぜそんなことをしなければならないのか。それがぼくの追い求める表現(アート)だから。ぼくは、山を登るように生活環境を開拓し続けたい。新しいルートをみつけては、その道を開拓したい。これはアートではないと言われるかもしれない。今はアートではないかもしれない。けれども、生活環境をつくることは、今のまま社会か発展していくのであれば、ギリギリ江戸や明治が見渡せるこの時代に、人間がどのようにその生活圏を切り拓いてきたのか、その過程を何かしらの方法で、表現しておくことは普遍的な何かになる。

それは、名もない人々の生活の中で実践され、積み重ねていく時代の中で記録もさないまま消えていく、些細な動きや呼吸、地域の思い遣りや助け合いの中に、勝手に生えてくる草や木々、鳥や虫の音のなかに確かに存在していた。

北茨城市富士ヶ丘の揚枝方という10世帯ほどの小さな集落に、自然と共にある心地よい暮らしが今ここにある。それは不便や不快と隣り合わせだけれども、都市生活にある不便や不快とは対極にある。捉え方によっては、ここにあるのが幸せや豊かさではないだろうか。仮にこの灯火が消えるのだしたら、日本という国土のほとんどから消えようとしている状況にあり、そこには価値がない訳ではなく、この時代に生きるほとんどの人が、こうした状況に気がつきもしないまま、日々を過ごしている。社会に強制されることより、自分の心が望むことに目を向ければ、今すぐにでも人生を切り拓いて幸せや豊かさを手に入れることができるのに。