いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

廃墟再生日記 その3

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朝起きて、寝るまでのたった一日が人の一生だったら何をするんだろう。きっと寝ることもなく、慌ただしく死を迎えるんだ。それでも花が咲いて、散って種を残すようなことは必要だから、きっと愛する人に会うのだと思う。そのときは、選ぶというよりも、必然的に出会い結ばれることになるんだろう、きっと。

 

「愛」という言葉は、遠い。その言葉が口から出てくることは少ない。ほんとうは、至るところに愛があるのだけれど、それは見えない。あるのだけれど、存在が遠くて、あるつもりでいたけれど、すでに消えてしまっているなんてことも起こる。

 

朝起きて寝るまでの1日をずっと妻のチフミと一緒にいる。二人で力を合わせて仕事をする人生を選んだ。疲れたときも、苦しいときも、楽しいときも一緒だ。チフミとイメージをカタチにする仕事を一緒にしている。その仕事を作ったのは、ぼくだけれど、自分に正直になるほど、商売とは離れていく。だから今では、それが仕事になるのかも曖昧だ。それは、心の奥底から湧いてくる情熱に動かされていて、山登りに似ている。次はどんな山に登るのかワクワクしている。季節とかタイミングとか出会いの必然によって、山を登るようなプロジェクトが動き出す。

 

どうやって2人でやるのか、と聞かれる。はじめのイメージはぼくがつくる場合が多い。コラージュする。それをチフミが色を塗って仕上げる。それを額装してぼくが仕上げる。絵の場合はシンプルだ。

 

家を直すときは、片付けをする。大抵の場合、ゴミが散乱している。控え目に言っても、チフミは片付けの天才だ。どんなにゴミが山になっていてもコツコツと片付ける。コツコツとやる作業は、波が岩を侵食するように、少しずつの変化で確実に結果を出す。

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ゴミとは何だろうか。ぼくたち夫婦は、できるだけ身の回りの環境を最大限に活用して、作品をつくる。できるだけ新しく何かを買いたくない。なぜなら、すべては最終的にゴミになる。ぼくたちが日常生活を送るとき、ゴミの行方は見えないようになっている。

 

家を再生するとき、ゴミと向き合う。空き家は、巨大なゴミだ。どうやって処理すればいいか分からない産業廃棄物だ。ぼくらは、よりハードな登山を楽しむように、空き家再生、古民家再生、廃墟再生と、難易度を高めてきた。どうやって、それを再生するのか、困難と向き合ってクリアする、これが登山に似ていて、社会問題をクリアしたとき、目の前にあった問題が利用価値ある空間になったとき、何かを達成する。

 

クルマを走らせていると巨大な風車が見えた。チフミが「あれはどうやって壊すんだろう」と言った。

「たぶん、壊すことを考えてつくる人はいないんだと思う。だって、家だってどうやって壊して、壊した材料がどうやって処分されるか考えてないんだから。原発だって同じでしょ」

ぼくは返事をした。

 

廃墟を再生するのに、市役所の清掃センターでも処理できないものをどうやって処分するのかを調べた。家庭用ゴミ以外は、最終処分場に運ばれる。ぼくらは軽トラックを借りて、荷台に、配管パイプやホースやら、どこからやって来たのか由来も分からない、行き場のないゴミを積み込んだ。最終処分場は、山のなかにあった。巨大なトラックが行き交う山道を小さな軽トラックで進んでいくと、それが現れた。

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ひたすらにゴミが集まってくる最終処分場。ショベルカーが運ばれてきたゴミを壊して積み上げていく。整地して丘がつくられ、その丘が連なっている。どこまで丘を作ったら終わるのか。永遠に続く殺風景。まるで別の惑星のようで、この世の果てだった。見えないところにある最終処分場は、ぼくたちに知られることなく、自然を切り崩して、未来に負債を積み上げていた。けれどもこの負債をコツコツと作っているのは、僕や君や彼らの今を生きるすべての人なんだ。

 

「世界を震わせた20世紀の芸術家たち」というドキュメンタリーを観た。1900年からはじまり、現代までの表現者が映像に収められていた。

トルストイチャップリンプレスリービートルズウォーホール、ほかにもたくさんの芸術家たちが映像のなかで動いていた。なかでも、トルストイが書いた「芸術家とは何か」という文章が心に響いた。

 

「芸術とは、一人の人が意識的に何か外に見えるしるしを使って、自分の味わった気持ちを他の人に伝えて、他の人がその気持ちに感染して、それを感じるようになるという人間の働きだ。

芸術によって、同じ時代の人たちの味わった気持ちも、数千年前に他の人たちが体験した苦悩も今に伝えることができる。

芸術は、今生きている私たちに、あらゆる人の気持ちを味わえるようにする。そこに芸術の務めがある。」

 

ぼくは、今この現実を愛している。妻チフミと一緒にいることや、北茨城市の小さな集落だったり、これまで出会った友達や先輩たちやこの環境を。だから、少しでも良い世界にしたい。「良い」とは何かという定義も曖昧だけれど、人間にとって「良い」という真実がある。芸術は、それを伝えることができると信じている。芸術がトルストイのいうようなものであれば、この小さなテキストも、きっと誰かに届いて、一匹の蝶の羽ばたきが、やがて巨大なハリケーンとなるような変化が起こる。だから表現することは、大きくても小さくても、明日を変える。