いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

制作する時間を持つこと

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日々の暮らしの中でアート作品をつくる。これが集中しようとすると案外に難しい。こんなことを言っても有意義な話にはならないかもだけれど、やろうとしていることを行動に移して、それをカタチにする難しさを言葉にすることは、人生という捉え切れない現象を理解する何らかのヒントにはなるかもしれない。あらゆる場面で遭遇するこの難しには、答えがない。

面白いのは、アート作品が全く生きる上で役に立たないことだ。つまり食べれるわけでもないし、何かをする道具をつくるわけでもない。それを作っても褒められるわけでもない。だから、制作時間を確保するには、生きるためのエトセトラを片付けなければ、そこに集中できない。何かおカネになる仕事があれば、それをやらなければならないし、友達や地域の人たちに会う時間もある。最近では畑も始めたし、サーフィンやカヌー乗りの遊びも、バンド活動なんてこともしている。すべては、作品制作のための経験としてやっているつもりなのだけれど、そうこうしているうちに時間がなくなってしまう。

そもそも作品制作は、誰かに頼まれたことでもない場合、とてもリスクある時間を過ごしている。つまり、売れるかも分からないモノをせっせと作っている可能性があるということ。これはビジネスマインドだったら有り得ないやり方だ。けれども、むしろ無駄になってしまいそうなギリギリラインを攻めた方がもっと刺激的な作品が生まれてくるとさえ思えるからややこしい。

この無駄とも思える行為の中に僅かな可能性や美しさを感じてしまう。だったら、コイツの正体を突き止めたい。なんだろうか、右へ寄れば、左側に答えがチラッと見え隠れして、左へ寄れば右側に現れる、時には上に下に、捉えることのできない、この絡まり合って解ける糸口がないような難しさ。

アート作品をつくるという行為は、矛盾したところから生まれてくる、と思っている。こう説明することもできる。ぼくは「純粋さ」について書こうとしている。

つまりは、想像力の源泉を突き止める思索。あらゆる日々の経験が作品の肥やしになる。そう信じている。けれども、経験自体は種ではないから、そこからは芽が出ない。制作とはもっと身体的な行為で、アートの種は概念とか狙いとかコンセプトにあるのではなく、行為の中にこそ開花するのだと思う。

例えば、どんな椅子をつくろうか考えた場合、社会的な意味では、計画があって、その通りに椅子を作れば思った通りの椅子が仕上がる。けれども、そのやり方では、椅子はアート作品にはならない。計画することと、椅子を作ることは、ぼくの制作スタイルからすると、それぞれ別の領域に属する。

ぼくの場合、どこかに制作する意図とは別の事故的な要素を求める。だから、計画するより先に椅子をつくる。失敗する。やり直す。失敗する。やり直す。これを繰り返していくうちに、エラーが起きる。椅子は椅子ではなくなってテーブルになったりする。またはその両方になることもある。

意図を超える何かがぼくにとってのアートの種だ。妻のチフミに隠せと言われるのだけれど、種明かしをすると、どうやって偶然を必然にするかという話。この偶然の必然を手に入れるためには、何も考えずに手を動かすこと。なぜなら、アート作品は役に立たないのだから、あれこれ思考を巡らせても、結局は欲に飲み込まれて有用なモノを作ってしまう。売れそうだとか、気に入られそうだとか。そうじゃない、意図や意味を超えた純粋な創造力を奏でてみたい。そう、楽器のようにこのチカラを操ってみたい。

こうなってくると、制作は儀式に近い。ぼくは、あらゆる欲望を捨てて、偶然が起こす奇跡をキャンバスに呼び起こすシャーマンになる。もし、こういう方法で椅子を作るなら、デザインされた椅子としては最低のクオリティーで、アート作品としては優れた個性を発揮できる。それがどう評価されるのかなんてことはどうでもいい。もっともっと未知の世界を開いてみたい。

考えるな。動け。そうすれば、アートはここにやってくる。一切の社会的責任を放棄して、作品と対峙したとき。目の前に、ぼくが作った誰も見たこともない、ぼくも意図しなかった偶然の産物が現れる。12月の個展に向けてマジックを起こす。このテキストは道を見失ったときのための復活の呪文

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