いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

ぼくは、100年前と100年後の狭間に生きている。それだけのスパンでこの時代を眺めてみる。

「100年」という単位が重要。人間の寿命も、1世紀も同じ長さ。ぼくは、100年前と100年後の狭間に生きている。それだけのスパンでこの時代を眺めてみる。100年後は、ほとんど何も見えないが、100年前を思い測れば、同じだけの未来が広がる。


空き家から木造建築の魅力を知り、知れば知るほど、その技術の高さと自然に寄り添った工法であり、自分がザンビアで体験した泥の家づくりの究極型が、日本の伝統工法だと知った。

日本が木造建築を捨てたのは、工業化と高度成長の過程で、ぼくは、その歴史の延長線上に生きている。しかし、100年という単位で眺めれば、その転換点に立ち返り、新しい価値を提案することができる。

日本中に捨てられている空き家のほとんどは木造建築で、築100年前後だ。見た目はボロボロだが、何の不具合があるのか、自分の目と体験で知ろうとして、実際に住んでみれば、なんの不自由もない。いま余計な部位を取り除いて構造だけにする解体作業をしている。

家の構造は、屋根と壁と床。それを木材が繋いでいる。木の耐久性は高く300年だという。また土で作られた壁も同じように耐久性がある。つまりは、自然から与えられたものでつくられているから、自然と同じように強い。

しかし、人間は自然から離れてしまい、どんどん弱体化している。だから、そんな家には住めない、という話しになってしまう。

今日は左官職人さんと土壁のワークショップの打ち合わせをした。職人さんは「もうなくなる職業」だと言う。左官は、家の壁をつくる職能で、土と水を混ぜた泥を用いる。その混ぜ方と土の種類を変えて、用途に合わせている。まったくの自然の原理を駆使した工法だ。

職人さんは言う。
「土壁は強いし、何の問題もない。ただ時間がかかるし難しい。あと100年単位の耐久性があるから、商売にならない。現代建築は常に新しい家を提供することでビジネスしているから職人の技術は必要ないんだよ。」
ぼくらが疑いもなく受け入れいる「家」という商品から離れて、ほんらいの「家」について考える時代に来ている。まだ間に合う。職人さんは、もう消えてなくなる、という。しかし、まだ目の前にたくさんの木造建築が放置してある。

それは醜い化粧をしたままだから、価値がないように映るが、その本質は、美しい日本の伝統建築なのだ。職人さんは「世界では日本の木造建築は世界一だと評価されている」と言った。だけど、日本の社会では、そのように扱われていない。だったら、その価値を発掘して、醜い化粧を落として、その肢体を社会に提示しよう。美術とは、つくり出すことばかりでなく、その価値を見出す意義もある。現代美術とは、見失われた、消つつある価値を提案することでもあるのではないか。空き家と捨てらた建築の数々が、どれだけの美しさを放つか。ぼくはそれを表現したい。インスタレーションであり展示である。大地と歴史に根ざした作品。ぼくは、家をそのままに生活を描き出すことを現代美術としたい。なぜなら、わたしたちは、自然を忘れ生活を失いつつあるから。

夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/