いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

友達と話した宗教について

バリ島の友達と宗教について話した。遠くの友達も近くの友達も、コロナの影響で距離は関係なくなってる。

インドネシアの90%がイスラム教を信仰しているけれど、バリ島だけは90%もの人がヒンドゥー教を信仰している。ヒンドゥー教は、経典よりも慣習を大切にしていて、儀式とお供え物を欠かさない。以前バリに滞在したときは、クルマにもお祈りすると聞いた。

なかでも、もっとも印象に残っているのが、バビグリンという豚の丸焼きが最高の料理で、お金持ちになっても贅沢はバビグリンの数が増えるだけで、そんなに食べられないから、周りの人に振る舞うのが豊かさになっているという話だった。ここには、生きるための共同体としての宗教の姿がある。

 

けれども日本では、宗教はほとんど消えている。宗教というとほぼ政治だったり、新しい宗教だったり、日本人が長い歴史のなかで共にあった宗教の姿は見えない。どこへ行ってしまったのか。

 

アフリカを旅したとき、タクシーの運転手に何を信仰しているか、と質問されて無宗教だと答えたら、驚いていた。

「じゃあ、一体この世界はどうやってできたか知らないのか? なんてことだ。教えてあげよう、神さまが創ったんだよ」と話してくれた。運転手さんはキリスト教だった。

 

ぼくの祖父は、朝昼晩、仏壇に向かってお教を唱えていた。浄土真宗だと聞いたことがある。けれどもぼく自身は具体的な何かを信仰する習慣がない。

 

それでも宗教には興味があって、というのも聖書は、物語として最高傑作だ。とくに旧約聖書に記された物語は、それが事実なのか空想なのかを超えて、これ以上ないスケールでこの世界を描いている。ノアの方舟バベルの塔、アダムとイブ、リンゴと蛇、どれも最高に面白い。

 

今読んでいる「ツァラトゥストラはこう言った」は預言者の形式を借りて著書ニーチェの思想が伝えられる。これも聖書をかなり引用している。この設定も漫画ほど単純明快で、そのうちこれをネタに小説を書きたいと思っている。まあ、そのうちとか言ってないで、すぐに始めた方がいい。

 

宗教でもっとも好きなエピソードがイスラム教のはじまりだ。商人のムハマンドが洞窟で姿のない人間ではない何者かに話しかけられ、驚いて逃げて帰り、妻に悪魔に話しかけられたと言うと、それが悪魔だとどうして分かるのか、戻って話を聞いた方がいい、と催促されて、神の教えを聞いた。それがコーランになった。その布教を親戚からはじめて、街に広がり、隣街へと拡大していき、長い年月を経て世界三大宗教のひとつになっている。

しっかりと先行して存在していたユダヤ教キリスト教との差別化をしていて、前の二つは神の教えを聞いた者が信仰の対象になっている。決してそれは神ではない。神を信仰しなさい。このイスラム教がほんとうで最期の教えだ、と説いている。

 

イスラム教とはコーランを信仰することで、それだけではカバーしきれないので、新たな解釈をすることで時代の潮流を乗り越えてきた。ところがなかには、深読みが過ぎて、さらなる宗派へと分裂して対立が起きている。新たな解釈を探究するけれど、それは死と隣り合わせで、間違えば神の言葉を利用したことになって、死刑にされてしまう。宗教内ではそんな戦いがあったりもする。そんななかでイスラム神秘主義とは、コーランの教えを深く読み解いて、そこに書かれていないことすらも、教えとして解釈していく。究極的には、自分自身のなかに信仰するべき声があるという。

 

ぼくは神という存在を宗教が描いているものとは違った感覚で捉えている。ある意味でイスラム神秘主義の自分自身のなかにある直観に従うことに、生きるという点では、進むべき道を照らしてくれる何かがあると思っている。

あと仏教については、習った訳でもないけれど、日本人だからどこかに染み付いているだろうし、茶道からとても教わることが多い。岡倉天心は、明治時代に「茶の本」を英語で書いて日本人にとっての芸術観を西欧に伝えた。

どうしてお茶なのか。天心は茶道そのものを伝えたかったのではなく、それまで日本には存在しなかった芸術という概念をもともと日本にあったもので伝えようとした。というのも「アート」いう言葉が明治時代に輸入されるまで芸術という概念は存在しなかった。浮世絵とか陶器とか書とか、それぞれの表現はあったけれども、それらをまとめる概念がなかった。だから天心は、茶道を代わりに持ち出して、あの本を書いた。あの本には、アートが輸入される前の日本人の芸術とは何かが書かれている。そうやって読み直すと、自分のなかに西欧とは違う芸術の血が流れていることを知る。

今では型式化してしまった茶道の、侘び寂び、それを探究するその奥に仏教がある。竹と木で作られた鄙びた小屋を茶室とすることや、名もない陶工がつくった古くて歪んだ茶碗を傑作とすることには、いまの日本人が忘れてしまった信仰の姿を感じることができる。贅沢とは真逆の、美しいと醜いを超えた、貧乏人も金持ちも、誰もが涅槃へと到達できるような、そういう芸術的な態度が茶道のなかに埋まっている。

 


だから、自分が追求している生活芸術は、宗教にも近い態度だと思う。けれども、それは自分のなかでの信仰であって、誰かに伝えるものでもない。宗教は、ともすると残酷だったり凶暴になりかねない人間を抑制するための、道徳だったのだと思う。けれども、その教えを説くものたちが、それぞれの都合で解釈をし続けて、何やら神様に近しいようなフリをして、そのような場所に居座って、宗教そのものの教えを台無しにしているように見える。偉い人間なんてひとりも存在しないのに。その椅子から降りて泣いている人を救い給え。と言いたくなる。


ニーチェはこう書いている。

「どうして金は最高の価値を持つようになったのか。それは金がありふれたものでなく、実用的でもなく、光を放ってそれが柔和だからだ。金はいつも自分自身を贈り与えている」

 

自分自身を贈り与える。

自分が輝きながら、その輝きで人に価値を与えるようなことだろうか。その輝きは、純粋だから光を放っている。純度が高いゴールドになることは難しい。石ころでもなれるだろうか。仏教はその問いに対して、イエスと答えてくれる。

 

 

自然のなかで自由に芸術で生きる。

次の展開への途中にいる。人生を作品にして表現活動をして生きていこうと、定期的に本を出版している。いま手元には3冊目の本の原稿がある。去年の秋ころから書きはじめて、2回の校正をして、ほぼ完成の状態にある。どうやって出版するか考える。作ったモノを世の中に流通させるには、それぞれに仕組みがあって、本なら出版社を経由して書店で販売することだし、絵画であればギャラリーで販売される。けれども、どれにもそれ以外の手段がある。音楽だったら自主制作、インディーズ、DIYと呼ばれる手段がそれだ。3冊目の本は、大手流通を介さないで販売することを考えている。

本の内容はドキュメントで自分が選択した生き方、ライフスタイルをつくることについて書いてある。本を書くことで自分のしていることを理解して、その進むべき先が見えてくる。本を書きながら自分の人生をつくっている。

このブログは、その本の種。起きた出来事をメモしておく。ライフログ。記録していたものはやがて物語になって本にまとめられる。一日とは流れていくばかりの人生を捉える最小単位でもある。今日できることをひとつずつやっていく以外に昨日よりマシな人生をつくる方法はない。

6月のはじめ1年ぶり以上の東京へ行った。コロナウィルスのせいでまったく行けなかった。古くからの友人がついに映画を撮ることになり、その映画のなかに出てくる絵を制作した。画家の主人公の部屋をつくるための壁紙も制作した。

それを撮影現場に設営するために東京に4日間滞在した。映画の設定に合わせた状況をつくる美術さんと一緒に仕事をした。映画の場面をつくることは、完全な嘘をでっちあげるように、もしくは殺人現場のアリバイ工作のように、モノの配置を綿密に計画する仕事で面白かった。すべての映画の場面がそのように作り込まれている。自分がテーマにしている虚構と現実の境目が見れた。美術さんの部屋はやっぱり綺麗なのか質問したら仕事とは別だから、と答えた。このときは言わなかったけれど、そこの境界線を踏み越えたとき日々の暮らしがアートになる。映画のセットのような部屋。それだけで素敵な空間だ。

東京では自主的なコロナ対策で、ほとんど出かけずに部屋に籠って3冊目の本の仕上げた。作ることに没頭できる、その環境が欲しくてずっと格闘していた。気が付けばそれを手にしている。だから次は、本を売るという課題。それをクリアできればもうひとつ欲しかったものを手に入れることができる。自主制作で500冊くらい売れれば、その先、いろんな可能性が見えてくる。出版社に出してもらえるような本を、つまり売れそうな本を書いても、これは売れませんと断れて途方に暮れるよりずっと未来がある。

映画の仕事をクリアして北茨城市に戻ってきていつもの生活に戻った。いつもの生活とは里山の景観をつくりながらアート作品をつくる日々。これも欲しかったもののひとつだ。けれどもアート作品を販売して、それだけで生きていくにはまだ遠い。9月に個展があるから、それに向けてコツコツと制作している。妻は言う「ひとつずつ終わらせていこう」。

ぼくは妻と二人で制作しているから、二人が納得しないと作品は完成しない。作品のクオリティに対する眼差しは厳しくなっていく。ぼくたちは厳密にいえば、絵を描いていない。色とカタチをつくっている。上手いということではなくて、意図を超えた自然な要素がどれだけ発生させられるか。妻もぼくも意図しなかった偶然がそこに起きているか、その手法をいつも開拓している。

朝起きて、紅茶をつくっている。これも個展に出したいと企んでいる。お茶っぱを摘んでつくっている。「身の回りのモノで生きるために必要なモノをつくる」ということを表現したいと考えている。自分のしていることが変な日本語になっていく。でも「身の回りのモノで生きるために必要なモノをつくる」これが生きるための芸術のスローガンだ。

お茶を表現に取り入れるのは、岡倉天心を引用したいからだ。芸術という言葉の意味を調べていたら、芸術という言葉はアートという言葉が輸入されてはじめて訳語としてつくられたと知った。「自由」や「自然」もそうだ。日本語には芸術も自由も自然もなかった。しかしなかった訳じゃない。あったけれど違った認識の仕方をしていた。

岡倉天心は、芸術という言葉が輸入される前の日本人にとっての芸術とは何だったのか、それを「茶道」として西欧に紹介した。それが「茶の本」だ。

個展の裏テーマにこっそりと茶道を忍ばせて、生きるための芸術という領域を描き出したいと考えている。だから「茶入れ」「掛け軸」を制作しようと企んでいる。可能なら紙もつくりたい。ただこれは、展示の仕掛けとしての飛び道具で、中心は絵画作品にある。絵画は分かりやすい。ダイレクトに伝わる。「良い/悪い」は瞬時に判断される。

人生をつくるということは、とても危ういバランスにある。バランスを崩して倒れたときに分かる。実は、たいしたことがないと。社会がぼくたちを不安にさせることの多くは生きることに直接の影響はなかったりする。つまりそれで死ぬということはない。それなのに焦ったり不安になったりする。

ぼくは自然の多い、田舎に自分が暮らす場所をつくって、そこで創作に没頭している。そこから生み出される作品がぼくたち夫婦を活かしてくれるだけの収入になりさえすればいい。そうすれば不安は解消される。永遠に? そんなことはなくて一時的に。だからまた創作に励む。

けれど人間の欲は尽きることなく夢が叶った途端に、当たり前のような顔をして感謝を忘れて何か物足りなく感じるようになり、新たな欲望がぼくのケツを蹴飛ばす。また走り出すことになる。

自然のなかで自由に芸術と共に生きる。明治以前だったら、そんなことはありえなかったんだろう。言葉が存在しなかったのだから。けれど今の時代だったらそれが可能だ。そう言葉で伝えることができるのだから。

芸術家になって展示すること。

ギャラリーから連絡があった。9月に個展をやらないか、という話しだった。こっちでは老舗のいわき画廊だ。

ぼくは茨城県北茨城市に暮らしていて、4年前に北茨城市が芸術によるまちづくりをするために芸術家を募集して、ぼくら夫婦は東京板橋区から引っ越して、このまちに暮らすことになった。

芸術で食っていく、と40歳を前に退職して独立起業するつもりだったけれど、そのやり方は実のところよく分かっていなかった。見えていたのは、伝説と化した芸術家たちの姿だけだった。もしくは有名ギャラリーに所属して絵を売っていく、てっぺんのやり方だけだった。つまり途方もない彼方を目指して芸術家の道に踏み出した。

5年間は海外を旅したり、家賃をゼロ円にするため日本の空き家を転々とした。その後、北茨城市に暮らすと、すぐにこのまちで活動している芸術家たちに出会った。

60代から70代、陶芸家、油絵、日本画、それぞれ表現形態は違うけれど、先輩たちは確かに芸術を仕事に生活していた。

そこには有名ではなくても芸術を仕事に生きるやり方があった。大きな成功をしなくても、好きなことを仕事にする方法がここにあった。

北茨城市の伝統工芸、五浦天心焼の普及と保存の活動をしながら、自らの作品を制作販売し、農家としてお米と野菜をつくり、縁側展と題して、自ら制作した陶器に自ら作ったお米と野菜の料理を振る舞う菊地夫妻の展示に、生活と芸術を一致させた究極のカタチを見た。その展示は食事は無料でその料理に使う陶器とお米を販売していた。

日本画家の小板橋さんは、サーファーから画家に転身した。きっかけが、いわき画廊の忠平さんだった。

忠平さんは、北茨城市の出身で何かやりたいな、と考えたときギャラリーをやることにした。そんなときに、東京のギャラリーの知り合いから中国のアーティストが展示する場所を探していると相談を受けて、作品を観に行った。火薬を使った作品に衝撃を受けた。すぐに福島で良ければ一緒に展示をつくろうと誘った。喜んで福島に来て展示をしたのが、今では世界のスター作家となった蔡國強(さいこっきょう)だった。

小板橋さんも芸術家になりたいと忠平さんに相談すると、山のなかに籠って仙人のように絵描きに没頭しなきゃなれないよ、と言われ、電気もない山の中に引っ越して、そこで絵を描きはじめた。そして数年修行を重ねて、ついに画家になった。いわき画廊でデビューした。それから何十年も作家を続けている。SNSもやってないし営業活動もしてない。それでも食っていけている。

何より小板橋さんの風景画は美しい。きっと誰が観てもそう感じるほど。そして優しい。絵のなかに、余計なものを入れたくない。ただ純粋でありたい。そう話してくれたことがある。

イタリアの風景画を描く毛利元郎さんも、北茨城市に暮らす作家で、奥さんが額を制作する夫婦芸術家という側面もある。年間幾つもの展示をやって作品を販売している。展示会場にも足を運んで接客もする。常にコンスタントに制作する姿はアスリートだ。走り続ける作家だ。

ぼくがいわき画廊の忠平さんと知り合うきっかけになったのが陶芸家の真木孝成さん。陶芸家として一線を走っていたが、新天地を求めて南米のベルリーズに移住する。そこのジャングルで生活を開拓していたが諸事情により帰国。北茨城市の山村の鄙びた小屋暮らしをしている。侘び寂びの極地とも言える仙人のような佇まい。しかし本人は全然そんなことはない自由人だ。ぼくのまったく独学の土器づくりにアドバイスをしてくれる師匠でもある。

こうして北茨城市に来てから作家として生きていくやり方を学んだ。そのなかで、いわき画廊がどれだけの作家を育ててきたか、その話を聞くたびにいつかここで展示をやりたいと思っていた。忠平さんは、この数年いつか個展をやろうとは言ってくれていた。しかし「いつか」とはいつなのか?

これまでの自分だったら「作品を持って展示をやらせてください」と交渉しに行った。けれどもいわき画廊は、そういうやり方は通用しない感じがした。だからその時が来るのを待っていた。

ちょうど先週、毛利さんが2年に一度のいわき画廊で個展をやっていて、そのときに忠平さんにぼくら夫婦の新しい作品の画像を見せてくれたらしく、それをきっかけに忠平さんから電話が来たという経緯だった。

北茨城市に来て、ここに紹介した先輩作家たちの作品を少なくともひとつずつは購入したいと妻と話していた。なぜなら作品を作ることと買うことは表裏一体だから。自分の作品に10万円の値段をつけるなら、10万円の絵を買ったことがなければ嘘になる。絵を買うという行為は、商品を消費することとは違う。絵は費やされて消えることはない。むしろ絵は成長していく。鑑賞されることで意味を豊穣にする。これは作品を買った人にしか分からない。それを知らないからアートだからという理由で何十万円という値段をつけてしまう。アートだから売れるんじゃない。その作品にそれだけの価値があるから売れる。

先週の毛利さんの個展で、毛利さんの作品を買って、ついに北茨城の先輩作家の作品をコンプリートできた。そしてぼくたち夫婦も、いわき画廊の物語になる。何より嬉しいのは、はじめてギャラリーという場所に認められたことだ。

ぼくは40歳を前にやっと本気で芸術活動をはじめた。それ以前は準備期間だったのだと思う。もしくは勇気が足りなくて飛び込むことができなくて、いつまでも準備運動をしているようだった。物事は捉え方次第で、だからかえって自分のなかの芸術に対する土壌ができたとも言える。しかし、そのほとんどは勘違いの先走りで、だから臆面もなく「生きるための芸術」とか「生活芸術」と言えてしまう。

けれどもここまで来て思うのは、芸術からはみ出して、芸術以外のモノのなかに芸術を見出し、それを芸術という枠のなかに収めてこそ、新しい眼差しを獲得できる。

展示するということは、ハコに絵を並べるだけの行為じゃない。ましてや販売スペースでもない。表面的にはその2つなのだけど、展示するということは、空間を自分の芸術で満たして、販売するとか、絵を並べるといった行為を見えなくすることだ。作家自身の芸術性が溢れて爆発した空間をつくり出すことだ。

毛利さんの展示で話をしていたとき、別の作家さんにどんな作品を作るのかと質問され「主には風景を描きます」と答えると毛利さんが詳細を付け加えてくれた。別の作家さんは「ほう。その絵には明るい空気があるんだね」と言った。それから「毛利さんの柘榴は画面いっぱいに描くから爆発しそうだ」とか「柔らかいものは柔らかく描けているかどうかだよ、絵には固さ柔らかさがあるからな」と絵描きならではの言語に出会った。

展示とは、作品をきっかけにこういうコミュニケーションが生まれ、そこに新しい思考や発見が鑑賞者に与えられる場でもある。

簡単に例えるなら、展示は芸術を演じるコントだ。どこまで芸術以外のものを芸術として振る舞わせることができるのか。その臨界点を提示してみせたい。ぼくの場合は、生活と芸術、この境界線を浮き彫りにしたい。

あちこちにやりたいことが飛び散るぼくを見て妻が「ひとつずつコツコツと完成させていこう」と言った。

今朝目を覚まして、お茶摘みに行くと妻に話したら「じゃあ、展示の来場者に紅茶を振舞ったら」と言われた。

お茶を摘みながら「来場者に紅茶を振る舞うなら、どれだけのお茶が必要になるんだろうか」「身の回りにあるモノで生きることを表現するには紅茶は最高のもてなしだな」と考えた。それは茶道にも通じるし、岡倉天心にも言及できる。

9月の個展に向けてひとつ目の作品は「手摘みの自家製紅茶」になった。

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老いをデザインするために。

誰もが歳を取る。ぼくは今年で47歳になる。仕事は芸術家。北茨城市集落支援員として景観をつくっている。これをランドスケープアートとして取り組んでいる。

いわゆる限界集落(高齢化により消滅するかもしれない地域)に暮らしてる。だから周りはお年寄りばかり。70代、80代。廃墟を改修して家をつくるとき、お年寄りが遊びに来れる場所にしたいと思った。だから鍵なんてなくて、いつも開かれていて気兼ねしない土間を作った。

家をつくって住み始めて2年目になった。数日前ついに、人に会うのを面倒に感じてしまった。というのも朝から夕方まで誰かしら訪ねて来る。朝は8時から来る。夕方に来た人は19時ころまでいる。一日に2回来る人もいる。

お喋りをしていられない気分だった。絵を描いたり文章を書いたり本を読んだり自分の時間を持てなかった。だから午後は買い物に行くと言って、海に向かった。風がある日だったからサーフィンはできないけれど、それでも海を眺めたかった。

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海にはサーファーの友達が偶然いた。海を見ながら「毎日お年寄りが来て、同じ話ばっかりで疲れた」と愚痴をこぼした。そう話ながら(でもその状況をつくったのは自分だよな)と思った。だから「でも自分で好きでそうしているんだけどね」と付け加えた。そうやって言葉にしたら楽になった。

家に帰った。その日は誰も来なかった。

次の日になってまた日常がはじまった。

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炭を焼くための薪をづくりをした。師匠と呼べる有賀さん74歳と平さん76歳と。景観をつくるために伐採した木があって両手で抱えられないほどの大木で、その木をチェンソーで切って、斧で割って薪をつくる労働。15分もやればうっすら汗が出る。有賀さんは炭焼きのやり方をすべて教えてくれている。47歳の自分ですら重労働なのに「有賀さんはどうしてそんなに体力があるのか」と聞いてみた。「剣道やって柔道やってサッカーやってマラソンやって。身体を動かすのが好きなんだ」と言った。

ここ最近は朝6時には起きて、文章を書いたり、サーフィンに行ったり、ストレッチしたり、一日の計画を立てたり、誰かがくる前にその日をはじめている。

昨晩読んだ本「職人のむかしばなし」に「仕事は骨惜しみしないで身体を使わなくちゃいけない。仕事ってものは嫌々やると余計つらいが自分から積極的にやって、そいつを習慣にして毎朝やれば案外楽しめるし、また楽しみをみつけることができる」と書いてあった。

目標がある。70歳になっても炭焼きができる健康と体力を持っていたい。その頃まで妻と絵を描き、文章を書いて思考を続けていれば、そこには何かしらの収穫がきっとある。1日はそこへ至るまでの1歩だ。8395歩で70歳。今日も一日生きる。明日も。

お年寄りと書いたけれど、むしろ父や母の年齢に近い。まるでたくさんの父と母が、ぼくたち夫婦を心配してくれ気にかけてくれている。ぼくがその年齢になったとき、ぼくは同じように次の世代をサポートできているのだろうか。疲れる日もあるけれど、この地域で出会うお年寄りに感謝している。80歳までは、いまの活動を続ける勇気を貰った。

 

追記:

もしこれを読んだとしても気にしないで訪ねて来てくださいね。

ライフワークと呼べるもの

芸術が職業のなかで最も自由に思えた。何かに没頭するのが好きで、それが許されるのも芸術だったから芸術家になろうと考えた。むしろ、もうそれしか選択肢がなかった。やろうと思えば、会社に勤めて働くこともできた。それでも少しでも表現が許される職種を選んできた。音楽フェスを企画したり、アーティストを発掘してCDをリリースしたり、そんな仕事をしていた。それができるようになったのは30代。20代は遊びに夢中だった。遊ぶために働いた。遊びとは音楽を聞くことだった。ライブハウス、クラブ、野外イベント。けれども、どうしても自分でもやりたかった。だから働きながら、絵を描いたり、文章を書いたりしていた。バンドもやっていた。

当然、仕事としてやること以外はお金にならなかった。けれども遊びにしても、それを作り出す人たちがいた。遊びと言っても、誰かが作ったものを消費していた。作り手とは、ミュージシャン、イベンター、レコード会社。次第に遊んでいるうちに、そういうプロフェッショナルに遭遇するようになった。遊びながら手伝ううちにそれは仕事になっていった。

絵が仕事になったのは40代に入ってから。20代の半ばから描きはじめて、遅いスタートだった。それでも楽しんでいたから、お金になるかどうかは別の話だった。夢があった。芸術家になることに。ピカソとかウォーホールとかデュシャンとか。もっとも影響を受けたのは、ラメルジー。異端のグラフィティーライター。来日したとき話す機会があって、今思えば奇跡の瞬間だった。ラメルジーは芸術家だけでなく、潜水の仕事をしていると教えてくれた。あのラメルジーでさえ副業をしているのだ。

お金にならないことに対して社会は、それをすることを許してくれない。なかなか許容してくれない。どうしてなんだろうか。だから自分の芸術活動をお金にすることにした。できるか分からないけど、会社を辞めて個展をやって作品を売った。50万円になった。それ以来2013年から、芸術家として生きている。何をするにも準備期間がいる。誕生して歩けるようになるまで、種を播いて芽を出すまでの保護期間が必要だ。それを与えられるのは自分しかいない。芽を摘まれないように、こっそりと育てた。

ぼくは芸術について、誰かに教えてもらった訳でもなく、学校で技術を習得した訳でもなく独学でやってきた。だから先生や師匠は自分が楽しんできた遊びのなかにいる。聴いてきた音楽や読んできた本、イベントで出会った人々。特にボブ・マーリーに憧れた。彼は音楽で社会に抵抗しながら生きることを歌った。

だから絵を描いたりオブジェを作ったり、美術館やギャラリーに作品を並べて、それだけで満足していいのだろうかと思う。もっと遠回りしていい。芸術ではないもののなかに芸術を見出す。それが先人たちからの教えだった。ジョンケージは、無音を音楽にした。マルセルデュシャンは、便器を芸術にした。だからぼくは生活を芸術にする。

芸術とは、いつの時代もその意味と形を更新し続ける表現であるべきだ、と思う。思う、と書くのは断定するべきことではないし、それもまた選択された表現のひとつでしかないから。

作家のカートヴォガネットは、芸術家はカナリヤだと書いた。炭鉱を掘り進めるとき、カナリヤを最前線に連れて行く。カナリヤはガスが漏れるといち早く察知して鳴いて知らせる。つまり芸術家は時代に対して警鐘を鳴らすべきだ、という。

宮崎駿風の谷のナウシカはまさにそうだった。宮崎監督とジブリは、そういう作品づくりをしている。社会と自然のバランスのなかで失われていくもの、人間が誤った方向へ進んでいるのではないか、という危機感。たくさんの人がその作品に感動して、傑作と評価されても、映画の世界から離れてしまえば、そのメッセージは消えてしまう。それが残念でならない。ぼくはいつまでも空想の世界で遊んでいたい。だから、空想の世界と現実を一致させることにした。表現に触れたとき、心に点いた火を灯し続けるために。

ぼくは境界線を取り払いたい。空想と現実、成功と失敗、上手と下手、美しさと醜さ、表現されたものに心を動かされるとき、それは必ずしも優れた何かではない。またそれは原石でしかなく、もしその輝きに心を動かされて、それだけだったら、それは幻に過ぎない。ぼくたちが感動するもの。心を動かされるもの。それを動力に変換する器官が必要だ。感動を実生活へと取り入れる神経回路を構築する必要がある。ティモシーリアリーは神経政治学という本を書いている。まさにそのタイトルの示すところをつくりたい。

例えば音楽を聴いて、その歌に感動したら、その歌を実人生に反映させる。もしジョン・レノンのイマジンを、この歌に感動したすべての人が行動に移せば、ジョン・レノンが想像した社会に近づくだろう。ジョンレノンはそうなることを想像していたんだと思う。

ボブマーリーが歌うように、ぼくたちが生きる権利のために立ち上がれば、社会も時代も未来も変わるだろう。

ナウシカのメッセージを受け止めたなら、コンビニのお弁当を買うことはできないだろう。買い物の仕方が変わるだろう。

何のために。ぼくには、未来へと理想のバトンを渡す仕事がある。もっと人が生きやすい環境をつくりたい。ぼくは環境を表現したい。たぶん、それはお金にならない。多少はなっても増殖させない。欲望を膨らませない。ノーエクスペクテイション(期待しない)。大きくすることでも、数を集めることでもなく、ただ人が生きやすい環境を表現すること。描写、記述、手段はなんでもいい。

もっとも自由な職業だからこそ、芸術という表現が社会の抜け道を切り拓くべきだ。エクソダスだ。資本主義はもはや怪物だ。あらゆるものを飲み込んで増殖膨張していく。誰にもコントロールできない。だから、飲み込まれても、同化しない。自分であり続ける。その意味で、お金にならなくていい。問題ない。むしろお金になるということは、理解されたということだから、常にお金にならない領域に、理解の一歩先に身を置く。自分すらも理解できないボーダーラインの先へ。お金になるということは結果であって目的ではない。結果が生きようとするモノの命を守ってくれる。それが自然の摂理だ。

時代は、間違った方向に進んでいる。今に始まったことじゃない。ずっとそうだった。だから芸術表現は別の理想世界を描き続けてきた。否定をするつもりはないけれど、世の中全体が狂ってしまうほど、この時代はお金に占拠されている。オリンピックにしろ、コロナにしろ、お金から自由であったなら、もっと違った選択肢があっただろう。

少し遡ってみれば100年前までは土地だった。人は土地を巡って狂っていた。土地のために何千年もの間、人間は争い殺し合ってきた。突然に何が変わるのではなく、少しずつ変化していく。その変化の狭間では、両極に足場を持てば、眺めが変わる。面白いことにお金が支配する時代になると、土地に対する偏執は忘れられた。いま日本で地方では空き家や耕作放棄、休耕田が増えている。貨幣価値に換算できない土地や家が放置されている。100年前には騙してまでも殺してまでも欲しかったものが捨ててある。これまたクレイジーに思える。愉快ですらある。

時代の流れのなか現代社会が放置してきた里山。ぼくはここに流れ着いた。人が欲しがらないものを選んできたら、ここにいた。ここでは社会が反転している。情報も価値もない。代わりに自然がある。価値がないから欲望もない。欲望がないから助け合いやシェアが生まれる。食べ切れない食料は「売る」という選択肢ではなく「分ける」という発想になる。この小さな環境のなかに生きるために必要だった何かがある。

この桃源郷と名付けた大地の手入れをしている。筆や絵の具の代わりに草刈り機を手にして、景観を作っている。ここにぼくの土地はない。所有はしない。それでも自分が見ている目の前の世界を美しくすること、これこそがアートだ。芸術は表現のなかにあるのではなく、表現されたものが目の前に現れるところにある。ひとりひとりが生活をつくること。つまり目の前を表現するようになれば、わざわざ立ち上がらなくても、想像しなくても、いつも目の前に理想がある。理想を生きることができる。答えはないけれど、ぼくは生きるということを伝えるためにこれを書いている。これは死ぬまで続く。これは遊びであり仕事だから。これがライフワークだ。

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桃源郷2021.May

 

交われ。Crossing. イメージ、コトバ、象形。

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新作。"交 - Crossing"
painting, word, hamdmade frame box
48 × 28 cm
Sold
北茨城ではよく知られた河口の風景。汽水域。淡水と海水が混ざる。ずっとコラージュ作品を作ってきて最新形はこうなった。イメージ(画像)とコトバ(詩)を象形文字にして。東洋と西洋、太古と未来の交わるところ。

Landscape of brackish water, crosspoint east and west, my newest collage work which are image and poet and Kanji.

これは音楽にインスパイアされている。コラボさせてもらったThe Mysticsのアルバムジャケットからの流れであり、2000年代に、日本を代表するクラブイベントCLASHへのオマージュでもある。ここには快楽がある。

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アートをつくる、仕事をつくる、生活をつくる。

たまに思いつくままに文章を書きたくなる。今していることや、これからすること、未来やこれからの社会について。芸術家として生きていくと決意して、ようやくそれに専念できるようになって、それは絵だけではなく生き方をつくるという表現になった。

その表現は、仕事のそのものをつくることでもあり、それによって、必要以上にお金に振り回されることを防いでくれている。

好きなことを、やりたいことを仕事にすれば、稼げる金額は少なくなる。中には、それで大きな収入を得る人もいる。それはそれで素晴らしいけれど、ぼくは収入を軸にデザインをしない。

収入が少なくても楽しく豊かに暮らせるように生活をデザインする。素晴らしいことに日本には、そういう余地がある。ほんとうに酷い状況だからこそ、社会の余白が必要になる。

例えば、たくさん働かなくても生きていければ、コロナウィルスのような天災のなかでも、生きていくことができる。問題がお金ではなくなるからだ。社会や経済と切り離したところに拠点を持てばそれは可能になる。けれども、それは安定とは程遠い、大海原に挑む小舟のような居場所でもある。

コロナ禍で、感染すれば周りに迷惑をかけると考えて、ギャラリーアトリエを訪ねてきたいという人を断ってきた。考えてみれば1年以上、この緊急事態が続いている。

「景色をつくる」という活動が幸いにも仕事になって、給料を貰いながら集落支援員として景観の手入れをしている。アートプロジェクトが仕事になった。

主な仕事は草刈りだ。髪の毛も手入れをした方が見栄えがよいのと同じで、草刈りをすれば景観はよくなる。単純なことだ。

コロナ以前の計画では、生活をつくる、景観をつくる、という芸術からはみ出していく活動をしながら、アート作品をつくって、ギャラリーで展示して作品を売って、それらの活動を本にまとめて出版して、海外にも度々、展示やら制作で旅をして、というのが少し前に想像した未来だった。

コロナのおかげで、移動や人に会うコトに制限ができた。けれども、どうしてもギャラリーを見学したいと言ってくれた人がいて、これは受け入れるタイミングだと思い、久しぶりにギャラリーを開けて、つくっている景観全体を案内した。自分が動けば周りが動くと友達が教えてくれた言葉の通り、この日は3組の見学があった。午前中に大慌てでギャラリーの草刈りをして準備した。人をもてなすということを想い出した。

作品が売れるかな、と展示を入れ替えたけれど、作品自体は売れなかった。代わりに「景観をつくる」という活動に興味を持ってくれ、別の土地の価値を発掘してプランニングして欲しい、という大きなオファーを貰った。

そこにあるものを利用して景色をつくる、これを「ココニアル」と呼んでいる。植民地のコロニアルの反対語で、ぼくたちの造語だ。意味は、植民地がよその土地から来た人間がその土地のものを支配下にするのに対して、ココニアルは、ここにあるモノたちが協働して理想郷をつくるというコンセプトだ。

「誰にも頼まれていないことをやる」を基本にしている。絵を描くのも、立体をつくるのも、景色をつくるのも、はじめはオファーなんてなかった。

やってみたい、やりたい、と沸き起こる直観に従って、それをやる。それらがカタチになってくると、そのなかの何かが仕事になる。約1年ほどで「景観をつくる」が仕事になった。他者がそれを見て「欲しい」と感じてくれた。「欲しい」という感情を引き出すことができれば、お金は後からついてくる。どうやって幾ら儲けるかの仕組みを考えるよりも、「欲しい」という感情を引き出すことができれば、そこに価値が生まれる。

時代はとても過渡期にあって、社会も人の心も不安定だけれど、流されない生き方、ライフスタイルをつくることができる、それを伝えていきたい。