いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

毎日が歩くようにゆっくりと人生を進めてくれれば、それこそが幸せ

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自然から教わることが多すぎて、失敗もたくさんある。アトリエの近くに暮らすミツコさんから畑を間借りして、去年から少しずつやっていて、今年はジャガイモを植えた。去年小さくやって調子良かったので、今年はもっと収穫してやるぞと意気込んでいた。4月に植えて、先日様子を見に行ったら、何モノかに種イモを食べられてしまった。とても上手に掘り返して食べていたから

「うわぁー。まじかー」とショックではあったけど、その丁寧なやり方に嫌な感じがなかった。

 

これが自然だ。食べられてしまったジャガイモの事件に悪意はない。食料があるからそれを動物が食べた。それだけだ。ぼくら人間はもっとめちゃくちゃなことを自然に対してやっている。

ミツコさんにそれを話したら「ジャガイモは食べられるよ、って最初に言っていたじゃない」と言われた。すっかり忘れていた。

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ミツコさんはその後、畑に網をかけて、土のうえでぐったりしているジャガイモの苗を土を寄せて植え直してくれた。こうやるんだよと行動で教えてくれてるようだった。

ぼくはもう45歳になるけれど、何も知らない。何モノかにジャガイモを食べられしまって、ようやく害獣という敵の存在を知った。社会のシステムのなかにいれば敵はなく、守られている代わりに自由がなくて、むしろ人間自身が敵のような環境で、そのそとに出て自分のチカラで生きようとすると、自然を相手に格闘するハメになる。その世界の新入りだ。

 

どっちが良い悪いでもないし、上下があるわけでもない。たとえ人類のなかで最下位だったとしても、やっていることが楽しければ、それで生きていけるのであれば、それをやればいい。ジャガイモのことは失敗じゃない。ひとつ経験して学んだ。そしてミツコさんのおかげでジャガイモは収穫できる、きっと。

 

アトリエの古民家の庭には琵琶の木もあって、この実が小さいので、大きくできないかネットで調べたら、実がひとつの枝き混んでいると大きくならないと書いてあったので、小さな実を減らした。たしかにひとつの木にまるでタワーマンションみたいに実が成っていた。人間も同じで混んでいる場所にいると成長できないのかもしれない。

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チフミと話して害獣対策をしてみることにした。バリ島で見た竹の小屋を建てることにした。壁を何でつくるか、屋根の素材を何にするのか、いろいろ検討の余地はあるけれど、考えると進まないので、とりあえず竹で構造だけ先に作った。

ぼくは農家を目指している訳ではない。自分が食べれる分くらい自給できたら嬉しいけれど、人間が太古からしてきた営みをアートとして表現できないか、その糸口を探している。だから農家みたいなことをしている。まだその行為の何を作品にできるのか分からないけれど、生活をアート作品にしたいと思っている。

最近は、役に立たないことがアートなんだと思うようになった。役に立つだけのモノならそれは道具だ。アートとは意味のない無駄なことだ。アートとはまるで禅問答のようで、まったく役に立たないのだけれど、心を捉えて離さない魅力があるものだと言い換えることもできる。だから、畑につくる害獣対策の小屋も、役に立つことより無駄なことにチカラを注いでみようと一緒に作品を作っている妻に話したら、

「トマトの家を作りたい」

と言い出した。

「なんて無駄なんだ」そう思った。けれども、そういうことをしてみようと話したので、明日やってみることになった。トマトに家なんて要らないのに。

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宮本武蔵は言った。

「日常が戦場になれば、戦場が日常になる」

毎日が歩くようにゆっくりと人生を進めてくれれば、それこそが幸せだ。トマトに家はいらない。だからぼくはそれを作ってみることにした。