いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活芸術日記2022.0506

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チフミのお母さんが御柱を見に行こうと誘ってくれた。御柱は諏訪地方の7年に一回のお祭り。次の御柱のとき父や母は生きているだろうか。

チフミの実家で頼まれたイスと机のペンキ塗りをした。午後は放置された畑の草刈りをした。

夕方はコンビニの駐車場でバンドの歌詞を練り直した。そのあとジムを併設している温泉施設でトレーニングした。その途中で諏訪湖の日没があまりに美しかったので写真を撮った。

慌しくしていたのが、やっと自分のペースに戻った感じがする。草刈り労働がとても性に合っている。大学生のとき、日雇いの肉体労働しかできる仕事がなくて嫌だったけれど、それが自分に合っていたから、選択していたんだと思えた。

身体を動かす。思考する。書く。イメージする。つくる。というサイクルが自分の健康を作っている。

生活芸術日記2022.0505

妻の実家のウッドデッキのペンキ塗りをした。アメリカに行ったとき、そこに暮らす人たちが自分の家をペンキで塗っていたのを思い出した。トムソーヤの冒険の出だしもペンキ塗りのエピソードだった。昨日読んでいたホッファーの本にダヴィンチが出てきた。偶然持ってきている本がホッファーとダヴィンチだった。

 

午前中ペンキ塗りをして、午後はストレッチをしながら「ダヴィンチ・システム」河本英夫を読んだ。

生活芸術日記2022.0504

妻の実家で過ごしている。エリック・ホッファーの「情熱的な精神の軌跡」を読んでいる。彼の文章、彼について書かれた文章などが編集された本。労働する哲学者として知られている。なるほど、哲学者といえばエリートだけど彼は違っている。経験したことから思考している。思考の技術を磨くために本を読む。

 

「初めてのこと、今のこと」という本を読みたくなった。ホッファーが、原始と1970年代を重ね合わせるように書いた本。

 

「永遠平和について」カント、「気流の鳴る音」見田宗介の2冊をアマゾンで買った。

 

思考すること、文章を書くことも自分の表現のひとつだ。お金になるかどうかよりも、書くことがあって、それを作品としてまとめられるかどうか。次の本に向けて吸収している。

 

朝食を取りながらテレビを観ていたら、探検家たちが紹介されていた。沈没船を調査する探検家は、写真を合成して模型をつくることで大型の探査に比べて圧倒的に低い予算でたくさんの場所を調査していた。やっぱりいろんな場所で制作したい夢がある。

 

ホッファーの本にこんな文章があったのを思い出した。

神の模倣は、近代西洋特有のダイナミズムを生み出し、芸術家、探検家、発明家、商人、実務家が「人間はやろうと思えばなんでもできる」と感じた。

生活芸術日記2022.0503

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愛知県での展示設営から一日在廊して、妻の実家、長野県岡谷市に戻ってきた。まるで記憶巡る旅のようだった。

7年前、空き家に暮らしたくて、探していて巡り会った津島。妻が案内状を郵送してくれたおかげで、津島で出会った人たちと再会した。

シンガーソングライターの真野さんは、移民問題に取り組んでいてシェアハウスを運営している。社会の問題に取り組むことは、まさに問題そのものをテーマにするから、問題と常に対峙することになる。社会は課題や問題だらけだけど、問題や課題自体ではなく自分自身のなかでそれらに取り組むことはできないのか。

絵を描くことに取り組むのではなくて、絵を描くという行為の源流に遡る。人類が絵を描くことの原点は何だったのか。だとすると、移民問題の原点はどこにあるのか。

生活芸術日記2022.0430

バンドリハーサルのために岡谷市から電車で新宿へ。移動中に歌詞を覚えた。コロナ禍が続いているので東京は2年ぶり。北茨城での生活では人間よりも草木をたくさん見ている。新宿は人の波。ブックオフを見つけて欲しい本を探してみたがなかった。

 

分かりやすさを求める流れの転換期のように感じる。分かりやすさの時代にはフィットできなかった。難しいものがよい訳ではないけれど、どうしたって伝え切れない物事はある。その切断をどう記述するのか。それが文章を書く理由だろう。

生活芸術日記2022.0429

妻の実家、長野県岡谷市で朝起きた。昨日、北茨城市から移動した疲れが残っている。明日は6月のライブに向けたバンドのリハーサル。今日はその準備をした。東京のリハに向かうときのイアフォンを忘れたので岡谷のショッピングセンターに買いにいった。電気屋は10時からで閉まっていたので本屋に寄った。欲しい本は一冊もなかった。昨日大学時代の先生が新入生に向けてブックリストを上げていて、そこから読みたい本をリストアップしてあった。読みたい本はあるけれど小さな書店には売っていなかった。ここに大きな捻れみたいなものがある。捻くれ者ってことなのか。


読みたい本

ドゥルーズコレクション1 哲学

ドゥルーズコレクション2 権力と芸術

気流の鳴る音

永遠平和のために

野生哲学

まつろわぬ者たちの祭り

動物を追う。ゆえにわたしは動物である

 

午後は曲の構成を確認しながら歌詞を覚えた。自分で書いた詩を身体にインストールする。考えなくても出てくるまで繰り返す。ぼくは詩人でもある。コトバを使う。売れたりヒットもしてないけれど何かを書き続けている。

 

今朝、妻が温泉に行きたいかも、と言っていたので、日が暮れる前にどうするか質問したら、返事は「疲れているから行かない」だった。

おかげで夕方までバンドのリハーサルに時間を使えた。夜はエリック・ホッファーの本を読んだ。彼の日記を読んで、改めて日記を書くことにした。先生のブックリストを眺めて改めて文章を書く冒険を続けたくなった。

景色をつくることが社会を変える。生活芸術のススメ。

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桃源郷をつくる。という活動をはじめて3年目。休耕田に種を蒔いて花を咲かせ、こんな景色ができました。ここにぼくの土地はひとつもなく、地域の人々、行政の人々が協力してこれをしているのです。ぼくはこのプロジェクトを実行する機動力であり、この仕事がぼくの芸術作品でもあります。

今朝目が覚めて思ったのは、自然環境、地球資源をマネージメントしていくこと。これが今世代の責任ではないか。資本主義経済を軸に社会を成長させるのは、ほんとに限界。成長だけ目指すのは限りがある。ピラミッドを作ってしまえば、頂点を目指してしまう。頂点の次はどうするのか。周りを見渡してまた別のピラミッドを征服するのか。欲望は価値がある方へと流れていく。現実には頂点に登れるのはほんの僅かの人で、それ以外の多くの人もモノも価値のない負け犬扱いされてしまう。

ぼくはそうではないやり方をつくっている。これがアートなのか仕事なのか、もはや何なのか分からないけど、ライフワーク、社会に於けるオルタナティブな何かとして制作している。とくに「ココニアル」と名付けたコンセプトを実践している。40代後半の責任をビシビシ感じています。ウィルスの蔓延、戦争、物価の高騰、この流れに抵抗できる余地を提示したい。

「ココニアル」とは造語です。ダサいかなあ。ぼくは妻と二人で仕事をしていて、ぼくひとりだと難解だったり意味不明になるのを制御してくれます。妻が考えた「ココニアル」とは植民地の意味のコロニアルの反対語です。想像してみてください。自分が持っているもの以外をほかの土地から奪う、支配する、搾取する、そうではなく、できる限り自分のいる場所の資源を使うことを。いま自分が使えるモノを最大限に利用するという思想です。


人間暮らす

同じ地球

大地のうえに

生まれ出会い

想像すれば

心から

言える

見える

聞こえる

ここ10年くらいサバイバルアートというコンセプトを追求してきました。友達が機会をくれて、登山家服部文祥さんにインタビューしたのがきっかけでこのアイディアをみつけました。

サバイバルだから、100%身の回りのモノを駆使して作品をつくることを目指してきました。しかしその難しいこと。何だったらそれができるのか。やっているうちに、土と火と水と木と風、太古の表現へとタイムスリップしていきました。それが土器でした。近くの土手から土を採取して、成形してそれを焼く。最近やっとそれができました。without buying, hunting materials from nature.

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土器以外にも、この地域には楮があるので紙もできそうです。半分くらいの工程までやって放置してますが続きをやりたい。紙が完成したら、炭を作っているので木炭で字を書くつもりです。すべて自然から手に入れた素材で作った文字は特別です。そのときは「人はどうして戦争をするのか」というコトバを作品にしたい。アインシュタインフロイトの書簡を本にしたあのタイトルです。

次の企みとしては完全なる偶然だけど、山菜のたらの芽を採っていたら似ている木が漆だと知りました。漆を採取できるかもしれない。そうしたら、紙と土器と漆と木と炭と、何百年前のオールスターが揃いそうです。炭を作っているので、海から砂鉄を採取すれば鉄も視野に入ってきます。

ぼくが目指しているのは、炭焼きのときもそうなんですが、〇〇の方が儲かるよ、とか教えてくれるのですが、その流れに抵抗しているんです。はじめに書いたように今の社会とは違う流れを作っている。だって炭焼きは、お金にならなくなって衰退したのだから、お金を数えはじめたら薪を売った方が効率はいい。けれども炭焼きという活動の中には確実に近代社会が切り捨ててきた何かがある。それを拾って再検証しているんです。だから儲かるなんてことには、ここでは何の価値もないんです。

付け加えておくと、細かい話ですが「〇〇の方が儲かる」が悪い考え方と言いたいのではないです。それが主流です。それはそれでいいんです。ぼくは敢えての選択をして研究をしています。オルタナティブとは選択肢を増やすことで「あ、それもいいね」です。

ぼくが夢想していることの中心は現実をつくることです。想像をカタチにすること。ところが芸術という表現は、想像を想像のままカタチにして現実とリンクしないことが多いのです。例えば、映画は映画です。映画のなかの物語です。絵画も絵画です。それは現実の景色ではありません。現実の景色だとしても、それを写し取ったものです。そうではなくもう一歩踏み込んで、想像したものを絵画やオブジェというカタチに表現するだけではなく「現実の目の前をつくる」という表現にリーチしたいのです。

「目の前」というもの、この現象のリアリティを掴むためにこうしてコトバにしています。どうしてぼくたちは「目の前」というこの奇跡を放置してしまうのか。

この今、目の前に広がる景色は、あなたが獲得した景色です。瞬間瞬間取捨選択をしてたどり着いた光景です。ぼくは東日本大震災で、原発が壊れたときに気がつきました。ぼくが何も考えずに毎日取捨選択した結果、この景色になってしまったと。

つまり表現をするという根源は、日々の生活をつくることにあるのです。目の前の景色をつくること。Landscape art, emnviroment visionary, カテゴリーはいろいろ可能だけれど、目の前をつくること、これこそヨーゼフボイスの「社会彫刻」の実践だと思ってます。社会というコトバが広範囲で掴みきれないなら、環境彫刻とも言い換えられます。

「社会を変える」と言うと、そんなことできない、と返されますが、自分が毎日見ているモノ、出会う人々、耳に入る情報、それがその人の社会だと思うのです。だから、毎日見るモノ、出会う人々、聞こえる音、それらを変えることは、すでにもう社会を変えることです。生活という領域、時空間は、会社よりもずっと個人の側にあります。そこを編集するのは、誰にも命令されない指示されない、自分の側から起こす社会を揺り動かすアクションになるのです。けれども、お金にならないし、学校でも教えないし、両親も先生も上司も指示しないから放置されるのです。なぜなら生活の時空間はあなたのだけのモノだからです。つまりここに自由と呼ばれるあの聖域が広がっているのです。

とは言え、何から手をつければいいのか分からないと思います。まずは違和感、違うと感じる物事を自分の前から消すことです。消さないまでも間合いを取る、距離を取る。そうやって日常を編集して、一時的にでも快適な生活環境をつくる。これを「生活芸術」と呼んでいます。

こんなことを日々実践して到達した時空間が茨城県の最北端、北茨城市里山桃源郷です。ついに看板を設置して、この半分空想ランドが現実化されました。

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左側の巨大な矢印に惑わされて、辿り着かない桃源郷。よく見れば、右なんです。機会があれば訪れてみてください。