いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

すべてのメディアを閉じた純粋な空間にアートは宿る

SNSを見たくなったら英文を書くことをルールにしたら、ブログを書かなくなってしまったので、久しぶりにこれを書いている。

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日々の暮らしの中からしか生まれてこないことがある。しかも自分の中からだけ。ぼくは絵を描くことを仕事にしているから、創作と向き合うことが最重要課題だ。SNSは、誰かの頭の中や行動を覗くことはできるけれど、作品に繋がる要素はほとんどない。けれども人のことや悪いニュースを観察するのは面白くて、すぐに見てしまう。

人間は快楽に弱い。すぐに習慣化する。この習慣化をコントロールできれば、いろんなことを自由に操れるようになる。例えば「タバコを吸わない」と決めて、それを実行できる意思の強さがあれば、いろんなことに応用できる。同じように「5km走る」と決めて実行できれば、いろんなことを実現できる。

他人の頭の中を覗く無駄な習慣を自分の頭の中を覗く時間に費やせば、人生を充実させることができる。文章を書いたり、絵を描くことは、まさに自分の内側に源がある。こられも習慣化すると、文章を書かないと気持ちが落ち着かなくなったり、絵を納得いくようなカタチに仕上げていない時期が続くと不安になったりする。つまり創作中毒に陥っている。これは良い習慣化。

何かに特化したり、オタク化していくことは専門性を極めることで、生きていくために強い武器になる。同じ道を歩いている人間がいなければ唯一無二のオンリーワン。だから、それに対してニーズがあるとき、代わりがいないから、代表選手になれる。これは競争とは違って、他者と比べることでもない。比べるとするなら自分自身との勝負になる。

とても嬉しいことがあって、宇都宮美術館での水木しげるの展覧会でワークショップをやらせてもらうことになった。数ヶ月前にオファーを貰っていて、打ち合わせもしていたけれど、不安しかなかった。ひとつには「森の不思議をカタチにする」というテーマ。ワークショップだから参加者が、それを体感できるようにプログラムを考える必要がある。あとは参加者が集まるのか。せっかく声を掛けてもらったのに誰もいないのでは申し訳なさ過ぎる。

土曜日に宇都宮美術館に打ち合わせに行き、サンプルを見せたらとても喜んでくれ、ワークショップの参加者も充分集まっていると聞いて安心した。それでようやく、水木しげるの展覧会に参加できることを心から喜べる気持ちになった。

頭の中に、木を使った作品のイメージはあって、ほとんど手を加えないで作品として成立させる、それをやる機会を求めていたが、自分だけでは、とても単純過ぎて作品として許容できなかった。けれども参加者がいることで、誰でもできるという制限があることで、頭の中のイメージが現実のものとなった。生まれたカタチは「森の戦士」。男か女か分からない。そのフォルムには美しさがある。それが普遍的な美しさなのかは分からない。森の戦士は戦わない。その代わりに森に種を蒔く。人間が見てない隙に自然を拡大させる。

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頭の中のイメージは、トグロを巻いていて、そう簡単には取り出せない。それには訓練や技術が必要になる。その技術とは人それぞれだろうけれど、ぼくの場合は、メモすることと思い付いたらすぐに実行することだ。頭の中のイメージは、浮かんでは消えてしまう。消えたらもう戻らない。それがどんな傑作や画期的な発明だったとしても。イメージを捕まえる狩猟技術というのがたしかにある。

だから、アートは一次産業だと思っている。自分という大自然の中でイメージを捕獲する。その作業はどこで実践されるかと言えば、日常の中で行われる。作家は、美術館やギャラリーで作品を生み出すのではない。日々の生活の中でそのイメージは育まれる。その意味でぼくは「生活芸術」を唱えている。

ぼくらが生きている目の前の瞬間にこそアートは宿っている。だれかのイメージではなく、自分のイメージは、すべてのメディアを閉じた純粋な空間にこそ宿る。