いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

労働から逃走する、自立した経済圏のつくり方試論

首が痛いので、今日は本読みながら、ネットを探訪しながら、これを書いている。自分は動かずに思考を旅してみる。

 

生活のユートピアというのものがあるはずだと思う。けれども、映画や文学や漫画にしろ、どれもディストピアを描く。その方が興奮度が高いからだろうか。むしろ、ユートピアは、あまりに平和で何も起こらず、物語として起伏がなく「お話」にならないのかもしれない。だったら、それこそ傑作で、実は何もない日常こそがユートピアだと言い換えることもできる。想像してみよう。どんな生活を送ってみたいか、想像するところに価値が生まれる。

誰かの命令で働きなくない

好きなだけ好きなように働きたい

さっと頭に浮かぶのは「労働」について。特別に恵まれた育ちでない限り、これから逃れることはできない。ほとんどの人はそう諦めている。逃げるこから。ぼくは諦めない。なんとか逃走しようとしている。奴隷的な立場に追い込まれないように。人類は長いこと、奴隷制度を援用してきた。この悪夢はまだ終わっていない。

うえの2つの文章は、その観点からすると大きく異なる。どちらも労働を拒否してる訳ではない。誰かの考案した労働で対価を得るよりも、自分で考えた労働によって生き延びたい。そこに自由と労働の対極が現れる。

 

生き延びるーSurvive という単語は、「vive - 生きる」を「Sur - 超える」という意味を持つ。

つまり、産まれながらにして与えられた環境を受け入れるだけでなく、作り替えていく、それこそが「生き延びる」ことであり人生を創造することでもある。

例えば、友達に仕事はどうか、聞いてみたらいい。何十人にひとりはバカみたいに楽しいというヤツもいるだろうけれど、ほとんどは我慢してやっているだろう。どうして、不幸が創出されるような社会の仕組みが受け入れ続けるのか。それは今の社会を拒否して生きられる手段がないからだ。だからこそ、脱出しなければならない。脱獄のように。ほんの僅かな隙間を縫って、完全犯罪のように、社会からの逃走を成功させて、まるで何も罪を犯していないように、のうのうと生き延びてみせたい。

労働が苦しくて自殺するなんて、21世紀にもなって、そんな状況があるなんて信じられない。だったら逃げればいい。生き延びるために。いまの社会が提示する「生きる」を超えるような次の時代の「生きる」を模索して。

そのためには、逃げる対象が何なのかを知るべきだ。もしかしたら、それほどの相手でないかもしれないし手懐けることができるかもしれない。

 

「働く」の語源は「傍を楽にする」こと。つまり、他者を楽にすること。食べ物をつくること、猟をすること、山を整備すること、道をつくること、どれもが自分のためだけなく、家族や地域、誰かのために動くことだった。

英語にはwork,labour,jobと、働くことに関する異なる単語がある。workには、作品という意味がある。labourは、労働であり、難産という意味もあり、苦しい労働をイメージさせる。jobは、聖書に出てくるヨブと同じ綴りで、苦難を乗り越えて信仰を守ったように耐えて働く先に喜びがあるようなイメージがある。

 

語源から探ってみるだけでも「働く」ことが苦難を伴うことだったと分かる。言葉は時代によって、その性質と意味を変えてきた。つまり意味は増え続ける。ツリー状に根を張るように。歴史の下に埋もれたツリーを探索して、新しい働き方をwork=作品として社会に提示してみたい。それは常識の枠を超えて生き方を「制作」するアートへと成長していく。

失敗を繰り返しても、そのひとつひとつはステップで、だから共有して、高見を目指す。否。「高い/低い」いう尺度を目指すのは間違いだ。もう古い。更新していくべきだ。水のように自在にカタチを変えて流れるままに高いところから低いところへ、言い換えるなら価値が消失する境界線ギリギリの別天地を目指す。そこにはプラスでもマイナスでもないゼロの平地が広がっている。

地図をいくら眺めても、その平面な図像からは、起きている出来事、リアルタイムな喜びや楽しみは享受できない。だから旅をする。観光ガイド、書籍、あらゆる情報をシャットアウトして、偶然に身を委ねて、未知の惑星に不時着するように、別の場所を求めて彷徨う。もしくは生きるための技術を盗むためだけに職業を転々とする。

ぼくの場合は「移住」という選択になった。それは別天地でゼロから始めるということじゃない。地図上にマッピングして、点を増やしながら、独自の経済圏を創出する。出会った場所や人と交易するラインを地図に描き出す。一度持った接点は、ネットを検索するように人と出来事を人生を創出するためのツールとして呼び出すことができる。

 

まず、このゲームは生き延びるために「労働」をリセットすることから始まる。耐えられない暇を有り余る生きるための時間を何らかの活動に費やすこと。資本主義社会的な、いまの時代のやり方を拒絶して、別のことに没頭してみせる。決して怠ける訳ではない。サラリーマン、会社員のむしろ1.5倍、労働を拒絶する代わりに別の何かを徹底的にやる。これが「好きなだけ好きなように働く」。

休日はない。毎日、好きなことに取り組む。疲れたら休めばいい。この「好きなこと」に没頭できるようになったら、対象を微調整していけばいい。没頭している自分の好きなことが、微調整で誰かに役に立つ地点と接続できるなら「働く」の語源によれば、それはwork=作品として成立する。

 

こうして「労働」を担ぎ上げて、言葉を費やすのは、それが「自由」の対極にあるからだ。自由とは、英語のfreedomとlibertyからの訳語で、明治維新のとき福沢諭吉らに与えられた語とされている。つまり自由なんてモノはそれまで存在しなかった。西欧でも、特権的な貴族が持つ「自由」だけがあった。

ぼくは檻之汰鷲(おりのたわし)という名前で「檻のような社会からアートのチカラで大空を羽ばたく鷲のように自由になる」というメッセージを背負っている。

ここでの自由とは、フリーダムでも、リバティでもない。「自らに由る」という漢詩由来の意味を込めている。ここでの自由とは、自分から発せられる行為で、他者からの要求や依頼ではないこと。つまり、自発的にすることで生き延びること。自発し与えられている生きるを超えていく、現在の社会が要求するフレームを外れて自発したことが結果、誰かの役に立って、それが働きになること。これが檻之汰鷲が目指すところである。アートとはまず自発することで、未開拓な枠組を超えたところに表現して、枠の内側から覗く人々にその向こう側を垣間見せる行動だと言うことができる。

そのフレームは、遠くである必要も特別である必要もない。なんなら、身近な目の前のフレームを逸脱させれば、そこにアートを宿らすことができる。それが生活芸術という思考であり、表現方法でもある。

続く