いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

One of thesedays 60

苗を買いにいった。ついに畑を貸してもらったので食べ物をつくる。ホームセンターで苗と種をチェックする。

ホームセンターで買うとみんな同じ時期に同じものが収穫しちゃうから、違うのを買った方がいいんだけどな」

通りすがりの老人が教えてくれた。イマイチ、ピンと来なかったけど、枝豆と落花生、ズッキーニ、生姜、ニンジン、の苗を種を買った。あと、桃の苗木を買った。アトリエがある古民家のエリアを桃源郷と設定して、桃の木が植わっていて、夏になると桃が食べれる、そんな空想をした。だから、桃の苗木を買った。

夕方、いわき市田人のモモカフェのヒトが遊びに来た。先日、誘われるがままにアートイベントのミーティングに参加しに出掛けたら前日だったあの日に出会ったひと。モモカフェの由来を聞いたら、なんと名前が桃太郎だった。桃の苗木を買ったら、桃太郎さんがやってきた。

桃太郎さんは、モモカフェの10周年のフェスを6月中旬に予定していて、そこで何かをやらないかと誘いに来てくれた。参加型のアートプログラムがあったらいいという話しなので、ガーランドの旗づくりをやることにした。話しながら、日本には、日本のアートのニーズがあると思った。先月アメリカに行ってから「アメリカは絵を買うヒトがいるけど日本にはいない」と考えていたけれど、比較しても無意味だ。ここは日本だ。

例えば、北茨城市では「芸術によるまちづくり」をしていて、地方でのアートのニーズは高まっている。具体的にそれが、絵の販売に繋がるのではなく、絵画とは別のアートが必要とされているように思えてきた。

ここ数日「商い」について考えている。商売のポイントは「不」にあるとう記事を読んだ。不満、不足、不安、不自由。絵画は、日本では不足してない。飾る壁もないし、飾る習慣もない。けれども「アート」への期待はある。それは、楽しみの不足を埋めるため、コミュニケーションの不足を埋めるツールとしてあるんだと思う。ホームセンターで老人が言っていたのはそういうことだ。同じ野菜がたくさん収穫される時期に違う野菜を収穫すれば、それは喜ばれるものになる。

不思議なもので、必要とされる出来事は必然的に起こる。昨日の考えが明日に引き継がれて、また別のヒトの影響を受けて、さらに別の地点に着地する。人間は、字のごとく、人と人の間に生きている。