いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

交わらなければ道が拓ける。

表現している。絵は、いくつもの偶然が重なって事故のように発生する。ぼくは絵描きではない。絵を描く以前にしていることがある。描く以前に行動がある。興味あることの奥深くに足を踏み入れたい。自分で考えたい。誰かの言葉や文章ではなく。「行動して考える」を繰り返して、踏み込んだ先の体験を文章にしている。そこに自分の言葉が現れる。それを表現している。

 

「生き方」を制作するようになって10年経った。成果と言えばこれに終わりがないことが分かった。だから迷いが無くなった。自分の進む道が決まって、見渡してみれば、世間は複雑になるばかりだ。その複雑さに巻き込まれないで俯瞰できる場所にいたい。

SNSは、似た志向の集合社会だから誤解や憎しみ、怒りも共感し増幅する。年末年始は妻チフミの実家に親戚が集まった。ときには政治の話にもなって、社会的な属性や世代が異なる人々は、SNSは比にならないほど様々だった。ある人は、ヘイト本を読んでいて韓国が嫌いだと言う。ある人は、消費税増税は仕方ないと考えていた。れいわ新撰組はカルトだと話す人もいた。

情報は、右からも左からも上からも下からも、あらゆる角度から耳に入ってくる。何を信じればいいのか、誰にも答えは分からない。

数日前から、アメリカがイランの将軍を殺害して第三次世界大戦に突入する、という騒ぎになった。ほんとうに狂っている。何を信じればよいのか分からないこの時代に、戦争が正義のような、必然のようなフリをして正当化するなんて狂気の沙汰だ。

ある人は言う。明日からイランの将軍はアメリカにとっての敵だとみんなが信じ込まされる。イランの将軍が誰なのかも知らなかった人たちが、明日からすっかり洗脳されて彼は悪人だと証言する、と。ある人は、イランの将軍は殺されるべき人物で、アメリカのおかげでわたしたちは一歩平和に近づいた、と言う。

 

携帯の向こう側はまるで世界中の様子が覗ける窓のようだ。でも、その窓の向こう側が現実とは限らない。だれかがどこかで聞いたり読んだりした歪んだ世界が広がっている可能性もある。現代は、現実を捉えることがファンタジーになってしまった。歪んだ情報社会に混ざらない純粋な現実を掴むことは、鉱物が結晶化して宝石になるほど貴重な眼差しだと思う。空想よりも現実、目の前のことにフォーカスできることがずっとクリエイティブだと感じる。

 

大切なことは、人間が欲深く、基本的には誤ちを犯している生物だということだ。

何千年もの間、戦争を繰り返し、何万冊という書物がその愚行を批判し、何億人もの人がその警告を噛み締め涙しても戦争はなくならない。もちろん、ぼく自身が何をしようとも、環境的には破壊への道を開拓している。人間なのだから罪を犯してしまう。だから人間は宗教を発明した。その基本に立って、生きる道を模索するなら、せめてもだれかのために表現して、その表現がだれかの道を照らすようにしたい。

何処へ向かっているのか想像できる。生きるために必要なものを輸入しないことだ。国に例えたら国内で可能な限り生産する体制を整える。つまり身近なところで生きるために必要なものを揃えることだ。「自給」という言葉では誤解を招く。自給自足がしたい訳じゃない。近所に米を作っている人がいるから、米は作らない。やりたかったら、その人を手伝う。野菜を育てるとしても、大根は近所の人が作っているから違う野菜を作る。顔が見える人にお金を払って生きていきたい。経済圏をつくる。生活に関するあれこれを交易して豊かさを創造する。経済は貨幣だけじゃない。憎しみや怒りや妬みの代わりに喜び笑い美しさを提供する経済もあり得る。

芸術とは一次産業だ。農業や林業や漁業と同じで、想像力という大地を耕してイメージを育み、作品をつくる。その作品は、空腹を満たすことはできないけれど、誰かの心や人生を満たすことはできる。

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廃墟を再生して、その中からイメージやカタチを抽出して、絵やオブジェや作品を制作している。絵を描くために絵を描くのではなく、生きるために絵を描く。伝えるために絵を描く。年末からタイヤで絵を描く試みをしている。廃タイヤに色を塗って、それでペインティングしている。思うように描けないのだけれど、そもそも思うように描く必要もなく、色とカタチがあればいい。そのカタチは、出来るだけ自然発生したものがいい。意図は要らない。狙った途端に自然は意図に変わる。役に立たないタイヤが描く線とカタチ。中にはどうしようもない絵も生まれた。なるほど見れば見るほど、良くない。けれど、それはそれで自然で、むしろ、自然とはそういうものだ。雑草は美しくない。そうだろか、雑草の生き方を教われば人生の師範になる。雑草とは何か。鑑賞しながら思考してみる。行動して考える。すると雑草にもそれぞれ役割があるように、失敗した絵も悪くないと思える。少しだけ手を入れてみると、物語が浮かんでくる。"D"からコンセプトを導いてDawn=夜明け。混沌とした絵の具の爆発は、夜明けが生まれる瞬間だった。そうやって絵は成長する。

 

世の中は、混沌としている。だから共感もしないし理解もしない。それぞれがバラバラで狂っている。その中に一筋の光が差して、一点の曇りもない空へと導く。

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