いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活をアートにできるのか。生活がアートになれば、アートはすべての人の幸福のために

いましてること。生活を芸術にしようとしている。それは絵を描くことを中心に豊かなライフスタイルをつくること。その生活のあり方がそのままアート作品でありたい。

芸術が生活になれば、生活は作品になる。つまり、毎日の営みがアートになる。理想はイメージできるけれど、その実態はどんなものか。理想と現実を把握するためにこれを書いている。文章を書くことは、地図を広げて現在地を確認することに似ている。ぼくは何をしようとしているのか。

 

生活とは、命を永らえるための活動のことである。つまり生きるための活動。生きるために必要なこととは何か。食料。水。これがなければ死ぬ。それから家。雨や寒さ暑さから身を守るシェルター。服。つまり衣食住。それからお金、仕事、友人。

それらがあれば全部オッケーの完璧か、と問えば、なんでもあればいいって話ではない。快適さや美しさや量を求める。

ところで美しさとは何だろうか。ダイヤモンドやサファイア、水晶、宝石は高価なもの。原石より磨いた方が美しいとされる。けれどもほんとうに美しいのか。その美しさは何の役に立つのか。

 

同じように美しい生活とは何だろうか。宝石のような暮らし。例えば、花は美しい。空とか夕焼けとか、海にも美しさを感じる。美しさは、人間と自然の間にある。自然を観察する人間の心がなければ、美しさは発揮されない。

手付かずの自然よりも、人間が手を加えた自然の方に優しさや愛おしさを感じる。手の加わった自然こそが、人間が生きるためにはじめた自然への働きかけではないだろうか。人類が生き延びるためにした工夫は、すべて自然を舞台に題材に素材としてつくられてきた。まさに衣食住のために。自然を切り拓いて、創り出された便利さに芸術を感じる。例えば道。例えば井戸。例えば田んぼ。例えば粗末な小屋。草を依ったロープ。

こうやって、はじまりの生活を想像する一方で、現在のぼくらのライフスタイルを省みる。もちろん、人それぞれ違うものだけれど、ぼくら夫婦の場合はこうだ。

 

いましていること。野菜を育てている。キャベツは青虫に食べられほぼ全滅。ぼくら夫婦は芯を食べてる。大葉、バジル、エンドウ豆、ジャガイモ、スイカ、トマト、小松菜、キュウリ、ズッキーニ。なかでも小松菜はとても優れていて、葉っぱを食べても、また葉っぱは生えてきて何回でも食べられる。しかも夏にも冬にも強い。だから小松菜は、種を採取してみた。ジャガイモは、イノシシの好物で食べられてしまったけど、畑を貸してくれているミツコさんが、植え直してくれ今、花が咲いている。枯れたら収穫できる。自給自足までは考えていないけれど、基本的な野菜を自分で作ることはできる。そうやって食べ物をつくることこそ、アートの始まりだったとぼくは定義したい。

 

家は、空き家を改修できるようになって、古民家をアトリエ兼ギャラリーに改修した。茨城県北茨城市の山の集落にあって、誰も来ないような場所だったけれど、自然環境が素晴らしく心地よいので、ここにアトリエ兼ギャラリーを構えた。理想は、ここを訪れた人たちが作品を買ってくれることだった。しかし、誰がこんな場所に来るのか。はじめて2年目。ところが、今月は、東京から来た方、沖縄から訪ねて来てくれた方が、作品を買ってくれた。理想を描けば、それはカタチになる。

 

アトリエ兼ギャラリーには庭があって、草刈りをするうちに、庭の美しさが見えてきた。草木は季節によって、咲かせる花の種類と場所を変える。柿や枇杷が実る。この自然環境は、誰かが作ったものだ。人間と自然の境界線、つまり、創造と自然の境い目がここにある。放置すれば荒地となって自然に飲み込まれる。手入れをすれば、古民家の庭となって心地よい環境を与えてくれる。

その眼差しを集落へと広げてみた。すると、荒地や廃屋が見えてきた。マイナスをプラスに変えられないだろうか。これが今のぼくらの制作現場の最前線。廃棄物と廃屋を再生させること。まったくギャラリーにも美術館にも収まらないアート。

美術館やギャラリーがあるからアート作品が存在するわけじゃない。アート作品と呼ばれる以前の想像が溢れて現実化した物体のいくつかが、ギャラリーや美術館に収蔵される。その物体が誕生したとき、理解を超えたエネルギーを放っている。これは何なんだ!という驚き。その輝きに言葉が与えられ、社会的な価値が与えられ、ようやくギャラリーや美術館に収蔵される。

 

収入は、絵が売れたお金、いくつかのデザインの仕事、それから北茨城市での芸術によるまちづくりの仕事。まちづくりの仕事は、地域おこし協力隊という制度から、給料を貰っている。

北茨城市に感謝している。これまで自称芸術家だったぼくら夫婦を芸術家として受け入れてくれた町。はじめて社会から芸術家として必要された。それまでは、パトロン的な理解者に奇跡的に巡り合えて生き延びてきた。北茨城市に受け入れてもらったことで、ぼくら夫婦は、社会のカタチを変える芸術を実践している。社会実験であり社会彫刻として。

ぼくは自分が特別優れた芸術家ではないと思う。むしろ、特別な才能はなくて、憧れと勘違いで猛進しているタイプだと思う。でも、社会のほとんどは特別な天才ではない。これまでの芸術は、特別な人たちに贈られるギフトだった。才能がない人たちには、届かないものだった。どうして、そこに線引きが要求されるのだろうか。芸術が豊かなものなら、それを分け隔てなくその喜びを共有すればいい。なのになぜ、芸術は高い位置から見下ろそうとするのだろうか。自ら、流れる水となって、居座り続けてきた位置からは届かない人々を潤そうとしないのだろうか。

ぼくは10代から30代、芸術が居座り続ける場所に憧れていた。今もそうだ。けれども、時代が変わりつつある。アートが社会に対して役に立たないのであれば、そろそろ、その椅子から引き摺り降ろすべきだと考えるようになった。権力者がずっと同じ椅子にしがみついて、社会を悪い方向へと変質させてしまうこと同じ構図が日本のアートにも当てはまる。芸術を生活のレベルまで引き摺り降ろして、もう一度やり直す。ルネッサンス。それでも、それは芸術と呼べるほどタフなのか。

その仕事をやり遂げるために、こうして現在地を確認している。芸術が生活になればなるほど、芸術は生活の中に溶けて消えていく。それでも、その無垢な姿を、生まれたてのような芸術の姿を捉えなければ、太古から続くアートの流れを復興はできない。妄想か現実か、自然と人間の狭間に生きるように、この道を模索している。