いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

毎日スタートラインに立ってる。

目的を持って書くことも必要だけど、何もないまま書くことも必要だ。例えば、右手も必要だし左手も必要で、いつも両側に気が届いているのが、もっとも安定したバランスだと思う。こう言い換えることもできる。社会はいつだって嘘を真実だと言い張るし、真実はいつも見えないところに隠している。つまり、その両側が見える立ち位置=矛盾こそが社会の標準だと。


思い付いたことはできるし、思い付かないことは絶対にできない。それだけはハッキリしている。


ぼくはアートという種目に挑戦している。これは競争ではない。これは、今までに発見されてなかった視点を開拓する科学だと思っている。その視点を表現でさらに鑑賞者に伝達するゲームとも言える。

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この数週間、やり切った感ある展示を終えて、そう、数週間前は、北茨城市の山の中の古民家を舞台に展示をした。およそ、アートではないものをアートだと主張してみた。田舎の風景、古民家、地域の人々、そこで採れる米や野菜、民具、石、コラージュ、、そこにあるものの組み合わせを変えて視点をズラして新しい景色を作った。

 

してきたことの結果、何かが変わったのだろうか。否、明日がまた始まっただけだ。それの繰り返し。評価やお金など、それが得られるのは一瞬のこと。明日が来れば、それは続かない。いつもの日常に戻る。余韻だけ。きっと評価が続く人もいる。でもそんな人間ばかりじゃない。むしろ、淡々と日々を生きる人の方が多い。そならそれで日々の中で、何を積み重ねていくのか。成功してない人間は、その基礎を踏み固めるチャンスに恵まれる。大地を十分に耕して種を蒔くだけの余裕がある。なぜなら、誰にも要求されることがない。それほどの自由はない。

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これからしようとすること、これまでしてきたことの境界線に毎日立っている。スタートラインを踏み切って、今日を走り抜けたつもりが、ほとんど同じところからまた翌日スタートを切っているようでもある。

 

昨日は、ついに馬小屋のアトリエの改修を完成させた。今日は、溜まっていたデザインの仕事に手をつけて報告書を仕上げた。ひとつの仕事を終わらせれば、その分だけ空白が生まれる。新しい仕事が割り込もうとする。でも大切なのは、考える、手を動かす、何も要求されていない純粋な時間。人はこれを暇と呼ぶ。ほんとうにそうだろうか。暇は、生まれながらに持っている貴重な資源だ。人生そのものだ。

 

何かが完成したようでも、その続きがある。いつも途中だ。その先にやろうとしていることが成功するとか失敗するとかを思い悩むより、やろうとしていることが、バカバカしいほど、純粋かどうか、そこに正直でいられるなら、それは進むに値する道だ。

 

目指してきたのは生活の芸術。芸術は特別な場所にあるのではなく、特別に才能ある人だけのものではなく、至るところに存在している。誰の人生にも宿るものだ。

それを突き詰めていくと、ぼくは自然にあるものだけを利用して、作品を成立させたくなった。どこにでもある、誰でも手に入れられるものを使って。それは、土と水と火と風。あとは努力と呼ばれる自分の時間と向き合うだけの気力。いろいろ検討してみた結果、それは土器だった。陶芸では、条件が厳し過ぎる。陶芸では、至るところに存在できない。表現を選び評価してしまう。それに対して、土器は、無垢で純粋だ。

こうやって毎日スタートラインに立っている。