いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

「できない」も大丈夫。続ければ別のことが「できる」。

f:id:norioishiwata:20170708183110j:plain板でサーフィンはできないのか。友人から譲り受けた木材があまりにサーフボードみたいだったので、海に行ってやってみた。その木は、海に沈まなかった。できるような気もするけれど、そもそもぼくはサーフィンができない。

Facebookにこの出来事を投稿したら、源頼朝が板で波乗りをしていたという未確認情報が舞い込んできた。なにそれ。面白い。googleで検索してみると、あった。「板こ乗り」という波乗り遊びが日本にあったらしい。

そもそも日本には海水浴の文化はなく、恵みを与えてくれる海は神聖な場所で漁師以外は入らなかったという。それが明治時代になって庶民が海で遊べるようになったらしい。漁師は、和船の底敷きにしていた板を使って、陸にあがり、船を引っ張った。そのときの板が「板こ乗り」のルーツらしい。

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f:id:norioishiwata:20170708183543j:plain考えてみれば、どうして「サーフィン」なのだろうか。皆が同じような板に乗って同じような恰好をして。「板こ乗り」の投稿をみたサーフボードをつくる友人がサーフィンは波に乗れれば何でもアリなんだよ、とテーブルを逆さにして波乗りする衝撃映像を教えてくれた。

ぼくは知らないことが多いし、学ぶことが苦手で、つまり手順を踏んで何かを上達することができない。ギターも弾けないし、ピアノも弾けないし、スケートボードもできない。デッサンもやってないし、油絵もやらない。どれも等しく上達しない。けれども、どの分野も、原初は初心者のような未熟なカタチから誕生している。ぼくでも、そのカタチにリーチすることはできる。

知識や経験が積まれてくると頭で理解してやらなくなってしまう。サーフィンができたら、上達することを目指して板になんか乗らないだろうし「できる」は、失敗と隣り合わせの「できない」を恐れる。でも大丈夫。行動すれば何かが起きる。むしろ、失敗に近い方が予想以上の出来事が待っている。

f:id:norioishiwata:20170708183608j:plain今年は「板こ乗り」で海と遊ぼう。世界中のどんな場所に暮らす人でもつくれるような海と遊ぶ道具を作品にしたいと思った。道具がないからできないのではなく、その道具からつくってしまえばいい。去年はカヌーをつくったので、今年はサップをつくりたい。「できない」も継続すると能力のひとつになるから、人生何が起きるか分からない。諦めるなんて死ぬまで必要ないね。

夫婦芸術家
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/