いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

してきたことしか反映されない。人生に。

友達がSNSに現実をもっと見た方がいいとネットのニュースをシェアしていた。つまり、世の中これだけ腐っているから、何か考えるなりアクションを起こすなりした方がいいというメッセージだった。

ネットのニュースは現実なのだろうか。面白い議論ができそうだ。ぼくは、インターネットの情報は現実ではないと思う。ネットで交通事故を報じてもぼくはそれを見てもなければ体験もしてない。ネットが戦争を報じても、ぼくはそれを見ても体験してもいない。

現実は目の前にしかない。そうやって線を引いてみたらどうか。SNSの投稿やニュースを現実から切り離すと、世界はぐっと狭くなる。限られた情報しかない。その小さな世界はどんなだろうか。退屈なのか、それとも楽しいのか、忙しいのか、クソつまらないのか。

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週末は北茨城市から東京へクルマで出掛けた。2時間30分ほど。遠くもないし近くもない。絶妙な距離感。目的は、来週末の岐阜県加茂郡で開催される野茶会にアートで参加する材料を仕入れるのと、以前マネージャーをやっていたバンドWRENCHのアルバムリリースイベントに遊びに行くこと。ついでに日曜日は、東京オペラシティで開催されているトムサックスの展示ティーセレモニーを鑑賞した。

 

野茶会では、布を使って旗を自然のなかに飾ってみようと考えている。戦国時代の旗みたいに。布は、軽くて大きい素材。風を利用できる。持ち運びに便利。日暮里の布問屋街で仕入れた。そのあと、髪の毛を切りに行った。原宿の美容室カーム。ここは、ぼくが絵を描きはじめて、まだどこにも飾ってくれる場所がなかったとき、絵を飾らせてくれた。それはもう10年以上前の話。カームの荒武さんは、SNSとかインターネットをやらない。けれども美容室に来るお客さんの話を聞いているから、その情報が飛び交っていてまるでSNSみたいな状況になっている。カームでおしゃべりすれば、それは風の噂のように友達の間に浸透していく。もちろん、荒武さんは楽しい話題や嬉しいニュースを広げてくれる。これは酒場や銭湯やコミュニティーを形成するような商売が担ってきた役割として、むかしからあったんだと思う。

 

12年ぶりにアルバムをリリースしたWRENCHはハードコアで重いサウンドにテクノの要素を融合させた、ほかにない音楽性を進化させ続けている。ポップな楽曲をつくることよりも、この世に未だ存在しない音楽を創造することを志向しているバンド。27年目だそうだ。ぼくはこのバンドのマネージャーをやりながら、表現することとマネージメントすることを学んだ。

リリースパーティーにはたくさんの友人知人が集まって楽しい時間を過ごした。アート活動を褒めてくれたり、頑張ってると声を掛けてくれたり、ぼくがやっているバンドが良いからライブを楽しみにしているとか、励ましくれる言葉をたくさんもらった。家を改修する仕事も2件ほど相談された。それが仕事になるかどうかは、まったく分からない。ぼくはノーエクスペクティションを基本スタンスにしている。つまり期待しないこと。未だない物事に期待を寄せて、現実まで盛り上がっても、それは架空の成功であって、何十年後の給料を数えて金持ちになった気分になるみたいなことだ。無駄な期待はしない方がいい。落ち着いて日々を楽しもうと思う。

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初台のオペラシティのトムサックスの展示は刺激になった。トムサックスは、3年前にニューヨークで滞在制作しているとき、ブルックリンミュージアムで開催されていた展示を見てファンになった。今回の展示は、茶道をテーマにしていて、利休的な伝統に従って、既成概念を破壊していて痛快な仕上がりになっていた。

ぼくがいまやっていることとは、少し違うのだけれど、これまで歩いてきた道とこれから進もうとしている方向性に自信が持てた。音楽を聴くのも本を読むのも映画を観るのも、アートを鑑賞するのも、すべて自分の活動の糧にするためだ。

体験が作品の材料になる。ぼくは生活そのものをアートだと証明したくて、生活を作品として表現している。けれども、生活と芸術を一致させることは、アートが生活のなかに溶けていくことでもあって、ときにカタチを見失ってしまうこともある。それでもそれを表現として成立させて、鑑賞できるカタチに仕立て上げなければ、生活をアートとして提示することができない。ここには、多少の無理矢理な強引さで、破綻していても、歪んでいても、間違えていても、目の前に出現させることで、未踏の領域をアートにする可能性がある。これは作品が生まれるずっと前の段階の思考。根は深く掘った方が実りがある。だからぼくはこうやって考えを巡らせる。この時間に意義がある。


心掛けとしてはこうだ。何かを買ってきて、それを生活の道具として使ってしまえば、そこに創造性はなく、ただの消費になってしまう。つまり、SNSをシェアするだけでは、社会を悲劇として鑑賞する観客でしかなく、それは現実を直視しているわけでもなく、むしろ目を逸らしている。

現実とは、あらゆる拡張を切断した生身の世界。この小さな世界では、誰もが責任を負っている。楽しくするも悲しくするも、主人の振る舞い次第。つまり自分の人生の王様であり首相でもある。それは国家でもある。貨幣を手に入れるための経済、食料自給の問題、人との付き合いとしての外交、生活を豊かにするための文化活動や娯楽、自然との関わり方、エネルギーについて、ぼくたちは、人生のなかで政治家になる必要もある。

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これは日記で、自分に起きた現実を書き起こしている。この現実をどうやって、明日明後日と続いていく日常に反映させ人生を作っていくのか、自分の思考と作戦会議をしている。

人生とはお金の問題じゃないし、自分自身がどうしたら独立して自由を獲得できるのか。どうして諦めることがあるんだろうか。明日死ぬとしたら、何をしたいと思うんだろうか。

 

作戦はこうだ。大地を開墾して野菜をつくる。廃墟を改修して、いま暮らしている限界集落をプレイスポットに改造する。馬小屋ギャラリーの一階を耐震構造としてのボルダリングウォールをつくる。竹を利用して筏と舟の融合した乗り物をつくる。穴を掘って採取した粘土で生活するための皿やコップをつくる。野外展示オブジェをつくる。去年作った馬のオブジェを移動して蔦を絡めてみよう。信じられないことに、これらのいくつかが仕事になって、いくつかが遊びであって、誰かを楽しませていて、おかげでこれらの活動のいつくかが未来には仕事になったりして、そうやって生き延びている。

尊敬する友達が言った。

「一寸先が闇に感じるってことは人生をクリエイトしてる証拠だ。安定するな。そのまま行け」

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