いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

人は現象に反射する鏡だ。

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多拠点生活は多重人格でもある。地域ごとに違う自分がいる。同じ自分でも会う相手によって変わる。「自分」とは鏡みたいなものだ。

音楽をやっている自分と絵を描く自分がいる。文章を書く自分もいる。音楽をやっている自分は20代から30代の友人たちとの繋がりで、絵を描く自分は40代の繋がり。文章を書く自分のはそのどちらでもなく自分自身と向き合うために存在する。だから文章もまた自分を写す鏡だ。

音楽は目に見えないし聞くには時間がかかる。3分の曲なら3分、鑑賞に費やす。絵は瞬間に伝わる。全く表現が違う。視覚と聴覚。

音楽活動は古くからの仲間たちとやってきたNOINONEというバンドにある。20代から今に至るまで続いていることが奇跡。売れる訳でも評価されている訳でもない。それでも続いているには訳がある。ぼくが28歳のとき交通事故に遭って、事故とは全く関係なく親友でもあったメンバーが死んで、バンドの存在意義が変わった。その友達の分も生きてやるという気持ちが湧いてきた。生きる理由がはっきりと芽生えた。そのとき宮沢賢治の「春と修羅」を読んで泣いた。詩の世界に心が飲み込まれていった。それからぼくは詩を書いてバンドでパフォーマンスしている。

先週末は江ノ島オッパーラという場所でライブがあって、北茨城から2泊3日で旅をしてきた。

ぼくがやっている音楽はパンクでハードコアと呼ばれる激しい部類の音。ぼくは歌っていない。歌より先に言葉があった。メッセージを言葉にしている。何を? 生きる意味を。今ここにいる瞬間の尊さを。

バンドはお金のためにやってるのでもないし、ただただ、音を楽しみ、空間を共有するそこにいる人たちを歓喜させたい。明日にエネルギーを持って帰ってもらいたい。謎にサービス精神溢れるパンク。そんなスタンスでライブをやるから快楽しかない。何の不安も心配もない。ただの最高。純粋で独立した表現行為がここにある。

週末、音楽に遊び堪能した。思った。どうしてアートは、そうまでして論理的なんだろうか。音楽のように「超ヤベェ」とか「最高にカッコいい」とか、感じるだけでもいいと思う。

12月8日からの個展を1週間早められないか、と週末に連絡があって慌てたけれど、1週間でやれることなんてそんなになくて、むしろ毎日コツコツやっていることを、その日々の中でつくられた作品を展示すればいいと思った。宮本武蔵も日常を戦場に戦場を日常に、と言っている。ぼくにとっての音楽は一時的な解放区だけれど、アートは日々の営み。何もない一日とは、妻のチフミと制作に没頭する時間を意味する。だから、その日々みつけたカタチを展示すればいい。

古い友人に再会したり、江ノ島に足を運んだり、バンドでライブをやったり、記憶と考えを掘り起こして文字にしたり、いろんなことに手を出したり足を突っ込んでいると、何かをしている時にまた別なことのアイディアが降ってくる。これをセレンディピティと言う。起こる出来事には意味がある。展示のスケジュールが1週間前倒しになったおかげで、タイトルもコンセプトも変わった。

タイトルは
「生活芸術商売」展。
何回か変わってきたけど
これに決定。

有楽町マルイで展示をするので「商い」をテーマに作品展をやる。ぼくたちは、サバイバルアートというコンセプトをつくって、そこにある環境を材料や題材にして作品を作ってきた。だから今回はマルイを題材に架空の檻之汰鷲ショップをインスタレーションする。

生活芸術とは
下図のグラフに基づき価値を循環させる活動。この循環の中で作られたモノ、発見されたカタチを商品にする。

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その1、捨てられた物に価値を与えよ
その1、妻は大切に丁寧に可愛がれ
その1、欲深き人の心は道を失う
その1、気持ちよく楽しませよ
その1、違和感や矛盾を好め
その1、自分の美を信じよ
その1、失敗から始めよ
その1、古いは新しい
その1、自然に倣え
その1、種を蒔け
その1、争うな
その1、遊べ
その1、愛

 

生活芸術商売の心得

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「生活芸術商売」展 

by 檻之汰鷲(おりのたわし)

日時:2018年12月1日(土)~12月9日(日)
11:00~21:00
(日・祝は10:30~20:30)
場所:有楽町マルイ 8F(東京都千代田区有楽町2丁目7-1)