いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

【時代は変わる】闘うのではなく感じること、競争ではなく我が道をいくこと。

3.11は、日本社会、経済、暮らし、のみならず未来までを、社会が描いていた未来予想図を変えてしまった。この時代に生きる多くのひとを不安に陥れている。

ぼくは子供の頃から漫画やアニメや映画に親しんできた。80年代から90年代に渡りアニメや映画は、近い将来に来るだろう最悪な世界を執拗に描いてきた。
だから、ぼくにとって3.11以降のこの時代は、ある程度、理解できる状況にある。そう、いつの時代もヒーローが世界を救ってくれる。じゃあ、誰がヒーローなのか。そう、いつだってヒーローは、日々をつまらなく過ごす、地位も名誉もない市民。そんな彼/彼女があるきっかけで、とんでもないチカラを手に入れる。

それは他でもない、日々を生きる僕らのことだ。つまり、ぼくは少しも大人になれない子供のままで、夢を見ながら生きている。この日本、ひいては世界を救う!とばかりに。見事に気合いは空回りして、あいも変わらず、地位も名誉も金もない。
 
それでも、ひとつだけはっきりしたことがある。社会が描き出す<群像>は、幻想だということ。3.11以前から、社会が描いてきた未来は始めっから空っぽだったということ。
 
社会は「こうあるべき」という人間像をつくってきた。いつの時代にも。なぜなら、社会は、国家ごとに構成され、それぞれはまるでひとつの企業であり、経済とパワーバランスを競い合う、戦争状態へと突入している。
 
この社会や時代の流れに違和感を持つひとは、たくさんいるはずだが、、どうその異を表明し行動していけば分からないでいる。それもそのはずで、「安全と安心」を餌にぼくらは社会に<飼育>されている。では、どうやったら、飼育された状態から、野生へと人間性を開放することができるのだろうか。
 
ぼくは、この時代の問題を国家間の争いでもなく、原発でも放射能でも、パワーバランスのゲームでもなく、もっと根源的な人間性に求めたい。言いたいのは、とっくに時代は2000年を超えてSFの世界へと突入している。この時代に生きるぼくらは、50年前の人類が夢見た技術を手に入れている。いとも簡単に駆使することができる。

行こうと思えば世界の至る場所に安価に飛べ、世界の至る所で起きている現状を知ることができる。それなのに社会はぼくらを大地に縛り付けようとする。つまり、あなた自身が、ヒーローであり、その人生という与えらた物語の主人公であり、ここから先の未来を描くのはひとりひとりの人間だということだ。
 
ヒーローになるには、社会への依存を断ち切ることだ。つまり、経済から自由になること。<生きるために必要なお金>をはっきりと描くことだ。<採取経済>という言葉がある。自然から動植物を採取して暮らす経済のこと。経済とはお金のことだけじゃない。社会にプリセットされたプログラムのアンインストールして新たにインストールする作業、それは、生きるための経済を自らの人生につくり換える作業が必要だ。
 
当然のことながら、初期プログラムでがっちり組まれたぼくらは「経済」のプログラムを取り外すせば、システムがエラーを起こす。つまり「不安」になる。しかし、考えてみて欲しい。たかだか、数十年生きて、この腐りきった社会のシステムが用意したプリセット=人間像のどこに未来があるのか。もし「経済」という鎖を断ち切ることができれば、あなたは、何の制約もなく、好きなように自分自身をカスタマイズできる。
 
そのとき初めて、他人と違う個性を許容できる器を手にする。一度にスタートする競争は終わる。
 
そしてこんなことは、60年代のロックがサイケデリックカルチャーがやって退けた。嵐のように吹き荒れ、たくさんのひとをドロップアウトさせた。
しかし、ぼくらの時代にカウンターは必要ない。戦うことでも、賛成反対を唱えることでもなく、ただ自分の声に耳を傾け、それに従う勇気と環境を手に入れること。また、それを手に入れるために、他の何よりも愛し夢中になるモノを見つけること。
 
クソ当たり前で、聞きたくもないような台詞になってしまうが、ここに真実がある。
 
ぼくらは不安を植え付けられ、従うようにプログラムされてしまっている。大切なのは評価ではなく、好きなこと愛することに囲まれ生きることだ。
 
人間が人間性の理想について考えるようになって、芸術や哲学や宗教が誕生した。それは遥か遠い時代のこと。しかし、これらを失って、どれだけ経ったのか。人間とは何かをもっと考え、その生き物を愛しむような思想や思考、ましてや行動が必要なんだ。
 
だから、ぼくは、ここに試行錯誤しながら生きている。
 
夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/