いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

絵を描くこと。その意味を忘れてしまう。だから文章を書く。

絵を描いている。絵を描くことが生活の中心にある。これが理想だった。絵を描き続けるには、常にモチーフやアイディアが必要になる。続けるうちに、そもそも何のために絵を描くのか、という問いが生まれてくる。絵を描く以外にも生きていく方法はあるし、お金がすべてであれば、とても効率の悪いやり方だ。

この問に答えるのは、自分が歩いている道を確認することにもなる。ぼくは、どこから来て、どこへ向かうつもりなのか。

 

絵との出会いは音楽だ。レコードやCDの表紙が、アートへの入り口だった。音楽が好きで、いまもバンドをやっているけれど、絵を描くことの方が仕事になった。つまり絵をお金に換えて生きている。

絵を売りはじめるときに「贋金づくり」というコンセプトを作った。絵は貨幣だという考え方で。けれども、お札と違って毎回違うモノを作っている。お金を稼ぐためだけなら、同じものを作る方が効率がいい。じゃあ、なぜ、違うものをつくるような効率の悪いことをするのかと問うなら、こう答える。

「没頭するために」

 

没頭して絵を描くことは、遊びであり、描くという行為の追求でもある。ああでもない、こうでもない、これはこうしてこうなる、と物語、つまりストーリーをつくりながら絵を描くのが楽しい。好きなんだ。

技術的には上手くなくていいと思っている。むしろ、下手さのなかに魅力を感じる。子供が描く線に自然を感じる。無欲な。そうは思っていても、ぼくはもう大人だから、良い絵を描きたいという欲や、絵を売るとい狙いが、自分を惑わすことがある。描きたいから描くのか、描かなければならないから描くのか。

 

ぼくは、絵を描きながら、生活もつくっている。野菜を育て、家を直す。最近は新しい住居のために荒れ地を整地して廃棄物を片付けている。人が理想の暮らしをつくれるのであれば、そんなに幸せなことはない、そう思わないだろうか?

ところが、あれこれやっているうちに、絵を描くという行為を忘れてしまう。その目的とやり方を。

絵を描くたびに思い出す。そのために文章を書いて問い直す。シンプルな絵を描きたい。単純さを追求をしたい。ぼくは妻と二人で作品をつくっていて、妻はよく「永遠はないよ」と言う。つまり、それができていることが幸せで、残念ながら、永遠ではない。ぼくらは死ぬ。だから、妻と二人で協力してつくる作品ひとつひとつがぼくらの生きた道に残されていく。それが生きるための芸術ということだ。息をするようにただ、作品が生み出されていく。

その意味で、いまが大切だ。何か特別なことをしようと野心家になるより、日々の出来事を大切に表現する。それがぼくたちのスタイルであり、個性でもある。

 

この仕事の面白いところは、誰かに頼まれるからはじまるのではないところだ。だから自分の発想が何よりも優先される。妻と二人でやっているから、さらに自分の理解を超えて、それが成功なのか失敗なのか分からないこともある。ここに追求する道がある。成功も失敗もない。失敗から蘇る作品もあれば、瞬時に成功する作品もある。手をつけたすべてを存在させたい。それが檻之汰鷲のアートだと信じている。とにかく手を動かし、身体を動かすしかない。考えるより感じることだ。

発想の源は体験にある。何を経験したのか。身体的な経験が、ぼくらのアートの源、種になる。経験することの中に生まれた感動が、小さなことで感動できる心が、生活を豊かにする。ここに生活芸術というコンセプトの根がある。生活芸術とは、根だから見えない。地中に埋まっている。見えないけれど、しっかりとぼくたちの生活をつくり土壌となって、おかげで花のように作品が咲く。もし、暮らしそのものを美しくできるなら、ぼくたちの人生は、もっともっと豊かに変えられる。そこでまた、美しい暮らしとは何だろうか、という問いが生まれる。やっと美しさという言葉に問いが届く。

 

書くことは、更に一層、深く考えを掘り下げてくれる。こうやって、進むべき道を照らしてくれる。昨日の夜、久しぶりにお酒を飲まないで寝たら朝の4時に目が覚めて、これを書いている。