いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活を消費から生産へと逆転させる発想

始めるに遅いなんてことはない
こうして出来事を書くようになったのは、3年前に一発試験の独学で自動車免許を取ったのがきっかけだった。移動や空いた時間に勉強するようになって、メモを取るようになって、やがて日々の出来事を採集するようになって、時間が自分のものだと実感するようになった。

それをきっかけに学ぶことを思い出し、勢いで英会話もスタートし、ボルダリングも始めたのが37歳。まだ本気になって4年しか経っていない。といってもきっかけは、免許を取っただけの小さなことだった。

プログラムされた人間
免許の更新は2時間の講義を受けた。退屈なものを講師は楽しくしようと努めていた。

講師が言った。
「面白い実験をします。ジャンケンで、わたしに勝ってください。」
「ジャンケンポン」
5回繰り返して全勝できる人はいなかった。
「では、後出しでいいので勝ってください。」
「ジャンケンポン」
簡単に全勝できた。
「では、後出しでいいので全部負けてください。」
頭が混乱して負けることができなかった。まともにジャンケンすらできなかった。

講師の人は
「どうですか、負けることができましたか? 勝つのは簡単ですが、負けることができなかったと思います。わたしたちは、この社会のなかで、負けない習慣が身についているのです。」

驚いた。ぼくらは、教育や習慣、常識によって負けないようにプログラムされているというのだ。誰かが勝てば誰かが負けるし、経済では誰かが損をすれば誰かが得をするのが、これまでの常識な訳だ。
逆に言えば「勝たなければならない」と感じるのは、単にプログラムされているからで、もっと別の価値があるのだとしたら、直ちに「負けないプログラム」を解除しなければならない。ジャンケンのエピソードは、人間が社会にプログラムされた生物だということを教えてくれた。

快晴なポジティヴ・マインドはビジネスになるのか!?
日曜日の昼、アスリートのキャリアを考えるチームのミーティングがあった。ちょうど先日、世界準優勝だったサッカー女子選手のなかにですら、アルバイトで生計を立てている選手もいると話題になった。

キャリアの問題は、スポーツ選手だけじゃない。芸術家や音楽家や表現する人たちにも当てはまる。スポーツやアートは、無償になりやすい。表現者が自らその価値を算出して、世の中に提示しなければ、経済的な価値はなかなか生れない。

ぼくは、サッカー選手として活躍する河内さんに出会い、アスリートに於けるこの問題の意味を理解した。
河内さんは、全力でサッカーに取り組むあまり社会との接点がない、という。選手としてピークを迎えようとする今、自分自身を社会の役に立てたい、と考えたが、いまの日本の社会の会社組織では、サッカー選手をやりながら働くポジションは見当たらなかった。
そこでアスリートのキャリアづくりをサポートするチームは、なければつくろう!と河内選手を応援することで、スポーツ選手が現役時代から、企業と積極的に関わる場をつくることにした。

河内選手は言う。悩みなんか試合をすれば吹き飛ぶ。だからストレスは全然ないし、いまのままで充分幸せだ、と。この快晴なポジティヴ・マインドはビジネスに活用できないのだろうか。

社会は、急速に進化し続け暮らし方や働き方も変わってきた。便利になる一方で、人間はその能力を休眠させていく。100年前にできたことの多くをぼくたちは、やらなくなってしまった。
朝から夜遅くまで働き、複雑なコミュニケーション社会に疲弊して、身体や精神を壊す人も少なくない。
もし河内選手のマインドを会社の組織づくりにインストールできたらどうだろうか。例えば、毎朝ストレッチやヨガを行い、週に1回程度の軽いスポーツを取り入れる。みんなで汗をかいてコミュニケーションを図る。スポーツマンがどのようにメンタル面を克服してきたのか。そのテクニックに価値を見出して開発されたのが人事部健康科だ。ミーティングから生まれた10年後の働き方。
いまないものを考えて未来のためにつくること。これは人間の働き方をデザインするという仕事の開発だ。

ラッキー&ポジティブな夜
その夜、Bonoboというバーで友達のバンドのライブをみた。Bonoboは、家をリノベーションして防音をしてつくった原宿にある小さなBARだ。

ぼくの好きな友達のバンドPETAをみた。THE POPSwith 久土も最高だった。ライブをみて素晴らしくて涙が出た。PETAはメンバーが東京を離れてライブがなかなかできない。主な理由は交通費。経済的な事情のみだ。だったら彼らのクリエイティブに必要なだけの経済が回ればいいと思った。

ライブをやるバンドマンが対価を得るのは、演奏すること、録音物やグッズを販売すること。演奏する対価は、ライブハウスを通じて支払われる。多くの場合は、バンドまで回らず終わってしまう。バンドはリハーサルやら機材やらメンバーが多かったり、利益になることはほとんどないのが現状だ。

あるとき音楽イベントの受付をした。出演したバンドがチケットを売って10万円をつくってきた。それはイベントの売り上げに計上された。もし彼らが一回のライブでそれだけの対価を得たら、どれだけ豊かな音楽活動ができるだろうか。そのお金は彼らのライブを見たい人が支払ったお金だから、純粋な対価として考えることもできる。

そこで「Bonus」というイベントの開催を妄想した。出演者が売ったチケット代を全部受け取れる企画だ。ホストは、ぼくのバンドが務め、必要な経費を賄う。ぼくはメンバーとライブハウスと周りの仲間に了承を貰わなければならない。なぜなら、ぼくに協力するひとは、儲けを出演バンドに譲ることになるのだから。

お金について考えるとき、その仕組みを観察したとき、お金はどこに消えてしまうのか不思議に思うことが多い。もちろん、それは少しづづみんなのポケットに入ってしまうからで、ぼくはその逆を提案したい。搾取するのではなく、みんなが少しづつお金を出して生産者にボーナスとして還元する仕組みだ。

作品は想像から生まれる自然物
夜中の3時ころに突然目が覚めた。知り合いのイベントのチケットを予約した御礼のメールを読んで、涙が出た。

イベントは7月16日(木)に東京都現代美術館で行われるカンマナイトだ。カンマとは90年代後半に、音楽イベントとレーベルを手掛けてきた集団。中心は、ミムラさんとモトコさんの夫婦だ。

90年代の音楽イベントには、デコレーションといって会場を装飾する表現者たちが現れた。モトコさんは「ふにゃくら」というチームで活動していた。
ところが2013年に突然モトコさんが逝去。2年が経ち、ミムラさんは、モトコさんの活動を記録に残すことにした。その展示のオープニングが7月16日に開催される。

ぼくはミムラさんとモトコさんを自分と嫁に重ね合わせた。モトコさんが亡くなって、表現されてきたカタチが時間を経て結晶化して、ミムラさんのなかで芸術に昇華された。肩書きのない、当時生きていた表現が、いま芸術になった。

ぼくは嫁と作品をつくることが楽しい。でもときに、生活や未来のことを考えて手が止まる日もある。お金のことを考えて、その対価を得なければとカタチを変えてしまう日もある。作品に対して出来不出来を感じてしまうこともある。

でも、つくり手は、現れようとするカタチを取り出すのが仕事なんだと気がついた。そのカタチを芸術にするのは、理解者や鑑賞者なんだとミムラさんの行動に教えられた。ぼくの判断なんて必要なくて、ただ感じるがままに自然に生まれるままに表現すればいい。もう誰かの成果をみて、羨ましく思ったり焦ることはない。

湧いてくる表現はすべて徒然なるままに記していく。つまらないとか面白いとかもなく、社会という全体から零れ落ちたとしても、それが認められなかったとしても、目的は社会の網にかかることではなく、地球上に自然があるように、たまたま触れた自然が教えてくれるように、偶然に理解されることがあったなら、それは、芸術として完成したというラッキーに遭遇しただけのこと。

他者を評価し価値を生み出す技術
対価を貨幣で計算せずに、別のもので置き換えたとき、お金を掴み取った手よりも、その隙間から零れ落ちる可能性の方により多くの豊かさを掬い取ることができるとしたら、勝つは必要なくなる。

それは、PETAが歌いライブで実現する「みんながひとつになる愛」。例えば、子供とゲームをしてわざと負けるとき、ぼくらは温もりのある優しい負けを手にする。ミムラさんがモトコさんの活動から見出した眼差し。例えば、アスリートのセカンドキャリアをつくるチームが河内選手を応援するように。それは他者を評価し価値を与えるという技術だ。

総持ちで支え合う技術
その答えは、ずっと前の時代の暮らしのなかにある。不便だからこそ、そこにあるものを利用してきた時代。ぼくは、その思想が詰まったタイムカプセルを発見した。ぼくが生まれる前から生きている古い家たちは、もういない祖父母に代わって、その時代の暮らしを教えてくれる。

構造ひとつにしても「総持ち」という柱と梁がひとつになって全体を支え合う、いまの暮らしには失われつつある技術を発見できる。

人は決してひとりでは生きていけないし、ひとりで全部を背負い込む必要もないし、もう同じスタートラインを切る競争は終わりだ。それぞれのタイミングで独自のルールでゲームを始め、勝ち負けはなくて、お互い助け合い、豊かな暮らしを目指すことができる。そのためには、さまざまなプログラムを解除する必要がある。


助け合う志向をつくること
1)2次情報はすべてシャットアウトする。
テレビやインターネットから入ってくるそれらは、自分の現実ではない。誰かが編集した商品やサービスだ。

2)目の前にあるヒト・モノ・コトに価値をみつけ対価を与えていく。
それは時には、貨幣であり、時には労働であり、時には、眼差しであり、時には愛することで、ぼくらは、お互いを高め合うことができる。

人間と人間は、競争相手でも戦う相手でもない。ましてや、経済社会を支えるための道具や部品でもない。ひとりひとりの人間がその生を楽しむ権利を持つ。その権利を行使できるのは、お互いが支え助け合い、「総持ち」で未来を共につくる仲間に出会うときだ。損得でも勝負でもない関わり方をしばらく考えてみたい。