いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活芸術空間では、みんなそれぞれが生きるための芸術家。望む自分になればいい。

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毎日、新しい状況になっていく。自分が日々、取捨選択してきた結果が、日常に組み込まれていく要素たちが、生活にリズムを与えて、新しい生活圏に突入している。例えば、アートで生きていくと決めたことや、妻と一緒に作品をつくることや、北茨城の限界集落にアトリエを構えること、廃墟を再生すること、それらを選択して実行していくうちに、それらが結果的に食と住をもたらしてくれている。つまり、廃墟が家になり、その再生を喜んでくれる人たちが、食べ物をギフトしてくれるおかげで生き延びている。

仕事のカタチも新しくなっている。アトリエにしている古民家をツアーバスが訪れて、案内することで対価を貰った。飛行機の機内誌に北茨城のおススメのスポットを紹介して仕事になった。今自分がしていることを話すことでもおカネを頂いた。

けれども、していることの中心はおカネを生み出さない。その周辺に食べ物やおカネという生きるために必要なモノが付随してくる構造になっている。経済のカタチも新しくなっている。

 

北茨城市を拠点に暮らしているけれど、今、ぼくが体験していることは、一般的な北茨城市の暮らしではない。どこでもない、ここにしか存在しない一時的に作られた、土地に根付いた作品空間を生きている。これは、理想とする生活芸術空間を存在させている。奇跡的なバランスで成立している。

この一時的に自立している生活芸術空間は、公共であり、その背後にアナーキーな自由さが匿われている。反対から見れば、アナーキーでD.I.Yのインディペンデントな活動は、北茨城市が推進する芸術によるまちづくりの一環として、保護支援されている。公共と独立の両極に軸を持っているからこそ、既存の社会システムと距離を保ちながら、自由に実験に取り組むことができている。

この生活芸術空間では、人々も社会のレッテルから離れ、望む自分になることができる。ここでは、望む自分の役割を申告すれば、誰もが受け入れてくれる。

猟師のシゲ坊さんは、その道を極めたひとで、最近は廃墟再生の監督と呼ばれている。すみちゃんは、地域のアイドルで、彼女がいれば笑いが絶えない。昔ながらの料理をさせたら天下一品だ。地域の草刈りをしてくれるカセさんは、頼れる男で、古川さんは、ウナギ獲りの天才で、木を切る職人だ。

この一時的自立ゾーンで誰かと比較する必要はない。この狭い範囲の中で役割を持って活躍すれば、それでいい。広い視点で見比べれば、取るに足らない存在だったとしても、ここでは輝くことができる。みんなそれぞれが生きることの芸術家だ。

 

人間がその質と役割を自由に持てるなら、この地域の環境もまたその質と役割を新たにする。

例えば、先週までフィンランドからアーティストのヨハンナがこの集落に滞在した。彼女は、空港から直行でこの場所に来た。つまり、フィンランドから北茨城市里山にやってきた。彼女は下調べしないで、あれこれ知識を持たなかったおかげで、ありのままの地域を体験することができた。

 

それは純粋無垢に彼女の言葉で言語化されたこの地域の姿だ。彼女は、フィンランドの自然とは異なるそのカタチに驚嘆した。自然はここまで巨大なんだと。自分の想像を遥かに超える植生の豊富さに。彼女は、見えないモノを確かに感じ、見えることより見えないことの方が圧倒的に多いことを直感した。

 

彼女は、いくつかのスケッチを残してくれた。それは、この地域に暮らす人々にとっての日常の景色。けれども、それらがアートとして表現される表情を持っていることを、彼女は地域の人々にその眼差しをギフトする。地域の人々は、スケッチを通して、その魅力を発見する。これこそ、アートが持つチカラだ。

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出来事は、この地域での秘め事のように起きた。この地域では、今まで想像できなかったことが起きている。

 

想像したことを行動にして、それを積み重ねていけば、現実は想像世界に上書きされていく。自分自身も想像世界の自分に近づいていく。ピカソは「想像できることはできる。想像できないことはできない」と言っている。

 

映画や小説や漫画や、あらゆる物語の多くがディストピアばかりを描いて、なぜ、ユートピアがないのか考えてみた。ユートピアは想像できないから描けない。じゃあ、ユートピアは存在しないのか、と問えば、答えは意外なところに転がっている。ユートピアとは、何もない日常のことで、事件やニュースがない、そんな一日が既に幸せだ、と。ユートピアとは、生きていることそのものだ。つまり、今日明日明後日と過ぎていく一日、一日。すでにそれが素晴らしい。

 

もし、何もない一日に幸せを感じないのであれば、それは何かが間違っている。歪んでいる。ズレている。いずれにしても、今日、明日、明後日と連続する毎日にそれぞれの幸せの種はある。

それは「欲」に対する付き合い方で育むことができる。欲を育むのではなく、人間に憑いて離れない呪いのような「欲」との付き合い方を育てること。自分のためにしない、と言い換えることもできる。自分が欲することのために行動するのではなくて、誰かのためになることで、自分が欲することを行動する、それだけで話の展開は全然変わってくる。

 

例えになってないかもしれないけれど、水が毎日あるうちは、水に感謝なんてしない。その有り難さも知らない。けれども、水がない状況になれば、どんなに水が必要か、その大切さを知る。つまり、不足する状況に身を置くことが喜びへの近道だと思う。誰かに感謝できる心の状態が幸せなんだと思う。ぼく自身が生きるための芸術と呼んでいるものも、毎日変わっていく。感謝するべきことも、モノの視点も。ふとした瞬間に見えなくなることがある。だから、こうやって書きながら、その意味を確かめている。