いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

怠け者が寝ている間に深く耕せ

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毎日、何かを考えてベストを尽くしているような気持ちでいても、少しずつ自分を許しているようで、つまり甘くなっているようで、やるべきことをしていない。残念ながら、とても発展途上な人間だ。しかし、そういう想いに至ると、やる気が出てくるから、さらに始末が悪い。

ぼくの場合、目指す先があるのに、それに向かって仕事をしていない。その自覚には、サイクルのような流れがあって、あるタイミングで、もっとやれると気づかされる。たぶん、いまは、流れと流れの狭間にいるのかもしれない。

ぼくが今、生きるために持っている技術は「作品をつくること」「文章を書くこと」の2つ。

 作品をつくっているが何のためだろうか、と自分を疑うときがある。まず初めに「つくりたい衝動」があるのは確か。それを抑えるより、解放する方が、自分にとっては健康な状態。その行為に何の意味があるのかは、完成した作品が語る。作品が語るまでには、自分が驚くような仕上がりにまで達しなければならない。そのゴールは毎回更新されて、遠くなっていく。それを成長とも言えるし、無謀とも言える。そもそも、芸術に関するまともな教育も受けていない夫婦がアートをやっているのである。まるっきりのアウトサイダー・アートだ。

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ここ数日は、鹿を2頭つくっている。春の個展に向けて。鹿の骨格や生態を調べて、鹿を知る。山に暮らして、自然を身近に感じるほどに、人間がよくわからなくなる。自然がなければ、生きていけないのに、それを壊し、離れていこうとする。かと言って、都市生活を批判する気にもならない。もう、人間は野生に戻ることなんて、到底できない。ときに野生的な超人がいたりもするが。

ほんとうに何のためにつくっているのだろうか。嫁と二人で作品をつくっているので、お互いが納得しなければ、作品は完成しないから、とにかく、その質だけはスタート地点が低いにしても、高まっていることは確かだ。動物をつくりながら思うのは、なんでこんなカタチをしているんだろう、とか、この作品が何の役に立つのだろうか、と結局、よく分からないまま手を動かしている。

しかし、それでは何のために作品をつくるのかの答えになっていない。製作に時間を費やすごとに、社会との接点は減り、いままでの仕事のクライアントはいなくなる。人との接点は少なくなる。そうまでしてつくることをやめないのは、なぜなのか。それについて考え、メモしておくのは無駄ではない。

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シンプルな答は「幸せ」がそこにあるからだ。嫁と二人で、作品づくりに時間を費やすことは、楽しい。その成果を共有できるし、生涯それだけしていたい。遊びであり、仕事であり、人生そのものだ。また、この技術を追求すれば、世界に通用する可能性がある。アートを通じて世界中とコミュニケーションできるかもしれない。そんな夢を追いかけている。

 空き家を旅する生きるための芸術から、次のターンにステップアップしようとしている。積み上げきた足場を外して、また別の場所に組み上げる、ゼロからやり直す作業だ。
ひとつのことを追求すると同時にいろんな興味に触れて接して、実践して技術として身につけていく。できなくてもどかしいことばかりだ。

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 2014年からスタートした空き家を巡る冒険は、中津川市で冬を越える体験で、一区切りにして、本にまとめる。出版しようという編集者が現れた。これで3人目だ。これまでは実現に至っていない。本は完成しても、世の中に流通しない。それは売れる見込みがないからだろうか。空き家に関する本も、あちこちで書いてきた原稿をまとめているが、どうなるか分からない。まずは、書いてみる。そこに現れた流れから物語を組み立てる。
このブログのおかげで過去2年を振り返ることができる。こうして文章を書くことは決して無駄ではなく、考えをカタチにする実践にもなっている。1万時間費やせば、何でもプロになれるという説があるように、やったらやった分だけ、それについて理解を深めることができ、技術を進歩させることができる。

やれることが減っていく分、やれていることは極まる。

そうだ、なぜつくるのか。その答えを探している。答えが分からないのは、ぼくが人間だからだ。「人間」について、いくら言葉を費やしても、完全に表現することができない。何千年も前から、プラトンよりもっと前の時代から、人間について考えを巡らせてきたが、人間がつくりだすモノやコト、社会や世界の広さをどうやっても捉えることはできない。それでも、人間は、己の存在意義を、人類の役割を掴もうと、その想像力で挑んできた。芸術とは、まさに「人間」を捉える作業のように思う。
ぼくは、その人間を理解するための技術を駆使して、世界中を旅したい。なぜなら、人間を理解するためには、人間を表現するためには、もっともっと、人間を知らなければならない。

そうした人生を送るためにも、作品をつくり続け、人間を伝えるためにも文章を書き続ける。分かった。足りていないのは、海外へ進出するための資料づくりだ。

 ・作品をつくる
・文章を書く
・海外へ企画書を出す

 この3つをやり続けること。
 今日の会議は以上。