いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

野生の芸術について(はじめてのメモ)

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何が起きているのかを考える時間にした。大切なことはいまの瞬間にある。いま芸術祭の開催中で会場を作品として展示している。そこで起きたことを記録すると雑多になるので、頭に浮かぶことを書く。

展示をしているときは、人と接するのが主な仕事になる。作品を作っていないかといえば、そうとも言い切れない。作品と鑑賞者の接点を作っている。接客の方法も創作できる。案内するための言葉を創造することができる。その新しい言葉で自分が作ったモノの説明をする。何度も説明するうちに言葉は洗練されてもっとも単純な説明に落ち着く。

「荒地と廃墟を再生して生活空間を作っています」

便器を芸術品にしたマルセル・デュシャンは「創造されたモノは鑑賞されることで芸術になる」という言葉を残している。ぼくはそれを「作品は鑑賞されて成長する」と解釈している。

つまり鑑賞された眼差しや言葉や感情が作品を洗練させて評価となって「芸術」と呼ばれるようになる。けれどもぼくは「芸術」という勲章が欲しい訳じゃない。生きていたいだけだ。だから、それを伝えたい。そのメッセージを。

「何のために?」

社会は黙って受け入れ従うだけでは、まず悪い方向にしか進まない。だから流されるものの中に流されない杭を打ち込むように、ぼくは作品にメッセージを込めて伝えようとしている。

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作ろうとしているのは生活の芸術で、生活空間のなかに芸術を出現させたい。それは新たなものではなく、今までもそこにあったのだけれど、表現することで、気づかなかったり見えなかったりするモノに光を当てて人の暮らしを豊かにしたい。大切なものは目に見えないし、測ることもできない。だから、芸術という表現もまた、そう簡単にはその本質を掴ませてくれない。常に時代や状況によって姿かたちを変えていく。

通常、芸術とは美術館やギャラリーのような保護された施設のなかに保管されている。人はそれを見て芸術だと理解する。そんな場所でしか芸術を体験することはできない、そうだろうか?

それでは動物園の檻のなかの動物を眺めて動物を理解しようとするようなことでしかない。動物は本来、自然の中に生きている。人間はそれを野生の動物と呼ぶ。同じように芸術にも、保護管理される前の状態があると考えることができる。それは何か。それは生まれたばかりの芸術。未だ芸術に成長していない何モノかの存在。それを拾いあげて、保護管理される前の生まれたままの状態で提示してみたい。つまりそれを「野生の芸術」と呼んでみようと思う。では野生の芸術とはどんなモノならそう呼ぶことができるのだろうか。

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例えば、今回の北茨城市で展示している作品「D-HOUSE」は土地、文化、人間、環境、廃材をコラージュした作品で、この土地に来なければ体験できない。この土地に足を踏み入れれば、風や太陽や雨や鳥の声やこの場所の光や匂いも含めて体験することができる。ぼくはこの作品にこの土地の環境を詰め込んだ。この場所は、本来、鑑賞されるために存在していなかった。この場所は、何百年も前に誰かが暮らしを作るために切り拓いた場所だ。その土地に何十年か前に運び込まれた鉄骨の住居、木造の倉庫、もしここにある廃棄物を整理観察すれば、この土地で何があったのかイメージすることができる。

 

「展示」ということは、何を鑑賞させるのか、その導線を作ることだ。人間を誘導する技術だ。予め「芸術祭の会場です」とアナウンスしておけば、人は何かを鑑賞しにこの場所にやってくる。芸術祭の会場だから芸術の一部だと理解することができる。けれども、たまたま、この場所に遭遇したなら、言葉にならない異様な印象を受けるだろう。このギャップに「野生の芸術」を言語化する余地がある。

これは「芸術です」と説明されるから芸術なのか、それとも説明もないままでも何か衝撃を受けるような強度があってはじめて芸術と呼ぶことができるのか、この違いを見つけて、どちらかといえば、後者に魅力を感じる。そもそも別に芸術でなくても構わない。目的は伝えることだから。

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木造の倉庫には、土地の再生で発掘した廃棄物を展示している。象徴となるアイコンは瓦礫だ。役に立たないゴミ達とは何なのだろうか。ゴミはゴミになる前、部品や道具の一部だった。はじめは何か役割を持って生産された。作ったのは人間だ。作った人間は生産したモノがどのような末路を辿るのか、全く考えていない。生産したものを販売してしまえば、責任は消費者に委ねられる。結局、生産者も消費者も、役に立たなくなったモノたちが「何処からやってきて何処へ行くのか」知る由もない。

人間が自分が生産したモノの末路を知りもしないのだから、人間を作った神様が人間の行き先を不明にしているのも、同じことなのかもしれない。そこまで伝わっているのか分からないけれど、ぼくは、この展示で、これを伝えた。

こうして消化されていない思考を日々の活動から掘り起こして言語化する作業こそ、日常を耕して種を蒔くようなことで、これが未来に芽を出し豊かさを収穫させてくれる。ブログはアイディアの畑だ。