いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

9年前、東日本大震災を経験した君はそれからどうしたんだっけ?今、このウィルスが沈静化したら、君はどうするの?

東京、有楽町マルイでの展示は残り2日になった。まるでウィルスのカウントダウンのようだ。東京は静かにパニックを起こしている。電車の中、人々は見えないウィルスに怯えながら通勤している。ぼくは、少し遅く朝9時過ぎてからの電車を利用している。

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震災があった9年前を思い出す。都市の機能は麻痺して、ぼくらの生活は成り立たなくなった。それでも、都内の回復は早かった。一か月もすれば、いつものような生活が戻ってきた。けれども、ぼくは知ってしまった。社会のインフラがいとも簡単に崩壊することを知ってしまった。ぼくの心は社会から離れた。もっと大切なものがあると思い、社会に依存しないライフスタイルを望んだ。それがどんなものなのか想像もできなかったけれど、これだけ便利が発達した時代なら、どうやったって生きていけるという思い込みと確信だけはあった。勘違いでもそれを信じれば、やがて現実化する。

 

今、ぼくは東京で地下鉄で通勤している。けれど、これは仮の暮らし。ぼくの暮らしの拠点は都内から3時間ほど離れた茨城県北茨城市にある。井戸がある。畑がある。広い空が見える。海がある。里山に生活がある。9年かけて自分の生活を変えた。

このウィルスの騒動は、それほどは長引かないだろう。数ヶ月で沈静化するだろう。オリンピックがあってもなくてもぼくの人生に影響はない。そうしていられるように、どんな場所で、何をして、どんな家に暮らしていくのか、イチから取捨選択して自分の生きる環境を作り直した。

歴史の中でも何度もあった、疫病、伝染病。問題の核心は病原菌じゃない。いまこの状況で感じたことを、行動に移すことができるか。問題は人間が変わらないことだ。きっとたくさんの不満や違和感があるはずだ。それを誰かのせいにしたり、ウィルスが収まれば何もなかったかのように元の場所に戻る、それでいいのか?

 

社会をつくるのは、政治家じゃない。ひとりひとりが日々の中で取捨選択して、ライフスタイルをつくる。それは表現だ。今のような状況に感じる違和感や世の中のエラーを生活の中で改善していく。それは「ノー」と言うことじゃない、何なら「イエス」なのか、行動で示すことだ。満員電車に乗る奴がいなければ、満員電車はなくなる。それだけだ。

お金なんて幾らあっても幸せにはならない。よく見たらいい。オリンピックの利権に群がる老人たち。権利を握って離さない亡者たち。あんなに富を蓄えても誰ひとり幸せそうな顔をしていない。騙し嘘をつき、私欲に呑み込まれ、人間の心を失っていく。彼らのようになりたければ、その影を追い続ければいい。

 

9年前、東日本大震災を経験した君はそれからどうしたんだっけ?今、このウィルスが沈静化したら、君はどうするの?

忘れないで欲しい、社会をつくるのは君だ。この社会に参加してない奴なんていない。すべての「君」が主人公だ。その日々の中、何をして何をしないのか、その選択、これが社会をつくるツールになる。君がこの社会と未来を作っているということを忘れないで欲しい。ぼくは、自分が選んだ道を先へと歩いていく。水のように。少しでも役に立てるように、より低い場所へと水が大地を潤すように言葉を置きながら歩いていく。

 

頭の上の蠅を追え

Mind your own art

新しい経済のデッサン。

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個展3日目。理想の暮らしを作ると始めた生活芸術の実践がカタチになった。

1.作品をつくる。

2.その環境をつくる。

3.作品を売る場所をつくる。

4.作品を買ってくれる人に出会う。

 

簡単に言えば、1.生産、2.生産に適した環境、3.卸先、4.購入者。この4つの要素は「生産して流通して販売する」という商売の基本的な要素で、どんな商売にも当てはまる、と思う。

これが成立するなら、生きるための芸術というコンセプトで起業した商売が回りはじめたと言うことができる。やっとこんな当たり前のことができるようになった。

 

人が回り道をしてしまうのは、社会のなかで生きることが、単純に生きることとは別の指向性を要求されるからだ。むしろ、ここで「別の指向性」と呼んでるものこそが、普通の社会が要求してくることで、それが何かと言えば経済活動だ。

 

働いて仕事をしてお金を得る。仕事を拡大して経済効果を高めていく。つまり仕事の規模を拡大していく。いまの社会が要求しているのはこのサイクルだけれど、ぼくが理想とするのはこれではない。何かしらの影響を拡大していくことはあっても、拡大するのが経済だけであってはいけないし、経済を活性化させることだけが目的になってしまえば社会構造の袋小路に迷い込んで、マトリックスのような世界で暮らし続けることになる。

目的はエクソダス。その迷宮から脱出する。次の世代に自信を持ってバトンを渡し、受ける方も喜んで受け取るような、社会の構造を描いてみたい。この点ではひとつの社会思想をつくりたいと考えている。

 

それはミニマムなことで、1973年にイギリスの経済学者エルンスト・シューマッハが「スモールイズビューティフル」で描いた考え方に近い。詳しい説明は省くー

大量消費を幸福度の指標とする現代経済学と、科学万能主義に疑問を投げかけ、仏教などの東洋思想を取り入れ、大量消費社会を批判し、

小さいこと
簡素なこと
安い資本でできること
非暴力的であること

を提唱しているー

 

ぼくら檻之汰鷲の活動も、妻チフミと最大二人のチームで、できる限りのことをDIYして生きている。つまり、誰かを利用したり頼ったりしないで、簡素に小さい生活を作ろうとしている。

 

スモールであることは、あらゆる場面でエコロジーだということができる。気をつけたいのは、言葉の特性についてで、エコロジー(Ecology)とは本来は「生態学」を意味する単語だったけれど、近年では人間生活と自然との調和などを表す考え方の「エコ」として定着している。けれども、その根を掘り返してみれば、豊かな意味が溢れてくる。

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Ecologyとは、自然界の生物の生存のための活動を、古代ギリシアの市民の家政機関であるοἶκος(オイコス)にたとえて、オイコスを成立せしめるλόγος(ロゴス:理論)を究明する学問を意味する。

一方、Economyは古代ギリシア語のoikonomia (オイコノミア)から来ている。... oikos=house で「家庭」のこと、nomia=nomos 英語のlaw。ギリシア時代には、経済だけでなく「家」を守るルール全般を意味した

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そのはじまりの意味を掘り返してみれば「エコ」という言葉が「電気代の節約」のような表面的な意味になってしまっていることを知る。

言葉は、時代によって定義を変えていくから、それはそれで、常にその言葉のルーツを確認して定義し直さなければ、ぼくらはこの社会のシステムからエクソダス(脱出)できない。本来、人間が自らを成長させ、社会を変革するために生み出された言葉たちは、流通するなかで、意味を削り取られ軽くなり、個性を失い、単なる商品を説明するキーワードに成り果てている。言葉は思想をつくる武器になる。その刃を研いで社会を彫刻する道具へ作り変える。

 

すべてを原点回帰させることが生きるための芸術を実践するツールになる。常識や当たり前とは違うライフスタイルを創造するには、当たり前や常識の根底から掘り返して新しい根を張り直す必要がある。

 

もちろん、スモールイズビューティフルを実践すると言っても、二人だけで何でもできるわけではなく、たくさんの人に助けられて現在に至っている。それは利用したり依存したりする関係性ではないから新しい相互作用を生むことができる。自然発生する対価を観察することで、そこにエコロジー(生態環境)とエコノミー(経済)という言葉が持っていた環境経済のような実践を表現できる、そういう希望がある。

 

例えば、有楽町マルイで個展をやらしてもらえるのは、当然ながら、この場所を提供してもらえるからで、その場所に対して対価を発生させたい。マルイとの関係を繋いでくれた「よしもと」さんにも対価を返したい。もちろん、ぼくたちの作品を買ってくれる人に対価を返したい。そして、ぼくたちが拠点にしている北茨城市や、地域の人々にも対価を返したい。そのすべてに還元したいという意味で、自分たちがしていることの規模を拡大したい、という欲望がある。

 

たぶん、これは商売として当たり前のことなのかもしれない。けれども、商売がビジネスとなって、お金の実体もなくなり、取り引きする相手同士の顔も見えない現代では、とっくりにこの基本は、失われている。顔が見えない相手がどうなろうと、知る由もない、それがいまの社会の実情で、コーヒーを飲むごとに地球の反対側で搾取され苦しむ人々がいることや、チョコレートもそうだし、ファストファッションがそうした犠牲の上に成り立っていることと繋がっている。つまり、ぼくたちひとりひとりが何を生産して消費するのか、その端から端まで把握できるモノコトを支持するようになって、環境経済が成立する。もちろん、これは空想の産物だけれど、イメージできることは実現できる。小さければできる。経済を肥大化させない。その意味でスモールイズビューティフルが武器になる。

 

何のために作品を作り、それを販売するのか。作品は、どこからやってきて、どうなっていくのか。ぼくは「表現」を通して、あらゆる現象に迫ってみたい。モノや人やコトに徹底的に向き合ってみたい。そのためにはお金から自由な立場にいる必要がある。自分自身は、対価を要求しないという自由さ。ゼロという空虚に自分を立たせ、周辺に価値を拡散していく。それには、もっと多層的な実践が必要になる。

これらをどう展開させていくのか。3冊目の本を書いて、現在を終わらせて、次の夢の中へと、新しい冒険に踏み出そう。今回の個展は、その意味で多くを学ばせてもらっている。

生活芸術「廃墟の結晶」展

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生活そのものをアートにするため、理想の環境を追い求めた芸術家夫婦「檻之汰鷲(おりのたわし)」が辿り着いたのは、茨城県の最北端、海と山に挟まれた北茨城市にある里山限界集落でした。

この地域では、いまだ自然に溶け込むように人間の暮らしが営まれ、まるで桃源郷のようでした。けれども、そんな美しい土地にも産業廃棄物が山になって、廃墟のように朽ちた建物があるのでした。屋根が抜け落ち崩れかかった廃墟、草に覆われた荒地、山になった産業廃棄物、このように価値がなくなった土地は、どうやれば再生できるのでしょうか。

夫婦は移住して3年目の春、地域への感謝を込めて、生活芸術の実践として、この土地の再生に取り組み始め、この活動を「D-HOUSE PROJECT」と名付けました。「D」とはDestroy(破壊された)、Dark(暗い)、Disaster(災害)、 Debris(瓦礫)など現状を指し示すキーワードであり、こうしたマイナスな状況をアートのチカラでDelight(喜び)に変えるという意味が込められています。

この活動は、地域に暮らす人たちを活性化し、まさに喜びとなって地域の人たちが桜を植樹して景観をつくるプロジェクトへと発展しました。

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本展示では、これまで彼らが採取してきた様々な表現やテクニックで、荒地と廃墟を再生する過程で抽出されたイメージやカタチ、その地域で暮らしていく日々の出来事などが、アート作品としてご鑑賞頂けます。

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本展示の収益は、引き続き土地を再生していく、井戸掘り、産業廃棄物の撤去、地域の景観づくりなでの活動資金となります。表現することが空想世界だけでなく、現実世界のカタチを変えることが檻之汰鷲(おりのたわし)の目指す生活芸術です。

ブログを読んでくれる皆様も、ぜひ足を運んで作品を鑑賞してみてください。絵は、たくさんの人の心に触れて成長します。皆様のお越しをお待ちしています。

死者を蘇らせる現代

1月は暖かくて地球は大丈夫なのか心配になるほどだった。2月にはちゃんと寒くなって、それはそれで「寒い寒い」と呟いてる。風が強く吹いて、夜には地震があって、ネットでは中国のウィルスのニュースが騒ぎになって、ずいぶん、世の末に接近しているような気分にもなる。

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それでも、世の中の流れとは関係なく一日中、制作に没頭している。週末も休日も関係なく、毎日、遊んでいるようなことを真剣に仕事としてやっている。それがしたくてこの生活を選んで、ライフスタイルをつくってきた。

社会に強制される人生計画に従わなくても生きていけることを提示したいと企んできた。つまり、レールの上を歩かなくても、レールそのものをつくって生きていけることを。

 

けれども「すること」は、真っ直ぐには進んでいかず、いくつもの誘引力によって不安定に歪曲していく。例えば「生きていく」ということに集中するだけなら、猫のように生きられるかもしれない。何も難しいことはないように思える。自然の恵みに従うだけだなのだから。

想像するのと実行するのには、雲泥の差があって、自然は、そう簡単に食物を差し出してはくれないし、地球のことを考慮しないプロダクトが流通し、不安と競争心を煽りぼくらの生活を誘惑する。

 

妻のチフミとの作品づくりの日々も、コツコツと表現していけば、それが何かしらのカタチで生きていく糧になるように思えるけれど、毎月幾らになるとか、年収が幾らとか、老後の貯金がとか、そういう未来的展望は約束されない。だから、死ぬまで働く覚悟でいる。死ぬ間際まで表現できれば「いきるための芸術」は完成する。そこに希望を託している。

何にしても、終わりも完成も、死んで目の前が消えてなくなるまでやってこそ、そのときに到達するように思う。つまり、ぼくは人生の頂上を踏んでその景色を見ることはできない。だから、ぼくのしていることを誰かに伝え続けて、死んだ後にでも、多くの芸術家がそうであったように、何かのカタチとして残るモノがあればいいと思う。こうして作っては考え、考えては作るを繰り返して、それでもやっぱりまだ足りない。

 

ウィルスのニュースに混じって、AIが手塚治虫のストーリーや絵を学習して漫画を描いている、という情報を見かけた。年末にAIが再現した美空ひばりが歌を唱ったことが話題になったばかりだ。きっとこういう話題は増えていくだろう。

生きているうちに働かなければならないのは、何かの償いだと思う。人間が働かないで生きていければ、どれだけ楽だろうか。環境も汚れないし、争いもない。いや、もしかしたら、食べ物も家も、服も生きるために必要なものに満たされても人間は争うのかもしれないけれど。

 

だとして、何のために死者を働かせるんだろうか、と思う。音楽では、作家の死後、未発表音源が発掘されてリリースされることがある。ジミヘンドリックスは、10年に一度は新作をリリースしている。この類は死者を働かせるのとはまた違う話で、1970年に彼の魂は消滅して、その時点までに燃やしたエネルギーで未だに輝いている星だ。

作家が作品をつくるのは、その命を燃やしているからで、その命は、日々の生活のなかで積み上げた経験や想いが作品として結実する訳で、それこそ生命のサイクルであり、頭上の星と言うことができる。植物が太陽と大地から養分を吸収しながら、枝葉を広げ、実りをもたらす果実にも例えられる。

だから、手塚治虫の漫画をAIが描くのは、枯れた木を媒介にして果実をもぎ取ろうとしているようで、そもそも本人の意思がない今となっては、まるで悪魔の囁きに操られているような、それこそ、ファウストメフィストフェレスの仕業のようだ。あらゆる欲望に心を奪われた迷妄のようで、そこに命も魂も感じられない。

 

他人の企みはぼくには関係のないことだ。いよいよ、世の中とはまったく別の方向に理想は進んでいく。流されるものの中に、流れに逆らって漕いでいく小さな舟のようだ。手造りの。手塚治虫という表現者が追求し提示した世界観の、ある意味、悪い方に予言が的中している展開になっていることに興味が湧いて、言葉にしてみた。

言葉にしてみれば偶然にも2月9日は、手塚治虫さんの命日だそうだ。「火の鳥」「アドルフに告ぐ」「ブッダ」「シュマリ」は、影響を受けた作品たちだ。手塚治虫さんが生み出した名作の数々と、その働き方に励まされると共に、まだまだやれると自分を戒める。

先人達の到達した頂きからの景色を鏡にして、自分の人生を照らし、明かりを灯し、希望として進むしかない。自分を表現することほどシンプルなことはないのだから。ぼくはまだまだ魂の燃焼が足りてないから、他人のことに首を突っ込む余裕があるわけで、まだまだ、もっともっと深く。

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失われた「祈り」/祭りを再生する試論

生きるための芸術とは、生きるための技術だと考えて表現してきた。けれども、もっと近くに対象があった。身体というツールを見逃していた。これを利用しなければ、いかなる道具も役に立たない。

身体を動かして生きることの大切さを実感している。誰かを働かせて自分が楽をしてもその誰かに苦が残る。自分が苦を取れば、相手に楽を残すことができる。今日やれることを今日のうちにやれば、明日には新鮮な今日がやってくる。とてもシンプルなことだけれど、複雑化した社会のなかでこれを実践するのは難しい。

人生をつくることは、日々の生活をつくることであり、毎日をつくることは、自分と向き合うことであり、自分の身体を動かして働くことである。その中心には身体がある。当たり前過ぎて、身体が不自由にならないと気がつくことができなかった。薄々は意識していたけれど、失ってみなければ、身体と真っ正面からは向き合えなかった。

 

身体が痛くなって、身体が歪んでいることを「整体」が教えてくれた。整体というと、何かスピリチュアルだったり宗教的な臭いがするような気がして今まで避けてきた。ヨガの方が身近なのかもしれない。けれども、施術してもらうと確かに回復したし、身体を整えくれたと実感できた。

整体とは、大正時代に広まった手技を使った民間療法のことで、西洋ではカイロプラティックなどの脊椎に働きかける手技をルーツに持つ。それに中国や日本古来の技などを独自に混ぜ合わせてきたハイブリッドな技らしい。

明治維新をきっかけにそれまで行われてきた占術や祈祷、修験道などによる民間療法を禁止したことによって、それらは別のカタチで社会に潜伏することとなった。整体は、それらの隠れ蓑となって、当時は、霊術家と呼ばれる人々が医療制度と技術の不備を背景にアウトサイダーとして行っていた。明治から昭和の初期にかけては、西洋医学では補えない何かがあると世間でも信じられていて、霊術家は黙認されていた。しかし、実体が掴めない霊術は、偽物も多くあり、似非宗教や詐欺の類もたくさん発生していた。

そのせいもあって、霊術に関する問題は増える一方で、第二次大戦後GHQに禁止されたことで、ほぼ終焉を迎える。

 

自分の身体を通して、整体と出会ったことと、いまの時代にすっかり失われている何かがリンクした。その何かを表してみたい。これは見えないものであり、実体のないもの、ときには迷信と呼ばれるものでもある。

人類が誕生して、自然のなかで、生き永らえていく過程で、理解も説明もできない現象ばかりだった。人間は偶然に身を委ね生きてきた。少しばかりでも、偶然の精度を高めるために祈るようになった。けれども何千年も続いてきた「祈り」は、現在、日本で暮らすぼくのライフスタイルの中には存在していない。

去年の春、バリ島に滞在したとき、人々は家の周囲の神々に祈りを捧げていた。その祈りは、周囲の弱者を救うという行動として実践されていた。ぼくが子供だった頃、1980年代には、まだ暮らしの中に「祈り」があった。今では、民俗学の本のなかで、かつての暮らしがどれだけ未知の自然に隣接していたのかを伺い知ることができる。

 

歴史好きの飲み談義に参加させてもらったとき、江戸から明治への転換期の話題になった。江戸期は日本は鎖国をしていたから、とんでもなく豊かな国で、戦争もないし、比較する対象もない閉ざされた平和な国には、独自の文化が自生していた。

ところが、この豊かな国を目指して外国がやってきた。ペリー来航として歴史には記されている。不平等条約とセットで習う。けれど、江戸幕府とペリーの条約は不平等ではなく、明治維新のあとに不平等条約をかわし直させられたのが事実らしい。その文献もあるけれど、歴史は勝者の都合で書かれているから、未だに真実は語られていない。明治維新は、幕府を倒すために薩長に資金と武器を提供した海外の支援で実行された、と。かなり端折った話ではあるけれど、江戸幕府は倒れ、明治時代になった。西洋文明が流れ込んできて、いろんな物事が西洋化していった。

海外を旅したとき、日本人であることを自覚したし、日本という文化を通過した表現をしたいと思った。それを再発見するために日本のあちこちに暮らしてみた。家ひとつにしても、その形態は変質していて、もともとは、自然由来の素材で身近にあるものを利用して建てられていた。この在り方が人類に共通する暮らしの起源だと言える。ヨーロッパでもアフリカでもアジアでも同じだった。だからぼくの表現は、これに従って身の回りのモノを最大限に活用して制作する。ルーツを遡って単純化していくことは、普遍的なアイコンへと記号化していく。生きるための芸術とは、表現を生きるための技術へと退化させることでもある。

 

生活というものを単純化していくなかで、つまり歴史を遡って原始/原子化していくなかで「祈り」というキーワードが復活してくる。身体と祈りは、繋がっていたんだと直観しているけれど、例えば「祭り」は祈りと身体がひとつの行為になっている。もちろん、身の回りに残っている「祭り」も祈りの部分は、かなり削られて儀式としてのカタチだけが伝えられているものが多い。

この文章を書きながら数日考えてきたけれど、ここから拾える要素は「祭りの再生」だろう。数年間、空き家を通じて家をテーマに取り組んで、その結果、自然の中の人間の暮らしがテーマになって、北茨城市の山間部にアトリエをつくり、地域を再生してきた。この先には、自然環境つくることで、その実践のひとつに神社の再生という目標が見えてきた。

 

特定の宗教を根拠とさせずに、もっとその根源へと回帰させたい。仏教もキリスト教イスラム教もユダヤ教ヒンズー教神道も、そのどれもが、人間を活かすためのテキストであり呪文のコードだった。

どんなお祭りをどのように復活させるのか。そこにどのような「祈り」を現代にインストールできるのか。

今日できたことが明日できなくなるとしたら。

時間も状況も流れている。変わっていく。同じところに留まらなければ物語が豊かになる。おかげでこの先何が起こるのか予想できない。それこそが「生きている」という感覚なのかもしれない。

 

今年に入って、芸術祭が始まって、制作が一段落したからなのか、左足首の動きが悪くなった。20年以上前に交通事故をした箇所だから理由ははっきりしている。問題は、この状態は続くのか、悪くなるのか、回復するのか。自分で自分の身体の状態が分からないから、とりあえず様子を見た。片足でジャンプすることができなくて、ストレッチしたり走ったりしても回復しなかった。

 

先週から左肩も痛くなって、整体に行った。いろいろある治療から整体を選んだ。

先生に「肩が痛くなって、その前に左足首が痛くて、もしかしたら関係あるんですか」と質問したら「身体だから繋がっているけれど、直接の原因になっているかは分からないね」と診察を始めた。

先生に左足首はどうなっているのか聞いたところ「骨盤が歪んで、足の左右の長さが違っていて、左足首は内側に曲がっている、きっと交通事故の影響だろうけど、20年近く積み重なって出てきた症状だね」と言われた。

 

27歳のとき、背骨を骨折したときに医者から「歩けなくなるかも」と宣言され覚悟した。それで、動けなくても働ける職業になろうと決意して、芸術家を目指した。だから覚悟はできている。左足首はその5年くらい前のことだから、身体と向き合うタイミングが来たんだと思った。

 

毎日読んでいるトルストイの「文読月日」に書いてあったことを思い出した。

ソクラテスは牢獄で言った。「ねえ君たち、苦と楽は実にうまく組み合わさっているね、牢獄で繋がれた鎖のせいでずいぶん苦しかったけど、鎖をはずされてみれば、ことのほか楽しい。きっと神は互いに対立する苦と楽を和解させようと思って鎖でひとつに繋ぎ合わせ、一方を経験することなしには他方も経験できないようになさったのだろう」

 

失ってはじめて、その大切さを知る。食べ物がなくなってその有り難さを知る。歩けなくなって歩くことの素晴らしさを知る。死んでから生きていることに感謝する?それでは遅い。この瞬間があることそれ自体が奇跡なのだから。

96年前祖母が生まれて、一昨日死んで。ぼくはこの世でまだ道半ば。道は未知。

母からの電話だった。

「横須賀のお婆ちゃんが亡くなったの」

驚きはしなかった。もう10年近く老人ホームにいた。でも、そろそろ会いに行こうと思っていた。数日前から肩が痛くて整体で診てもらっていた。肩の痛みと祖母が他界したことが自分の中でリンクした。

20代の中頃、占い師のマドモワゼル朱鷺ちゃんがウチに住んでいたことがあった。朱鷺ちゃんはタロット占い師として有名人だった。一緒にいたけれど、当時、ぼくは見えないものを信じていなかった。まったく。だから朱鷺ちゃんに「あなたは才能あるのに、見えないモノを見ようとしないから自分自身さえ見えてない」と言われていた。

朱鷺ちゃんは、風を呼んで公園の木々を騒わつかせることができた。静かな夜に突風を起こすことができた。今ならそう言うことができる。当時は、偶然だろ、と鼻で笑っていた。

死が身近になると、なぜか朱鷺ちゃんを思い出す。


ぼくはこれまでに3回交通事故に遭っている。1回目は小学校に上がる前、友達の家の前のスーパーマーケットにお菓子を買いに行ってクルマに轢かれた。頭蓋骨を骨折して入院した。2回目は、大学生のとき。彼女と自転車に乗っていて後ろから撥ねられた。足首を複雑骨折した。3回目は、28歳のとき、背骨を圧迫骨折した。毎回、意識を失った。目覚めると事故の後だった。起きた瞬間のことは覚えていなから、どこか別の場所に意識が消し飛んでいた。どこだかは分からない。

二回目の骨折のとき、足首をボルトで固定した。そのとき地球の気持ちになった。自然環境をアスファルトやコンクリートで固めて鉄筋でビルを建てることと自分の左足首の出来事がリンクした。ぼくの足首は近代化したと感じた。とても不自然な感じだった。以来、人間は、地球にとっての細胞のみたいな存在だと思うようになった。


祖母が亡くなって、お葬式に行くのに喪服がないことに気づいて、田舎暮らしだから30分くらいかけて隣のいわき市イオンモールに買いに行った。黒いスーツを選んで裾上げを頼んだら3日後と言われ、妻チフミが交渉したら2時間後になって、余った時間で本屋に行った。

棚を見ていたら「ひとはなぜ戦争をするのか」という薄い文庫をみつけた。1932年、国際連盟アインシュタインに「今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄を、いちばん意見を交換したい相手と書簡を交わしてください。」と依頼し、選んだ相手はフロイト、テーマは「戦争」だった――。

 

夜チフミと、ひとはなぜ戦争するのかについて話した。

チフミは

「もし他の国が攻撃してきて、仕事も無くなって家族を殺されても、それでも戦争は必要ないと言い切れるの?」と質問した。

ぼくは言った。

「そう考えるから戦争がなくならない。どんな状況になっても戦争はしない、そもそもそんな状況にしない、という強い意志があれば、戦争は起きないと思うんだけど。だって殺人は悪いことだと理解できるんだから。けれども、人間には欲があるから、それをコントロールしなければ争いはなくならない。だからフロイトは文化が必要だって言ってる。

不思議なのは、20年前、もしくは10年前の日本では、戦争は絶対に起してはいけない、と多くの人が信じていたはずだ。ぼくらは、戦争の反省の上に生きてきたのだから。それこそ、ぼくの祖母の世代は知っていた。そして話してくれた。何があっても戦争などという愚かなことをしてはならない、と。それなのに0.1ミリでも、戦争が許容される考え方が存在しているなんて、ほんとうにこの世界はどうかしている」

うちの祖母は福島出身だった。20歳でうちの母を産んだと聞いた。実は祖父の最初の奥さんが早くに亡くなって、その代わり嫁いできたのが妹だったうちの祖母だという話しを聞いたことがある。96歳で亡くなった。


交通事故の後遺症なのか、近頃、左足の動きが悪くてもしかしたら、このままだったらと不安に思いながらストレッチをしている。けれども、まだ足は動く。走ることもできる。何かを失って初めてそれがあることの大切さに気がつく。

そもそも、とっくにぼくは、死んでいたかもしれないし、歩けなくなっていたかもしれないし、そもそも生まれていなかったかもしれない。だとしたら、当たり前のように過ぎていく今日という日があることすら驚きに満ちている。走ることさえ、歩くことさえ奇跡に思える。祖母のおかげで、ぼくはこうして生きている。

ぼくも、そのうち死ぬけれど、もう少し何かを残せそうだから、頑張ってみます。さようなら、ありがとうございました。おばあちゃん。